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第二章⑤ マクシミリアン隊

 アニータとソフィーは船医室に戻り、万が一に備えて医療器具を鞄に詰め込んでいた。

 二人の手が止まったのは、甲板のほうからざわついた声が聞こえてきたときだった。

 何か異変が起きたのだと察し、顔を見合わせるとすぐさま医療具一式を携えて甲板へと駆け出す。

 外に出てみると、隊員たちが沈鬱な表情でぞろぞろと警護船から本隊の海軍船へと戻ってくるところだった。血の臭いが風に乗ってまだわずかに残っている。

 ソフィーが目を凝らすと隊員の様子がどこか落ち着かない。

 調査の末に得られたのは、救いようのない事実だった。

「……っ! 見ろ!」

 グウェナエルが叫び声を上げる。

 全員がグウェナエルの言葉に反応してすぐさま視線を彼と同じ方向に走らせた。

 自分たちの海軍船の反対側、そのすぐ隣にいつの間にか一隻の貿易船が横付けされていた。

 帆を下ろして、動いていた形跡はある。だが、声はしない。旗も掲げていない。あまりに近い。

 これでは、まるで自分たちの船を左右から挟み撃ちにするような位置だ。

「……いつの間に、あんなところに……?」

 サミュエルが呟いた。風は止んでいる。空気の温度だけが急に一段冷えたように感じられた。

 沈黙の中、誰もがこの不自然な状況に言葉を失っていた。

 その船はマクシミリアン部隊の船よりはやや小さく、確かに少人数の海賊が生活するには打って付けだ 。

「報告にあった貿易商の船と特徴が一致します。直ちに調査の指令を!」

 ロザリーの緊迫した声に呼応するように他の隊員たちも頷く。

 マクシムは急ぎ調査をするため自ら貿易船に乗り移り、他の隊員たちも続いていった。

 しばらくした後、隊員たちが神妙な面に苛立ちを抱えてぞろぞろと海軍船へ帰還。

 発見された小型ガレオン船には誰ひとりとして乗っていなかったという。

 遺体もなく、乗員の痕跡もない。だが船内には数日分の食料と飲料水が揃っており、床にはわざとらしく焦げ跡が残されていた。

 まるで誰かが「この船は急ぎ脱出されたものだ」と見せかけたようだ。

 どうしたものかと船上では緊迫した空気が張り詰めていた。

「まさか幽霊船ですか? 今時」

「いや、そんなはずないでしょう」

 シャルルの発言を嗜めたマクシムは苛立ちで歩きながら悪態を吐き、リラが宥め他の隊員達はがっかりして各々で羽休めをしている。

「なんで僕たちを試すようなことをするんでしょう?」

 マクシムは甲板に立ち尽くし、目の前に静かに佇む貿易船を睨みつけた。潮風に髪がなびくが、それにすら苛立ちを覚える。

「警備隊は壊滅、死体の山だってのに……戻ってきたら今度は貿易船が偶然隣に並んでました、ですって? 何の冗談でしょう」

 彼の声は低く、地の底を這うようにくぐもっていた。拳を強く握りしめる。軋む音が聞こえそうなほどだった。

「次は、僕たちが見えない敵に殺される番?」

 マクシムは目を細め、空っぽの貿易船のほうへちらりと視線を送る。

「死体すら残さずに消える幽霊がいるなら見てみたいもんですよ。でも、現実の化け物のほうがよほど厄介ってことか」

 唇を噛み、吐き捨てるように言った。

「……ああもう、腹立つ」

「隊長、ここにいても具合を悪くするだけです。ここは一先ず報告のために港へ停泊しませんか?」

 リラの言葉に耳は貸さず、マクシムは足を止めてぶつぶつと呟いた。

「このことは直ちに本部へ報告する。……それにしても、だ。あの人数が船内を彷徨っていたのに、生き残りも主犯格も……」

「まったく見つからない。あまりにも不自然です」

 リラが鋭い声で言う。誰も気づかぬうちに眉をしかめていた。その時だった。


「あのー、お話はもう終わりでしょうか?」


