第2話 空気の支配者
教室という場所は残酷なほどに「言葉」よりも「空気」に支配されている。
私はその指揮者だ。タクトを振る必要さえない。ただ一言。適切なタイミングで、適切な違和感を投げ込めばいい。
昼休みはいつものように私の机の周りに集まった取り巻きたち。
私はコンビニで買ったサラダのパックを開けながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、そういえばさ。久保さんっていつも一人で何読んでるか知ってる?」
私の問いに莉奈が真っ先に反応する。
「えー、知らない。なんか暗い感じの文庫本じゃない?」
「昨日、斗真に本貸してたでしょ。あんな古本をよく渡せるよね」
「えっ、マジで? 桜井くんに? 勇気あるなー」
「勇気っていうか無神経なんじゃない?」
莉奈に続いて、美紀がフォークを止めて顔をしかめた。
「わかる。ああいう『私、みんなと違って読書好きなんです』みたいな雰囲気、正直鼻につくよね。しかもそれをわざわざ桜井くんに持っていくっていうのが……。計算高いっていうか」
「わかる。ああいう『おとなしい私』を武器にするタイプが一番タチ悪いんだよ」
「あー、いるいる。天然ぶってるけど、実は一番男慣れしてそうな感じ」
みんなの笑い声が広がる。
「それに紗菜みたいな陰キャな子って勘違いしやすいじゃん」
「それな。マジで滑稽すぎて腹が痛くなる」
「わかる。ほんとに面白い」
私はその会話に加わらず、ただ困ったように眉を下げてみせる。
「でも、斗真も困ってたみたいだよ。断るのも悪いからって、無理して受け取ってたし」
「うわ、それ可哀想。桜井くんって優しいもんね」
「……ちょっとそれ怖くない?」
莉奈がわざとらしく自分の腕をさすってみせた。
「怖っ。もし私が桜井くんだったら、あんな暗い本渡されただけで呪われそうって思っちゃうかも。……ねえ、彩葉、他にも何か言ってなかった?」
「うーん、詳しくは言わないけど。ただ『距離感がわからなくて、どう反応していいか困る』って、ちょっと困惑してたかな。彼の立場も考えてあげればいいのにね」
「最悪。桜井くんの優しさを利用するとか、マジで同じ女子として恥ずかしいんだけど」
「怖い」という単語。それが彼女に貼られる最初のラベルだ。
誰も彼女を攻撃してはいない。ただ「空気の読めない少し怖い存在」であるという共通認識がこの瞬間に完成した。
「あ、久保さん。戻ってきたよ」
莉奈が声を潜める。
教室の入り口から彼女がおどおどとした様子で自分の席へ戻っていく。
その背中に向けられる視線が昨日までとは明らかに違っていて、誰かが椅子を引く音をわざと立てる。
莉奈たちは鼻で笑うような汚いものを見るような沈黙を彼女に投げつける。
「……ねえ、久保さん。ちょっといい?」
私は椅子から立ち上がり、彼女の席へと歩み寄る。
クラス中の視線が私に集中する。
「……あ、杉本さん。なに、かな」
「昨日の本、斗真が『返したい』って言ってたよ。内容が難しすぎて、自分には合わないみたいって」
「えっ、……あ、そう、なんだ」
「うん。だからもう無理に貸さなくていいと思うよ。斗真、優しいから断れなくて困っちゃう人だから」
私は彼女が大事に抱えていたカバンを少しだけ憐れむような目で見つめた。ほんとにいつ見ても地味でださい。髪の毛はよく見れば枝毛まみれで、こんな地味な子に斗真はやらない。私のプライドがそれを赦さない。
「久保さんは自分の好きなものを共有したかっただけなんだよね? 気持ちはわかるよ。でも、相手がそれをどう思うかまで考えないと。……彼、ああ見えて結構、気を遣うタイプだから。これ以上、重荷を背負わせるのは可哀想じゃない?」
「……重荷…ですか」
「そう。本人は言わないだろうけど、周りはみんな気づいてるよ。久保さんが彼を困らせてること」
私は彼女の目を見て、優しく微笑む。
まるで良かれと思って忠告してあげている友人のように。
「……ごめんなさい。私、迷惑かけてたんだ」
「ううん、久保さんが悪いわけじゃないよ。ただ距離感って大事でしょ?」
会話が途切れる。
周囲の女子たちが遠巻きにクスクスと笑う声が聞こえた。
「自分から謝っちゃうんだ」
「認めたね」
「うわー、彩葉強い」
という無言の嘲笑が彼女の小さな背中をさらに丸めさせる。
「……うん。杉本さんありがとう。教えてくれて」
「いいよ。気にしないで。私は久保さんの味方だからね」
私は軽やかな足取りで自分の席に戻った。なんてことはない日常の一コマだ。
けれど、この瞬間に「久保紗菜が桜井斗真に色目を使って迷惑をかけている」という物語がクラスの正史となった。
午後の授業中、彼女が消しゴムを落とした。
カランと乾いた音が響く。
以前なら誰かが拾ってあげていただろう。けれど、今は誰も動かない。
隣の席の男子さえ、面倒なことに巻き込まれたくないと言わんばかりに視線を逸らした。
みんな彼女と関わることで「自分も空気が読めない側」に判定されるのを恐れている。
放課後、斗真が私のところにやってきた。
彼は少し苛立ったように前髪をかき上げる。
「なぁ、久保さん。さっき本返してきたんだけど、なんか様子おかしくてさ」
「え、どうしたの?」
「いや、俺が何かしたか?って聞いても『ごめんなさい』しか言わねーし。……お前、何か知らないか?」
私は彼を見上げ、一拍置く。
潤んだような、心配そうな瞳を作るのは造作もない。
「……斗真、やっぱり気づいてなかったんだ」
「何をだよ」
「みんな斗真が久保さんに付きまとわれてるって噂してるよ。彼女、斗真のこと待ち伏せしたりしてるんでしょ?」
「はぁ!?そんなのしてねーよ。本貸してもらっただけだろ」
「斗真はそう思ってても、彼女は違うのかも。……みんな斗真が可哀想だって言ってる」
私は声を一段階落とし、さらに親身なトーンを重ねた。
「莉奈たちも言ってたよ。桜井くんは優しいから、ああやって押し付けられると断れないんだろうねって。……彼女、結構執着心が強いみたいだし。斗真が変な噂に巻き込まれて、部活とかに影響が出ないか心配なの」
「……部活?なんでそんな話になんだよ」
「誰かが先生に相談しようかなって言ってたから。斗真が困ってるなら助けてあげなきゃって」
嘘はついていない。「みんな」がそう言っているのは事実だ。私がそう言わせたのだから。
「……っざけんなよ。誰だよ、そんなこと言ってるやつ」
「やめなよ、斗真。犯人探しなんてしたら、もっと雰囲気が悪くなる。……私が久保さんとうまく話してみるから。ね?」
私は彼の腕に軽く手を置く。
彼は舌打ちをして、黙り込んだ。
彼の中の「久保紗菜」が、徐々に「トラブルの種」へと変質していく。
どんなに彼が彼女を特別に思っていても、周囲が彼女を否定し続ければ、その感情は摩耗していく。
そして傷心中の斗真を私が懸命に慰めてから好きにさせればいい。
私は教室の窓から見える夕焼けを眺める。
彼女が一人、校門へ続く道を歩いているのが見えた。
その肩は朝よりもずっと丸まっているように見えた。
私は一歩も動かず、ただ言葉を数粒こぼしただけで、彼女の世界を灰に変えた。
心地よい万能感が指先まで満たしていく。




