第三章② ソフィー
その瞬間、スザンヌが剣を携え木箱から飛び出す。
「させない!」
スザンヌが剣を振り上げる。だが、ルキフェルは一瞬で彼女の背後に回り込み、左手でカットラスを持ち替え、右腕で彼女の利き腕ごと身体を締め上げた。
海の轟音。風の叫び。だが、それ以上に支配するのは彼の気配だった。
スザンヌの手から剣が滑り落ち、木箱の陰へ転がっていく。
目だけを動かしてソフィーがそれを見た。息を呑む。だが、彼女の手は……動かない。
スザンヌは抵抗しようにも、既に気力を奪われていた。首筋に冷たい刃が当てられると、身体が一気に硬直し、膝をついて崩れ落ちた。
「その覆面の下……。見せてもらおうか」
フードをつまみ、静かに引き下ろす。濡れた髪が額に張り付き、スザンヌの表情が露わになる。
その時だった。ソフィーの視界に転がるサーベルの柄が入った。あと数歩。拾って振りかざせば、彼の背に……そう思った瞬間、胸の奥から何かがせり上がってきた。
——助けて、苦しい。やめて、やめて、もう、無理……。
押し込めていた声が、心の底から響いてきた。
あの夜の記憶。初めて人を刺したあの瞬間。殺意の重み。人の温度。全て蘇る。
ソフィーの手が震える。柄に触れられない。膝が崩れ、息が詰まる。
「ついてこい。殺しはしない」
ルキフェルの言葉に引きずられるようにスザンヌは立ち上がり、よろけながらも彼に連れ去られていった。嵐は一時的に止んでいた。空が少しだけ静けさを取り戻しても、ソフィーの心には別の嵐が吹き荒れていた。
「ソ、フィー?」
「隊長!」
ソフィーはすぐさまマクシムに駆け寄り応急手当てを早急に終えた。
その後、彼の体を支えながら急いで船尾から甲板へと移動する。その時だった。
「動くな! 全員、こっちを見ろ!」
怒号が空気を裂いた。振り返ると海軍船と海賊船の境目に、ルキフェルとスザンヌが立っていた。
ルキフェルの右腕にはカットラス。刃はスザンヌの喉元に突きつけられている。
甲板にいた者たちは次々と動きを止め、板の上の人質を見つめた。
フランス海軍の隊員たちは驚愕と怒りを露わにし、拳を握りしめる者、歯噛みする者もいる。
一方、海賊たちの表情は一様ではなかった。顔をこわばらせ、互いにアイコンタクトを交わしては、口をつぐんだまま沈黙している。
「これは交換条件だ。マクシミリアンをこっちに渡せ。そうすれば女を解放してやってもいい。……だが拒むなら、今ここで殺す」
カットラスの刃が、スザンヌの肌に押し当てられた。
ソフィーは呼吸を詰まらせ、マクシムの隣で立ち尽くした。彼を支えている手が震える。横目で見たマクシムの顔は怒りと悔しさに染まっていた。
そのとき、シャルルが無言で近づいてきてソフィーの隣に立った。
「……あれは、本気だ」
「隊長を狙ってる理由って、まさか……」
問いかけたソフィーにシャルルは低く。だが明瞭に言った。
「海賊の掟だ」
「……かいぞくの、おきて?」
「そう。どんな海賊団でも、暗黙の規律や規則ってのがある。フランソワの団には――確か、『同胞の命を奪った者には、同じ死を与えよ』という誓いがあったはずだ」
ソフィーは息を呑んだ。
「じゃあ……彼は、隊長にフランソワと同じ死を与えようとしてるの?」
「そのつもりだろう。だが、他の海賊たちは納得していない。見てみろ。あの醜悪な男だけが突出している。つまり……独断だ」
確かに。ルキフェル——シャルルの言う醜悪な男だけが、怒りを剥き出しにしている。他の海賊は戸惑い、迷っていた。
ソフィーは視線を板の上のスザンヌに移した。風に煽られた銀の髪。怯えた表情の奥に、かすかな誇りを残している。
