第3話 崩壊する女王の庭
私は優雅に脚を組み、床に這いつくばる彼女を見下ろし、指先には斗真から借りた大切な文庫本が握られていた。
「久保さん、その本。斗真に返すつもり? ……やめておきなよ。あなたが触れた後の紙の匂いを彼が嗅ぐなんて、想像しただけで吐き気がするわ」
「……これ、は……。そんな、つもりじゃ……」
「つもりがあろうとなかろうと結果は同じ。あなたの存在そのものが彼にとってのノイズなの」
私は傍らに立つ莉奈に顎で合図を送る。莉奈は躊躇いながらも、カバンから一瓶の濃縮タイプの洗濯洗剤を取り出した。
「……ねえ、彩葉。本当にやるの?ちょっとやりすぎじゃ……。さすがにこれは、笑えないっていうか……」
「やりすぎ?私は彼のために不潔なものを消毒してあげているだけ」
「先生とかに見つかったらどうするの?」
「ねえ、私の言葉が聞こえなかった?莉奈もこいつみたいにされたいの?されたくないなら早くやれよ」
「……っ、ううん。わかった。やるよ……やればいいんでしょ」
私の静かな。けれど逃げ道を塞ぐような視線に莉奈の手が震える。
私は髪を掴んで無理やり顔を上げさせ、彼女の目の前で、その大切な本の上に洗剤を莉奈がゆっくりと垂らしていく。
「あ……あぁっ……!!やめて!お願い。それだけは……っ!」
「そんなにこれが大事?だったらもっと綺麗にしてあげないと」
どろりとした化学薬品の液体が文字をページを、斗真との思い出を執拗に侵食していく。インクが滲み、紙がふやけ、美しい物語が異臭を放つ塊へと変質していく。
「あはは、すごい匂い。ねえ、久保さん。これでもう『清潔』になったね。……見て、文字が溶けて消えていくよ。あなたの記憶みたいに」
「……ひどい……なんでこんなことするの……?」
「……あ、ついでに指先も消毒してあげようか?そんなにそのゴミが愛おしいなら一緒に溶けちゃえばいいのに」
私は彼女の絶望に満ちた瞳を鑑賞するように見つめた。
恐怖で声も出ない彼女を見て、心の底から充足感が湧き上がる。私が「不可」と判定したものはこの世界から消えなくてはならない。それが私の庭のルールだ。
「……二度と斗真に近づかないってその心に刻んで。わかったら返事は?」
「……は、い……」
私は一歩も動かず、ただ言葉と視線だけで彼女の精神を更地にした。
……けれど、その完璧な勝利を切り裂いたのは背後から響いた無機質な電子音だった。
振り返ると、沙織が震える手でスマートフォンを握りしめていた。
「……沙織?何してるの。早く片付けて」
「……もう無理だよ。最近の彩葉……怖すぎるよ。……自分が何してるか分かってるの?」
「は?何言ってるの?私の言うことが聞けないの?」
沙織の瞳には忠誠心ではなく、剥き出しの嫌悪が宿っていた。
彼女の画面にはSNSのグループチャットが表示されている。そこには今のやり取りを逐一報告するテキストと洗剤をかけられる動画が、斗真を含む「クラス全員」のグループにリアルタイムで共有されていた。
「……誰がそんな許可を出したの。消して、今すぐ。冗談じゃ済ませないよ」
「……消さない。だってみんな言ってるもん。『杉本さん、化け物みたいだね』『関わったら人生終わるわ』って。……ほら見てみなよ」
スマホに次々と届く通知の振動。
クラスメイトたちの私を「異物」として排除する罵詈雑言の嵐。
その時、廊下から足音が響き、ドアが乱暴に開かれた。
立っていたのは部活のユニフォーム姿の斗真だった。
「……久保さん!大丈夫か!?」
彼は床に転がる無残な本と勝ち誇った顔で立ち尽くす私を見比べ、一瞬だけ胃の底からせり上がるような怒りの顔をした。
「……杉本。お前、本当にこれを自分が『正しい』と思ってやったのか?答えてみろよ!」
斗真の視線。それは私がかつて彼女に向けていた「ゴミを見るような目」そのものだった。
「斗真、これは違う。私はあなたの評判を守るために……。彼女があなたの迷惑になっていたから……」
「俺に触るな。その醜い顔を見てるだけで虫酸が走る」
「は?醜い?誰が?え、私のこと言ってるの??何バカなこと言ってるの?正気?そいつのほうが私より可愛いっていう気?斗真って節穴?」
「……ほんとに杉本には呆れた。二度と俺たちに話しかけてくんな」
斗真は紗菜を支えて立ち上がらせると私を一瞥もせずに教室を去った。
残された莉奈たちも私を「共犯者」から切り離すように、汚いものを見る目で私を避けて教室を出ていく。
「なんで、私は何も悪くない。悪くない。全部、あいつが……あんな女が斗真を惑わせるから……っ!」
「……彩葉、もうやめなよ。見苦しい」
「は?何言ってるの莉奈。さっきまで一緒に笑ってたでしょ!」
「は?勘違いしないで。私たちはあんたに逆らうのが怖かっただけ」
「……信じられない。あんなことよく平気な顔でできるよね」
「彩葉とはもう絶交する。これ以上巻き込まれたくないもん」
独りきりになった教室で、私は自分の爪を見つめる。
けれど、その指先に触れようとする人間はもうこの世界には一人もいない。
私は自分が悪かったなんて思っていない。
ただ私が磨き上げた「完璧な資産」が、今この瞬間、価値を持たない紙屑以下の存在に成り下がったこと。
それだけを夕闇に染まる鏡の前で、静かに理解してしまった。




