第三章① ソフィー&マクシム
ギィ……と軋む板の音。
それはまるで無音から生まれたかのようだった。
マテオの背後から、貿易船の影から三つの人影が姿を現す。
まるで最初からそこにいたような自然さで、彼らは無言のまま武器を構えている。
「マテオ、銃はちゃんと多めに持ってきたな?」
最初に口を開いたのは赤髪の男。気怠げな声とは裏腹に、腰のナイフに添えられた手の動きは淀みなく、隙がない。
続いて、金髪碧眼の青年が優雅な所作で降り立つ。
黒髪で小柄な少年は何も言わず、素早く甲板に着地すると、音もなくルキフェルの背後に立った。
その光景にマクシムは一瞬息を呑み、低く呟く。
「……五人。フランソワの残党って、こいつらか」
推察していたとはいえ、全員が只者ではない雰囲気を纏っていた。
周囲の海軍士官たちも自然と武器を構え直す。グウェナエルが低く唸った。
「こいつ一人でも手こずるってのに、同じ匂いのやつがあと四人もいるってか……」
その台詞にマテオは苦笑しながらも肩をすくめた。
「いやいや、勘弁してくれよ。あいつが化け物なだけで、オレたちはそこまでじゃないっての。マジで、勝手に格上認定されても困る」
だが彼の言葉とは裏腹に、衣服の間からは複数の銃が覗いていた。仲間たちもまた、各々が静かな威圧感を放っている。
その空気に、グウェナエルは無言でルキフェルの背後に立つ少年を睨みつける。
一触即発。だが、誰もがほんの刹那、状況を見極めようと息を潜めていた。
ソフィーは先ほど銃声を放ったマテオに目をやる。彼は船の縁に身を乗り出した姿勢のまま銃を構え、その銃口からはまだ煙が上がっていた。海を見ると、海軍船の横には一隻の小舟が波に揺られながら徐々に離れていく。おそらく、マクシムたちが船内を調査している間に彼らはこの小舟を使って隠れていたのだろう。
──気づけなかったのも、当然だ。いやだいぶ間抜けか。
「ていうか貴様ら、いつから船を近づけていた?!」
ダヴィットが苛立った声で問うと、マテオはさも当然といった様子で答えた。
「ついさっきだよ。お前らが無駄にギャーギャー騒いでる間にな」
サミュエルが淡々と追い打ちをかける。
「その割には大慌てだった様子だが?」
「うるせぇ!」
サミュエルの冷静な突っ込みに対してマテオは空になった銃を乱暴に放り投げた。甲板にカランと音を立てたその瞬間、こちらに乗り移った赤髪の男がケタケタと笑い始めたが、その目は一切笑っていない。
黒髪の少年と金髪の青年が静かに剣を構え、威圧していた。
「それに……敵が乗り込んでたの、なんで誰も気づかなかったの?」
メリッサが喚くが、グウェナエルは冷静な目で海賊船を分析する。
「盗まれた商船の特徴と一致。ズケズケと乗り込んだクズ二人と、まだ常識ありそうな三人……貿易商の目撃情報とも数は合うな。五人、これが残党の全容だ」
「おいおい、オレをあんな悪魔と一緒にするな!あいつはもう人間じゃねえ。ただの復讐の権化だぞ!」
「うるせえよクズの色男!ギャーギャー喚くな!」
「グウェナエル、煽るな!今は冷静に!」
マクシムが鋭く制しつつ、剣を抜き、深い傷を負った男——ルキフェルを睨む。
「こちらの話を聞く気がないなら、速やかに鎮圧するまでです!」
「望むところだ」
呆れたように一連のやり取りを眺めていたルキフェルが、淡々と応じる。
「俺たちは、そう簡単には倒れないぞ」
「……待て、今『俺たち』って言ったか? お前だけの戦いじゃねーのかよ!」
マテオの抗議は空しく、次の瞬間には甲板が争いの場と化していた。
ソフィーはとっさに木箱の陰へと身を隠す。
海賊たちの武器はカットラス。飛び道具らしきものは見当たらないが、その動きには隙がなく全員がしぶとそうだ。彼女の目の前で、火蓋が切られようとしていた――。
「手土産に、その腕一本もらっていくからッ!!」