「……でも、あの掟。もし本当にその通りなら……」
ソフィーは言いかけて、唇を噛んだ。
「フランソワは、確かに深手を負った。でも、彼は自分の意志で海へ飛び込んだのよ。誰にも殺されてない。自分で選んだ死に場所だった」
シャルルは眉を上げた。そして、ゆっくりと頷く。
「その通りだ。もし本当に掟に従うというのなら、同じ死を再現すべきはずだ。ならば、スザンヌを人質にして刃を突き立てる行為は、掟に背く行為でもある。奴は掟を語りながら、自分の私怨を優先しているに過ぎない」
ソフィーの目に、決意の光が灯る。
「シャルルさん、隊長をお願いします。……私、行ってきます」
「どういう意味だ?ソフィー、待ってくれ!」
マクシムの叫びも振り切り、ソフィーは隊員たちの間を駆け抜けた。甲板の床が波に揺れ、体が大きくバランスを崩すが、踏みとどまってなお走る。
そして、船の境目に立つスザンヌとルキフェルの前に……ソフィーは立った。
スザンヌが驚いたように目を丸くし、ルキフェルの目には怒気だけではなく、焦りと困惑が揺れていた。
それでも、ソフィーは退かなかった。
「スザンヌを解放して。彼女を傷つける理由も、隊長を渡す理由も、どこにもない」
「……なんだと?」
その言葉に、甲板がざわついた。隊員たちの怒声が飛び交い、剣を抜こうとする者も現れる。けれど、ソフィーの声はその中でも静かに、まっすぐに響いていた。
「フランソワが亡くなるところ、あなたは見ていないのでしょう?」
ルキフェルの目が細められた。
「爆発の前、男の悲鳴が聞こえた。お前たちに殺されたと思っていたが……違うのか」
「違うわ。彼は……自分で、飛び込んだの」
ソフィーの声が揺れないまま、静かに続く。
「深手を負っていたけど、それでも海へ逃げ切った。私たちの任務は生け捕りだった。でも彼は、それを拒んだの。捕らえられるくらいなら、自分で終わらせる。——それが、彼の選んだ結末だった」
ルキフェルの目がわずかに揺れる。だが、まだスザンヌを放さない。
「……自分で命を絶った? 何も言わずに? 何も残さずに……」
「ええ。逃げるためでも、絶望のせいでもない。誇りを守るために、彼は“誰の手にもかからず”に終わらせたの」
ルキフェルの目が細く伏せられた。
「だったら、なんで俺には……何も言わずに」
「きっと、あなたが止めに来るって分かってたのよ。だからこそ、一人で背負ったの」
風がうなりを上げ、船体がきしむ。だが、二人の視線は決して揺れなかった。
「……あなたは、誰かの命を奪うことでしか気持ちに決着をつけられないの?」
ソフィーの声に、怒りはなかった。ただ、まっすぐな問いだった。
「彼の死に、意味を持たせたかったんじゃないの? でも、それが誰かを殺すことでしか叶えられないなら……それは彼の最期を汚すだけだわ」
ルキフェルの呼吸が浅くなる。
「もうやめて。その手で、彼の願いまで壊さないで。あなたの怒りも悲しみも、わかるわ。でも、あの人は復讐なんて望んでなかった。それが、私がこの目で見た最期のフランソワよ」
風が強まり、波が甲板を洗う。
「……俺は、あいつの最期に……間に合わなかった」
低く、絞り出すような声だった。怒りでも嘆きでもない。ただ痛みだけがそこにあった。ソフィーは、はっと息を飲んだ。
「——だったら」
ルキフェルが、スザンヌからそっとカットラスを降ろす。
「その時の話を、少しだけ聞かせろ」
ソフィーはひとことだけ伝えた。
「スザンヌを返して。それが、あの人の誇りの続きだから」