 若く快活で、よく通る青年の声が辺りに響いた。

「まずは応援を待ちます。そして」

 マクシムが言いかけて、ふと眉を寄せた。

「今、しゃべったの誰ですか?」

 全員がジョルジュを振り向く。

「え、いやボクは何も喋っていませんよ!」

 焦るジョルジュに視線が集まる中、グウェナエルだけが空気の異変を感じ取った。

 ——来る。

「——上だ!!」

 グウェナエルの声が甲板を切り裂くように響いた。

 次の瞬間。帆桁の上から、フードを深々と被った一人の男が宙を裂いて飛び降りた。ローブの裾が風に翻り、その動きはまるで獣の跳躍。手には長身のカットラス。

 全身の体重を乗せて、その剣はマクシムの頭上を目がけてまっすぐ振り下ろされた。

「マクシム、避けろッ!!」

 甲板に立っていたグウェナエルが叫ぶ。しかし、その声よりも速くマクシムの足が動いた。とっさに後方へ飛び退いたことで、男の斬撃は空を切る。

 遠くで雷鳴が轟く。謎の男は着地と同時に重心を崩さず、鋭く床を蹴った。

 グウェナエルが踏み込み、抜き放たれた刃が真横から薙ぎ払う。だが、男は受け止めない。膝を抜くように体を低く沈め、胴をしならせて攻撃の軌道を滑るように回避する。重心はぶれない。軸を保ったまま、するりと動き続ける。

 マクシムもすかさず抜刀した次の瞬間、男は踏み込みを深くして空を舞っていた。

 鮮やかな空中回転。瞬く間にマクシムの頭上を飛び越え、勢いを殺さず斜めに飛び移るような跳躍をもう一回お見舞いして船の舳先へ降り立つ。着地の音すら立てず、フードの奥の顔はまだ誰にも見えない。

 その場にいた誰もが追いつけなかった。マクシムも、グウェナエルも、そして隊員たちも。呼吸すらわずかに遅れた。

「誰だ、あれは……」

 グウェナエルが呆然と呟いた。謎の男はゆっくりと立ち上がる。その手には剣。だが、今は刃を向けない。ただ黙って舳先の影に立ち、風に煽られながらじっとこちらを見据えていた。

「マストから奇襲とは、驚きましたな……! 一体いつ忍び込んでいたのか……ふふ、なかなかやりますね!」

 シャルルが肩を鳴らし、剣の柄に手をかけながら興奮を隠せない様子で言った。甲高いその声には、恐怖よりも高揚の色が濃い。まるで舞台が整ったかのように。だが、男はそれに応じることなく静かに船の舳先に立ち尽くしていた。背を向けたまま、ただ静かに波を見下ろしている。

「……少し、話をしませんか。せめて、あなたの名前を」

 マクシムが声をかけた。奇襲を受けた直後でありながら、努めて冷静に威厳を保とうとする。自分を奮い立たせるように言葉を吐き出した。男はゆるりと肩を動かし、静かに返す。

「名乗るほどの人間じゃありません。少なくとも、あなた方にとっては……我々は、獣に見えるでしょう?」

 不自然なアクセント。フランス語を話してはいるが、明らかに母語ではない。語尾は柔らかく、言葉の選び方にも独特の余韻がある。

「カタコトのフランス語はいい。お前の本性を見せろよ、本性を!」

 ダヴィットが苛立ちを露わにし、踏み出した。

「……今、言ったはずだ。名乗る必要なんてない」

 男の声音が低く、鋭くなった。

 ソフィーが思わず息を呑む。

 聞き覚えのあるその言葉……カスティーリャ語だった。

「……名を名乗れ。顔を見せろ。それから……用件を言え」

 グウェナエルがぎこちない発音でカスティーリャ語を口にした。その言葉に男の肩がふっと揺れた。

「……仕方ないな」

 男はゆっくりとこちらに向き直った。

 その瞬間、誰もが息を呑んだ。

 男の顔は、傷だらけだった。それも尋常なものではない。

 斜めに走る大きな裂傷が額の左から頬の奥深くへと食い込み、まるで顔全体を斜めに断ち割られたかのようだった。皮膚は歪に盛り上がり、癒えた傷痕の白さが夜闇に鈍く浮かび上がる。

