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第1話 均衡の朝、あるいは傲慢な鏡

 アラームが鳴る一秒前に私の意識は覚醒する。

 カーテンの隙間から差し込む薄い光をまずは網膜で冷静に分析する。今日の光は白すぎる。肌のコンディションを最も残酷に暴く光だ。


 私はゆっくりと体を起こし、寝室の全身鏡の前に立つ。


 寝起きの無防備な肉体。

 鎖骨の浮き方、ふくらはぎの張り、肌の透明度。それらを検品するように、指先でなぞる。


「……よし」と小さく呟く。鏡の中の私は今日も一分の隙もない。


 幼い頃、母に言われた言葉が呪文のように脳裏にこびりついている。


「彩葉、美しくないものはね。この世界に存在しないのと同じなのよ」


 だから私は美しくあり続けなければならない。誰の追随も許さない圧倒的な『個体としての美しさ』こそが、私がこの世界で呼吸することを許される唯一の免罪符なのだから。


 教室に入った瞬間、淀んでいた空気が私を中心に再構成されるのを感じる。


「あ、彩葉!おはよー!」


 真っ先に駆け寄ってきたのは莉奈だ。彼女に続いて、美紀と沙織も席を立つ。私の周りにいつものように壁ができる。


「おはよう。莉奈、そのアイシャドウ変えた?似合ってるね」

「えっ、わかる!?さすが彩葉。これ昨日発売の限定パレットなんだ」

「うん、発色が綺麗。でも莉奈ならもう少し目尻をぼかしたほうが、もっと大人っぽくなると思うよ」

「マジで?明日やってみる!」

「……ねえねえ、そういえば今日の小テスト対策やった?」


 美紀が不安そうに聞いてくる。私は軽く肩をすくめて見せた。


「一通りはね。でも今回、範囲が微妙に広いから面倒だよね」

「彩葉が『一通り』って言う時は絶対満点取れる時じゃん。いいなー。要領よくて」

「そんなことないよ。私も結構苦労してるんだから」


 嘘だ。苦労なんてしたことがない。

 けれど、ここで「余裕だよ」と言い切らないのが私の『徳』の積み方で、人生なんてだいたい思った通りに動く。私が何かをいえば、周囲が勝手に慮って、チヤホヤしてくれる。


「……あ、桜井くん来たよ」


 沙織が耳打ちしてくる。

 教室のドアが開くと、部活帰り特有の少し火照った空気と共に桜井斗真が入ってきた。

 彼はカバンを肩にかけ直すと、一直線に私の隣の席へやってくる。


「杉本、おはよ。朝から元気だな」

「斗真こそ。朝練、お疲れ様」

「サンキュ。……なぁ、一限の古文って予習の範囲どこだっけ? 完全に忘れてた」


 彼は私の顔を覗き込むようにして笑う。


「もう、昨日グループライムでも流したでしょ。六十二ページからだよ」

「あー、見てなかったわ。杉本、ノートちょっと見せて」

「ダメ。自分でやりなさい」

「いいじゃん、後で学食のアイス奢るからさ。頼む!」


 彼は手を合わせて、大げさに頭を下げて見せる。

 周囲の女子たちが「またやってるよ」とクスクス笑い、男子たちが「桜井、また杉本さんに甘えてんなー」と茶化す。


 そうこれが『正解』の景色だ。

 私と斗真が中心にいて、周囲がそれを微笑ましく眺める。私たちはこのクラスの太陽と月で当然の位置として扱われている。


「……しょうがないなぁ。ほら、ここ」

「助かる! さすが杉本様、一生ついていくわ」

「一生なんていらない。アイス、一番高いやつにしてね」

「了解。ハーグンでもなんでも持ってこいよ」


 私は彼がノートを受け取る瞬間に触れた指先の熱を平静を装って無視する。

 けれど、その『正解』に異物が紛れ込んだのは二限の休み時間だった。


「……あの桜井くん」


 聞くに堪えない、陰気な声がした。

 見れば、久保紗菜が申し訳なさそうに斗真の机の傍に立っていた。

 彼女は私の視線を避けるように俯き、指先を袖の中に隠している。


「あ、久保さん。これ昨日の」


 斗真が私に見せていたのとは全く違う穏やかで柔らかなトーンで彼女に応じた。

 彼はカバンの中から一冊の文庫本を取り出す。


「借りてた本、返そうと思って。これ最後あんな風に終わるんだな。ちょっと意外だった」

「……あ、……面白くなかったですか?」

「いや、逆。めちゃくちゃ考えさせられたよ。……久保さん、他にもこういうの持ってる?」

「……はい。もしよかったら、また」

「お願いしていい? 俺、こういう静かな話も好きなんだ」


 会話が途切れない。

 私と交わす軽口とは違う。共有された「内側の言葉」が二人の間に流れている。


 莉奈が私の顔色を伺うように見てくる。

 美紀が気まずそうにスマホに目を落とす。


「俺、こういう静かな話も好きなんだ」という斗真の言葉に、彼女はほんの少しだけ花がほころぶような笑みを見せた。

 誰かに「見せつけるため」ではない。ただそこにあるだけの自然な充足。

 私がどれだけ鏡の前で磨き上げても手に入らなかった、剥き出しの「心」の交流。


 それが私の完璧なピンクベージュの指先よりも価値があるのだと突きつけられた気がして、私は喉の奥が焼けるような不快感を覚えた。

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