怒声とともにペネロペの剣が宙を裂く。
目標は、目前の男——あまりにも整った顔立ちと、呑気な口ぶりで緊張感のなかった端正な男の左腕。その動きは鋭く、迷いがなかった。
ソフィーは思わず悲鳴を上げそうになりながら目をつぶる。
ところが、キィン! と金属がぶつかる重い音が響いた。……想像していた血飛沫や肉を裂く音ではない。違和感にソフィーはすぐさま目を開いた。
「——!?」
なんと、男は振り下ろされた剣を左腕で受け止めていた。
いや、正確には「左腕に装着された、金属っぽい義手」で。
「残念ながら、もうすでに失ってるんだな、これが!」
得意げな笑みを浮かべたマテオの袖口が裂け、陽光に照らされて鈍く光る機構が剥き出しになる。義手。予想外の異形にペネロペが瞠目し、後ずさる。
「ひ、人間じゃない……!」
「てめ、ズルくないかそれぇぇぇ!?!?」
隣で応戦していたジョルジュも、思わず情けない声をあげた。
マテオは笑いながら左腕をぶんと振るい、ペネロペの剣を弾き飛ばす。彼女は体勢を崩しかけながらも、咄嗟に受け身を取って転がる。
「悪ぃけどさ、これも個性ってやつなんで。じゃ、次はこっちの番な?」
マテオが短銃を懐から抜き、小気味よく引き金を引くとパン! という乾いた銃声が響いた。
ペネロペとジョルジュはそれぞれ左右に飛び退き、甲板に火薬の煙が立ち込める。
その隙に、マテオは一歩踏み込み義手でペネロペの腹部を突いた。衝撃で彼女が吹き飛び、背中から甲板に転がる。軽やかに回避したように見えたが、鋼の腕の威力は凄まじく、肋骨の数本は確実に持っていかれたような痛みが走る。
「ぺ……ペネロペ!!」
ジョルジュが思わず駆け寄ろうとするが、それを遮るようにマテオが義手の拳を振り上げる。
「おっと、そう簡単には行かせねえよ」
弾丸が尽きた短銃を地面に投げ捨て、今度は素手で応戦する構えを取る。にもかかわらず、その足運びと間合いの取り方は洗練され、まるで長年鍛錬を積んだ格闘家のようだった。
「へえ……なかなかやるな、お兄さん」
「お前もな。軽薄そうな顔のくせに、剣筋が読みにくい」
赤髪の男は片手に湾曲したカットラスを持ち、ふざけたような笑みのままグウェナエルに何度も斬り込む。攻撃は素早く、リズムが一定でない。しかし、着実に殺すための動きだった。
グウェナエルは全てを紙一重で捌く。だがその動きに段々と苛立ちが滲みはじめる。
「……お前、それ本気じゃないな」
「だってぇ、全力出したらお兄さん、死んじゃうじゃん?」
ふざけているようで、剣から伝わる圧は本物。刃を交えるたびに、グウェナエルの掌は微かに痺れ始めていた。
「このッ……動きが読めない……!」
「何者よ、あんたたち……っ!」
金髪碧眼の青年は優雅な所作で細剣を操り、リラを翻弄する。
一方、黒髪で小柄な少年は異様な静けさと素早さで、ダヴィットの死角を何度も突いてくる。
まるで影と光の連携。
リラの剣が振り下ろされた瞬間、金髪が華麗に交わし、その隙を少年が突いてダヴィットの背中に肘を叩き込む。
「ぐっ……! こいつ……戦い慣れしてやがる……!」
シャルルとメリッサが援護に入るが、それでも互角にはならない。連携の密度が違う。まるで、何百回とこの連携を繰り返してきたような戦いぶりだった。
マクシムと傷男——ルキフェルの姿が見えない。
ソフィーは木箱から身を乗り出し、船尾を目指して駆け出した。
スザンヌも彼女の様子に気づいて後を追う。
二人は甲板を走り抜けて階段を駆け上がると、息を呑む光景がそこにあった。
轟く雷鳴の下、雨に打たれながら交差する二つの刃。
戦っていたのは間違いなくマクシムと、あの傷だらけで残虐非道な男ルキフェルだった。
ソフィーとスザンヌは反射的に近くの木箱の影へと身を潜めた。
戦況は一方的だった。