ルキフェルは驚愕して暫く固まっていたが、やがて深いため息を吐くとスザンヌの肩をそっと押そうとした。
次の瞬間、突如として船体が急にグラッと大きく揺れ、全員の体勢が一気に崩れた。
雷鳴が轟く。雨が甲板を打ちつけ、風は帆を裂かんばかりにうねった。二隻の船体は激しくきしみ、波に煽られ、少しずつ離れていく。
「撤退だ! 全員引き上げろ!」
怒号が飛び交い、船上の人間たちは各々の判断で命を守ろうと動き出す。
海軍も、海賊も、この瞬間ばかりは関係ない。
ただ生きるための行動だった。
その時だった。またもや大きな横揺れ。船体が海に傾ぎ、ついに一人の女性の体が滑った。
「スザンヌ——!」
縁に立っていた彼女がバランスを崩し、宙へと投げ出される。
甲板の者たちは叫ぶ間もなく、ただ自分が生きることに夢中だった。——ただ、一人を除いては。
ソフィーが声にならない悲鳴を上げかけたその瞬間、スザンヌの身体を横から支えた者がいた。
ルキフェル。彼は反射のように右腕でスザンヌを抱え込み、もう片方の手を船の縁へ伸ばした。雨に濡れた木の手すりに指をかけ、全体重を預ける。足元は空。荒れ狂う波と風が、ふたりを海へと引きずり込もうとする。けれどルキフェルの顔に焦りはなかった。その翡翠の瞳には、怒りでもなく憎しみでもない。
——決意が宿っていた。
刹那、船が再び近づいた。挟まれる前に、ルキフェルは決死の覚悟で船壁を攀じ登って海軍船に乗り込んだ。腕の力だけで、自分ともう一人の命を支えきった。嵐の中、誰もその光景をはっきりとは見ていない。
ソフィーだけが見ていた。誰にも伝えられない。誰にも証明できない。
だが、確かにそこにあった……命を奪う者の「命を救う選択」。
彼の瞳に宿った、迷い。その一瞬を、彼女は一生忘れることができない。
ルキフェルはぐったりしたスザンヌの体を両腕に抱き上げ、壊れ物を扱うように彼女を甲板に寝かせた。スザンヌの様子を見るに意識を失っているようだ。いつから気を失っていたかはわからないが、恐らく海に投げ出されそうになったあの瞬間だろうか。ルキフェルの表情はよく見えないが、彼は暫くスザンヌの様子を伺っているようだ。
ソフィーが彼に声をかけようと思ったその時、雷鳴を裂くように一発の銃声が響いた。土砂降りの雨の中、誰かが短く叫ぶ声がする。音の出所を追えば、甲板の片隅に黒髪の少年——コリンが、左腕を押さえてうずくまっていた。
「そんな……コリン!」
ルキフェルが駆け寄ろうとした瞬間、視界の隅で誰かの気配が動いた。彼の視線が鋭く横を向く。
煙を上げる銃を手にしていたのは、シャルルだった。
「ソフィー。ご立派な判断で、スザンヌ嬢の命を救ってくださいましたね。まさか嵐がもう一度来るとは、我々も想定外でしたが」
静かに、シャルルが笑った。片眼鏡の奥で、冷たい光が揺れている。その口元がさらに歪む。
「ところで君に教えた、あの掟。覚えているかな? フランソワ海賊団の『同胞の命を絶った者には、同胞と同じ死を与えよ』というやつ」
「……なんだと?」
それを聞いた瞬間、ルキフェルの声が低く唸った。
「俺たちの間に、そんな規則は……存在しない」
ソフィーの足元から、血の気が引いていった。
一瞬、自分の耳を疑った。——けれど、現実だった。
まるで悪戯を打ち明けるように、シャルルはあっけらかんと続ける。
「そう、そんなもの最初から存在しないよ。船上生活には確かにルールは必要だけれど、『報復』なんて過激な項目は、どこを探してもない。でもまあ、君はうまく信じてくれたね。『そういう話があるはずだ』って言っただけだったのに。勝手に誤解して、勝手に動いてくれた」