 元の顔立ちがどうだったのか想像もつかない。

 それほどまでに、無数の傷が彼の面貌を判別不能にしていた。大きな傷の他にも、鞭で幾度も打たれたような痕、刃物で浅く切られた線が網のように重なり、どの傷が古く、どの傷が新しいのかすらわからない。

 まるで全身が戦場そのものだった。

 体格は年若い男のものだ。決して大柄でも筋骨隆々でもない。

 ただ、その容貌がすべてを覆い隠す。

 痛々しさと共にどこか獰猛さすら感じさせるその顔には、人の理性と狂気の境目に立つ何かが宿っていた。

「……見るからに、可哀想な見た目してるな。どんな修羅場をくぐってきたんだか……」

 ソフィーの隣に控えていたジョルジュが小さく呟いた。敵意でも嘲りでもなく、ただ率直な言葉だった。だがそれは、全員の胸中にも浮かんでいた感想だった。

 一体この男は、どこから来て、何を経験してきたのか。

 その問いだけが、波の音に紛れて静かに宙を漂っていた。

 傷の男が静かに名乗る。

「俺はルキフェル。フランソワ海賊団の一味だった。……そして、そこにいる男を討つためにきた」

 その翡翠の双眸だけは、はっきりと語っていた。燃えるような怒り。底知れぬ怨嗟。それでいて、冷たい湖面のような静けさがあった。

「ルキフェル……?」

 誰かが呟いた。そして、誰もが気づいた。これは、ただの奇襲者ではない。戦う理由を持った男が今、ここに立っているのだと。

「……ルキフェル、だと……?」

 誰かが呟いたその名に、甲板の空気がぴたりと凍りつく。

 隊員たちが一斉に顔を見合わせる。しかし、そのうちの誰の顔にも「知っている」という表情はなかった。むしろ、「聞いたことがない」という共通の戸惑いが重たい沈黙のように場を覆う。

 その沈黙をダヴィッドが震えるような声で破った。

「待て……その名、もう一度言ってみろ」

 舳先の男——ルキフェルはまっすぐに彼を見返す。だが、口を開くことはなかった。沈黙がかえって肯定を示す。

 ダヴィッドは喉を鳴らし、額に手を当てて呻いた。

「……そんなはずはない。フランソワとは何年も渡り合ってきた。あの男が誰を従え、誰と共に海を渡っていたか、それくらいは記録にも耳にも入っていた……」

 マクシムが静かに問う。

「——なのに、彼の名は一度たりとも出てこなかった」

 ダヴィッドは苦々しく頷いた。

「……ああ。聞いたことがない。フランソワの名と共に語られた仲間たちのなかに、ルキフェルなどという名はただの一度も、影も形も出てきていない」

「それじゃ……偽名の可能性は?」

 リラがぽつりと呟く。

「さあな……だが、あの目は——本物だ」

 ダヴィッドは険しい目でルキフェルを睨み返す。相手の中に渦巻く激しい感情、苛烈な怒り、その奥に潜む何か……それらを本能が拒んでいた。

「名が本物かどうかはわからん。だが——」

 言葉を切って、もう一度、ルキフェルの顔を見やる。

「あの目が、フランソワを想っているのは確かだ。それだけは疑いようがない」

 ルキフェルは僅かに目を伏せた。船の構造そのものを見るような目だった。指先が外套の縁を掴む。力が入りすぎたのか、革が小さく軋んだ。

「……名が残らない役目もある」

 ぽつりと独り言のように呟く。それきり口を閉ざし、改めて彼らを見る。

「……俺はフランソワ海賊団のクォーターマスターだった。戦場に立つのは船長の務め。俺は、戦場の下で全てを支えていた」

 甲板に再び静けさが落ちた。その沈黙を破ったのはシャルルの鋭い声だった。

「クォーターマスター……」

 傍にいたジョルジュが小声で問う。

「それって……何をする役職なんですか?」

 シャルルはわずかに口角を上げた。戦場では滅多に見せない表情だ。

「本来は航海長のような立場だ。航海の指示、物資の管理、船員の不満の調整。要は船長の影にして、乗組員たちをまとめあげる裏の実力者だよ。権限だけで言えば、場合によっては船長と同等にもなる」