マクシムが弱いわけではない。グウェナエルと共に訓練を重ね、実戦の場でも幾度となく剣を振るってきた彼が、今はただ防戦に徹していた。
だが、ルキフェルは次元が違った。
マクシムの剣は西洋剣術の結晶であり、無駄のない動きと正確無比な間合いで知られていた。だが、それら全てが、彼の前では通じない。ルキフェルのカットラスは重力を無視するように舞い、空間そのものを切り裂いているかのようだ。
剣というより、旋風。舞うようでいて、殺意だけは寸分の迷いもなく、雷の閃きのごとく正確にマクシムを追い詰めていく。
「……これが人間の動き?」
木箱の陰から見守るソフィーの喉が、ごくりと鳴った。隣に忍び寄ってきたスザンヌも言葉を失い、ただ雨の中で、剣と剣の交差する音だけが耳に焼きついていく。
マクシムは剣士としての冷静さを失ってはいなかった。刃の軌道、足運び、視線の動き。全てを観察し、何度もカウンターの機会を探った。だが、その「隙」は、永遠に訪れなかった。
ルキフェルの剣は、まるで感情そのものを宿しているようだった。彼の中に渦巻く憎悪が、研ぎ澄まされた刃となって具現化している。凶暴で、非合理で、それでいてあまりに美しい。
雷が海を照らし出すたび、その剣筋は一瞬空間から消える。
次の瞬間にはマクシムの肩口をかすめ、背後から風が斬りつけてくる。
——咄嗟に躱す。踏み込めば、罠。引けば、死。
マクシムのサーベルはまるで意志を持つように応じていたが、その軌道が乱れた一瞬。
「……!」
剣が、響く音を立ててひび割れた。ほんの小さなきっかけだった。雨粒のような斬撃の奔流に晒された結果、ついにマクシムの愛剣は限界を迎え音もなく刀身が折れ落ちた。
ソフィーとスザンヌが思わず息を呑む。
その瞬間、ルキフェルが身を翻した。二連の蹴り。刃を失ったマクシムにとっては、あまりに決定的だった。
「っ……!」
顔面と腹部を直撃した衝撃に、マクシムの身体が船尾の縁まで吹き飛ばされる。体を支えようとするも、腰が抜けるように膝から崩れ落ちその場に座り込んだ。
スザンヌが「隊長……!」と息を呑んだが、すぐに唇を噛みしめた。声を発したところで何ができるわけでもない。マクシムの誇りが、折れた刃と共に砕けていく瞬間を見るしかない。
「ここで終わるとは惨めだな、マクシミリアン」
ルキフェルは濡れたカットラスの刃を、礼儀作法のように自らの袖で拭った。その所作ひとつにすら、無骨な気品が宿る。雷鳴の閃光が、彼の顔の古傷を鋭く照らし出した。マクシムは膝をつきながらも顔を上げた。体中が傷だらけで、戦闘服のあちこちに血が滲んでいる。致命傷こそないが、呼吸一つごとに焼けるような痛みが走る。顔にはあの回し蹴りの痕が紫黒く浮き、唇は裂け、血が顎を伝って滴っていた。
「……残念ですが」
彼は口の中に溜まった血を地に吐き捨て、険しく睨み返す。
「こんな状況でも、僕はどうしても……生き延びなければならないんです」
「ほう……それで、見逃してくれとでも?」
ルキフェルは微笑とも嘲りともつかぬ歪みを顔に浮かべた。
「フランソワとは大違いだ。あいつがなぜ貴様を気にかけたのか……今となっては確かめる術もないが、少なくとも俺の敵ではない。だが、安心しろ。お前の命でしか償えんこともある」
雷光が空を裂いた瞬間、彼の瞳にはかすかに哀しみが過った気がした。だがそれも束の間、表情は容赦なく研ぎ澄まされる。
「十分痛ぶった。ならせめて苦しまぬよう首ひと振りで済ませてやろう」
カットラスが振りかぶられた。マクシムの体が条件反射のように動く。腰のスペアの剣を引き抜き、刃と刃がぶつかり合う金属音が、雨と風の中に鋭く響いた。
「……!」
ふたりの間に、一瞬の沈黙が生まれる。そして次の瞬間、マクシムが力強く踏み込み剣を押し返した。
雨が本格的に降り始めている。風が甲板を叩きつけ、帆が悲鳴をあげてはためく。天は荒れ狂い、雷光が二人の影を何度も浮かび上がらせる。