その笑顔は、愉快で残酷だった。
反論しようと口を開きかけたその瞬間、ソフィーの背中に殺気が走る。
傷男が、彼女の方へとゆっくりと振り返っていた。雨に濡れた髪の奥で、目が光っていた。理性の皮を剥がしたような、獣の目だった。その瞳が怒りと憎悪でギラついているのを見て、ソフィーの喉は言葉を失った。
「……俺を、嵌めたのか?」
濡れた髪を額に貼りつけたまま、ルキフェルが呻くように問うた。その声音には怒りよりも、信じたものに裏切られた痛みが滲んでいた。けれど、シャルルはソフィーを見もせず、静かに彼の言葉を受け流す。
「孤狼の海賊よ。君はなぜ、隊長の命を狙う?」
「……愚問だ」
ルキフェルは睨みつける。
「だったら俺が、そのくだらない掟を全うしてみせようか? 船長の命を奪ったなら、首領の命で償う。それが当然だ。他に言うことがあるなら、さっさと口を開け」
シャルルが小さく笑う。だが、その横でグウェナエルが一歩、前に出た。
「ならば、俺からも言わせてもらう」
彼の声は淡々としていた。怒りも焦りもない。ただ一つの明確な意志だけが、氷のように刺さる。
「金輪際、俺たちに関わるな」
それだけを言い放ち、グウェナエルはソフィーに視線を向ける。初めて、真っ直ぐに。けれどその目にあったのは、哀れみでも怒りでもなかった。まるで粗末な道具を見下ろすような、冷たい無関心。
「……それが、マクシムの望みだからだ」
その言葉に、ソフィーは一瞬息を呑んだ。けれど、すぐには言葉が出てこない。
望み? 何のことだか分からない。だが、彼の口調には何の誇張もなかった。
グウェナエルは続ける。
「俺が守るのは、マクシムだけだ。あの人が見ている先のためなら、誰を切り捨てようと構わない。仲間も、命も、そしてお前も」
まっすぐな断言だった。
「……マクシムは理想を信じてる。それを邪魔するものを、俺は許さない。お前は、自分の正義とやらでそれを踏みにじった。……それだけだ」
その瞬間、ソフィーは理解した。
自分は最初から、守られる側ではなかったのだと。
信じていた味方が、自分の正義を妨害と断じて切り捨てようとしているのだと。
心が、軋んだ。身体が、がくりと揺れる。もう立っているのもやっとだった。
「ショックで口が利けないところ悪いが、おしゃべりはここまでだ。海賊の方は今ここで……」
グウェナエルが懐に手を差し入れた瞬間、ハッとしたように顔をしかめた。
「……あ!? 銃もナイフも誰かに渡しちまった!」
その言葉が終わるより早く、目の前に閃光が走った。
鋭い金属音と共に飛び込んできたのは、炎のような赤髪の男。その剣はまっすぐグウェナエルに向かい、激しい鍔迫り合いが始まった。
「ダサいねえ! 少しは骨あるかと思ってたのに、道具がないと何もできないなんてさ」
同時に、シャルルの前にはいつの間にか金髪の青年が立ちはだかっていた。
「それだけ隊長ってやつには、命を張る価値があるんだ?」
皮肉とも本気ともつかない言葉を投げると、シャルルはただ薄く笑った。肯定も否定もせず、淡々と相手を見返している。
「お前も、あの男と同じく隊長を狙っているのか?」
グウェナエルが赤髪の男に問いかける。鍔迫り合いは次第に押され、赤髪の男が一歩後退させられる。だが、そのアンバーの瞳は興奮に煌き、獲物を見つけた獣のようだった。
「いや、単純に君のこと…虫酸が走るほど嫌いなだけさ」
交錯する剣と怒気。シャルルと金髪の青年は、互いに剣を構えたまま動かなかった。視線だけが交差し、言葉は交わされない。