 メリッサの目が見開かれる。

「そんな重要な……! でも、なんで名が出ないんですか?」

「出す必要がない。派手に旗を振るのは船長の仕事、影で船を守るのがクォーターマスターの仕事だ。それが真の海賊船のあり方さ」

 シャルルの言葉に、隣にいたサミュエルが顔を歪める。

「……なるほどな。だから記録に残っていなかった。フランソワが異様なまでに情報を絞っていた理由がようやくわかったよ」

「そういうことだ」

 ルキフェルはやや乾いた声で言う。その声音に感情はこもっていない。けれど、誰の耳にも怒りと誇りが微かに滲んでいた。

「……俺は、奴の影だった。だからこそ、今ここにいる。その命を奪ったお前たちの元にこうして立っている」

 一同の背に、冷たい風が吹き抜けた。雨の滴る甲板の上で、誰もが真の敵の姿をようやく目にした。

 ルキフェルはただ小さく肩をすくめた。だが、目は笑っていない。

「俺のことを初めて知ったというなら、俺の仕事がうまくいっていたということだ。表に出なかった。それだけの話だ」

 そこへグウェナエルが一歩、前へ出た。皮肉でも怒りでもない。

 ただ刃のように研ぎ澄まされた冷徹さだけを顔に貼りつけて。

「影で生きてきた人間が、こうして表に出てきた。……なにか、相当な決意があるはずだな」

 その言葉に、ルキフェルはすぐには答えなかった。翡翠色の瞳で、ただじっとグウェナエルを見返す。探るような視線。計るような沈黙。だが、グウェナエルも一歩も引かない。剣を握る者特有の、相手を人としてではなく、斬る対象として測る目だった。

「お前のその目だ。今すぐにでも、誰かを殺せる目をしている」

 一呼吸置いて、言葉を研ぐように続ける。

「……いや。すでに何十人も、殺してきた目だろう?」

 その瞬間、空気が変わった。周囲に控えていた海軍隊員たちが、息を呑むのがはっきりと分かる。銃に伸びかける手。わずかに後ずさる足。張り詰めた沈黙の中で、ルキフェルはようやく口を開いた。

「気のせいだ」

 感情の起伏を一切含まない、淡々とした声。それが、かえって異様だった。グウェナエルの目が細くなる。

「だったら——」

 一歩、さらに踏み込む。

「試させてもらおうか。その実力とやらを」

 二人の視線が真正面からぶつかる。ほんの数秒。だが、永遠のように長い睨み合いだった。

 先に動いたのは、ルキフェルだった。外套の留め具を外し、肩から無造作に脱ぎ捨てる。布が風を切り、甲板に落ちる音がやけに大きく響いた。

 露わになったのは、白い麻の長袖シャツ。袖はすでに肘のあたりまで無造作に捲られ、前腕には無数の古傷が刻まれている。黒いズボンに、膝下まで覆う革の編み上げブーツ。腰には大きな赤いバンダナを巻き、風を受けてはためいていた。剣帯は斜めに掛けられ、その姿は誰の目にも明らかだった。

 どこからどう見ても、海賊。

 海に生き、海で殺し、海で死ぬ人間の装い。

 さらに肩に届く暗褐色の髪。軽く波打つそれを、彼は指で掻き上げる。

 傷だらけの顔を隠すことなく、むしろ誇示するようにオールバックに整えた。耳の後ろや首筋にかけて流れる髪が、無造作でありながら不思議と整っている。

 その姿を見た瞬間——隊員たちの警戒心が一気に跳ね上がった。

「……っ」

 誰かが、無意識に引き金へ指をかける。獣が檻の外に出た。

 そんな錯覚を覚えさせるほどの存在感だった。

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