ルキフェルの剣は、まるで嵐と同化しているようだった。風を裂き、雷鳴のタイミングすらも計ったかのような動き。彼の踏み込みは音もなく、水たまりを蹴り飛ばしては軌跡を残す。その舞は、美しくも殺意に満ちていた。
一方でマクシムの動きには、風に抗う人間らしい重さがあった。己の鍛錬と理性に裏打ちされた、鋼の防御と致命の一太刀を狙う打撃。合理的、だが一歩でも誤れば即死する緊迫の応酬。彼は、何度も押し込まれながらも粘り強く食らいつき、わずかな隙を狙ってルキフェルの攻撃を受け流していく。
甲板に激しく波が打ちつけ、海水と雨が入り混じった水しぶきが視界を曇らせるが、彼らは一瞬たりとも目を逸らさない。剣と剣、視線と視線、そして執念と孤独――全てがこの荒れ狂う船上に、叩きつけられていた。
マクシムの胸に、かすかにひび割れた記憶が過る。
——なぜ、こんな化け物が……フランソワに選ばれた? なぜ、おれではなく。
その一瞬の迷いを、ルキフェルは見逃さなかった。
カットラスが奔る。剣先がマクシムの防御を弾き飛ばし、肩口にかすめて切り裂いた。痛みが稲妻のように走る。
「——ッ!」
再び斬撃が迫る。今度こそ、避けきれない。その時、空が割れた。雷鳴が真上で爆ぜ、凄まじい音が二人の世界を支配した。雨脚が一段と強くなり、甲板はほとんど水浸しになっていた。足元を取られる不安定な舞台の上でマクシムは呼吸を整えようとしたが、もはやそれすらままならない。
風が吹きすさび稲光が閃くたびにルキフェル——そうとしか呼べないその男の輪郭が幽鬼のように浮かび上がった。
マクシムは歯を食いしばりながら、なおも剣を構える。一撃、また一撃。剣戟が重なるたびに、腕に、脇腹に、肩に、無数の痛みが刻まれていく。受け止めたはずの打ち込みが、関節を通して内臓にまで響くような重さを持っていた。
「くっ……!」
低く唸るマクシムの足元が、ついにグラついた。その一瞬を逃さず、ルキフェルは回し蹴りを放つ。その動きに一切の溜めも、躊躇もなかった。轟音と共に横殴りの蹴りがマクシムの脇腹を撃ち抜き、彼の体は半ば宙を舞って甲板を滑った。仰向けに倒れ込んだマクシムの口から血が滲み出す。
「どうした、もう終わりか?」
ルキフェルの声は静かだった。感情があるのかも分からないほどに。
マクシムは体を起こそうとした。が、腕が震えて言うことを聞かない。左肩が脱臼している。膝も斬られている。呼吸をするたび、肋骨の一本が軋んでいるのがわかる。それでも、剣を落とすわけにはいかなかった。
「……僕は……まだ……っ」
刹那、またも突きが来た。避けきれない。鋼の閃きがマクシムの頬をかすめ、すぐに返す刃が脇腹を裂いた。マクシムはよろめき、剣を支えに片膝をつく。血が止まらない。
「殺す気がないのか……遊んでいるのか……!」
呻くように言ったその声に、ルキフェルがはじめて反応した。
「殺す? いいや。……お前のような名ばかりの英雄には、その死すら生ぬるい」
雨がさらに強く降り注ぎ、マクシムの視界が滲む。血か、雨か、それとも……。
また一閃。今回は剣ではなく、足の甲だった。
ルキフェルの鋭い蹴りがマクシムの手から剣を弾き飛ばす。カラン、と乾いた金属音がした。
マクシムの両膝が崩れ、ついに地面に崩れ落ちた。目の前には、自分を見下ろす傷だらけの男。その瞳は冷たく、底が見えなかった。
「こんな男が……大海賊の右腕であり、フランソワの息子か……」
ようやくその意味が実感を持って襲いかかる。
勝てるはずがなかった。何より自分は、この男を恐れている。
そのことを、今ようやく認めざるを得なかった。
「もう終わりだ」
ルキフェルが再び剣を持ち直す。
その刃が今度こそトドメとなるのだろう。マクシムの目が細くなり、口がかすかに動いた。
「……ルキ……フェル……」