場の空気が張り詰め、いつ血が流れてもおかしくないが、その瞬間、再び船が激しく横揺れした。船体が軋み、甲板の者たちが体勢を崩す。
「お前ら、早くこの場から逃げるぞ!」
マテオはコリンを両腕に抱えて海賊船に乗り移った。その声に呼応するように赤髪と金髪も大慌てで海軍船の縁を蹴った。
「ルカ、諦めろ」
海賊船からマテオが呼びかける。
ルキフェルは悔しさを滲ませた顔で舌打ちしたが、剣を収めて海賊船に向かって飛んでいった。戦闘どころの騒ぎではない。海軍船が嵐の波に押されながら必死に進路を変えようとしていた。何度も傾く船体。
ソフィーは縁を掴んでいたが、大きな揺れにバランスを崩し転落寸前まで身体が宙に浮いた。落ちる、と思った刹那、指先が船の縁を捉えた。
「飛び移れッ!」
海賊船側から誰かの叫びが響いた。反射的に振り向いたソフィーの視界に、海賊船のシュラウド——ロープ梯子が映った。間近に迫る二隻の船。届くかもしれない。
「無理じゃない……届く……!」
息を呑み、思い切って船壁を蹴った。ロープに飛びつき、掴んだ。ずぶ濡れになりながらも、必死で縄梯子にしがみつく。波が荒く船底を打ちつける中、ソフィーはなんとか海賊船の縁によじ登ることに成功。そこに、船体が悲鳴を上げるように軋みながら二隻の船が再び近づいてきた。
「……もう一度、行ける」
甲板から見える海軍船は、ぐらりと揺れながらも再び目と鼻の先まで接近している。
ソフィーは体勢を整え、覚悟を決めて足を踏み出した、その時だった。
目の前に、ずぶ濡れになったマクシムが現れた。髪を額に張り付かせながら、彼女をじっと見下ろしている。その瞳には哀れみと、怒りとも軽蔑ともつかぬ、苦々しさが滲んでいた。
マクシムはぐしょ濡れの髪から水滴を滴らせたまま、縁で立ち尽くすソフィーを無言で見下ろしていた。彼の肩は荒れ狂う風に揺れ、うっすらと血が滲む。——負傷しているが、そんなことも忘れるほど、ソフィーの心は揺れていた。
「隊長……!」
思わず声が漏れた。先ほどのすべてをなかったことにして、ただ純粋な想いだけで彼の名を呼ぶ。
「隊長は、私のことを見捨てませんよね? 期待してるって……そう言ってくれたじゃないですか……!」
ソフィーは縁から身を乗り出すようにして必死に訴える。だがマクシムは微動だにせず、ただ静かに彼女を見下ろしていた。その眼差しには、怒りでも憐れみでもなく、言い知れぬ苦悩が浮かんでいる。
「あなたに……ここは似合わない」
ぽつりと、まるで呪いのように落ちたその言葉。ソフィーの胸が締めつけられる。
「僕の部隊にいたからって、正しい人間になれると思わないでくれ」
そしてその声は、酷薄なほどに冷たい。ソフィーは信じられないというように首を振った。
「なにを……言って……」
マクシムは一歩近づき、両手を伸ばす。——その両腕は迷いも躊躇いも超えて、ソフィーを抱きしめた。冷たい雨に濡れた身体を、自分の胸に強く引き寄せる。
まるで、何かを刻みつけるように。まるで、もう二度と抱けないと知っている者のように。
「許してほしい。君には…ここにはない別の人生を生きてほしいんだ」
その声だけが、ほんのわずかに震えていた。
次の瞬間——マクシムは彼女を引き剥がし、そして海賊船へと突き飛ばした。
「っ——!」
ソフィーの身体が無残にも船の縁に叩きつけられる。甲板に頭を打ちつけ、そのまま視界がかすんでいく。意識が沈む最中、遠ざかる彼の背中を追おうとして、手を伸ばしかけた。
——だが、それも届くはずはなかった。
最後に残ったのは雷鳴と、彼の瞳に宿った痛みだけだった。




