表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/10

09.絡み合う支配欲


 朝靄が消え、太陽が天頂へ向かい始める頃。エスティネル城の執務室では、レオナールが執務に追われていた。広大な領地の運営に関する書類の山を前に、政務官セシルが淡々と説明を続ける。その声は、普段通り冷静で淀みがなかったが、彼の内心は多忙を極める辺境伯への気遣いで満たされていた。


 その扉が、そっと開く。音もなく滑らかに開いた扉の向こうに、甘い香りがふわりと漂ってきた。


「レオナール様ぁ」


 その甘い声に、セシルの口が止まり、手に持っていたペン先の動きもぴたりと止まる。彼の視線は、思わず扉のほうへと向けられた。


「フィオナ……?  どうしたの、執務室にまで来て」


 レオナールは、書類から顔を上げ、驚いたように問いかけた。彼の表情には、警戒心など微塵もなく、ただ愛しい妻の突然の訪問に、純粋な喜びが浮かんでいた。


「レオナール様のお顔が見たくなっちゃって。ね?」


 フィオナは、ふんわりとした春色のドレスで部屋に入ってきた。ドレスの裾には、陽光を反射してきらめく細かな刺繍が施されている。その両手には、丁寧に折られたレースの布と、包み込むような、底知れない笑顔。


「おやつの時間ですの。今日はフィオナがクッキーを焼いたんですから、お味見してもらわなくちゃ。特別に、あなたのお好きなラベンダー風味よ」


 フィオナの声は、甘く、そしてどこか得意げだった。彼女は、レオナールの好みを熟知し、それを最大限に利用していた。


「あー……これは“重要案件”だね。セシル、すまないが、続きは後で頼む」


 レオナールは即座にペンを置き、立ち上がる。彼の顔には、政務よりもフィオナを優先するという、隠し立てのない喜びが満ちていた。セシルは無言でメモを取りながら、そっと視線を逸らした。彼の脳裏には、先日の「妻が可愛いから集中できない」という辺境伯の言葉が蘇る。


(甘ったるい……この空間、糖度が高すぎる……)


 セシルは内心で呟きながら、恭しく一礼して執務室を後にした。彼は、レオナールの政務処理能力が常軌を逸していることを知っていたからこそ、彼の「甘やかしモード」を黙認していた。




 ふたりが移動したのは、執務室隣の小部屋――レオナール専用の仮眠と軽食用のサロンだった。こじんまりとした空間は、より一層、ふたりの距離を近く感じさせる。丸いテーブルには、フィオナが用意したラベンダー風味のクッキーと、香り高い紅茶が並べられていた。窓からは柔らかな陽光が差し込み、部屋全体を温かく包み込む。


「おひとつどうぞ、レオナール様」


 フィオナが差し出したクッキーを一口食べ、レオナールは目を細める。その表情は、心底満足しているようだった。


「うん、美味しい。君の手作りってだけで、十倍は美味しく感じるよ。まるで君の甘さがそのままクッキーになったみたいだ」

「それって味覚が壊れてますわよ?  私、そんなに甘くないわ」


 フィオナは、わざとらしく小首を傾げて問いかける。彼女は、レオナールが自分に盲目的に「可愛い」を連発することに、一抹の優越感を覚えていた。


「うん。でも、それでいい。壊れても、君がいればそれでいい」


 レオナールの言葉は、どこか諦めにも似た、しかし深い愛情を含んでいた。フィオナの存在が、彼にとって絶対的なものになっていることを示唆しているかのようだった。


 ふふ、と笑って、フィオナは紅茶を一口。その仕草ひとつで、レオナールの視線は自然と彼女へ吸い寄せられる。彼の瞳は、フィオナから離れることを知らない。


 その視線を感じながら、フィオナは椅子から立ち上がり、レオナールの隣に歩み寄った。すっと座ったその手は、レオナールの腕にそっと絡む。彼女の肌の温かさが、レオナールに伝わる。


「ねえ、レオナール様……最近、私のことばっかり考えてない?」


 フィオナは、彼の心をさらに深く探るように問いかけた。


「……うん、そうかもしれない。君のことばかり考えて、政務が手につかない時もあるんだ」


 レオナールは、隠すことなく肯定した。彼の言葉は、嘘偽りのない本心から出たものだった。


「ふふっ、やっぱり。そうだったら嬉しいな」


 フィオナは甘えるように肩を寄せ、上目遣いでレオナールを見上げる。彼女の瞳は、純粋な喜びで輝いていた。


「もっと依存していいのよ?  私、いっぱい甘やかしてあげる。あなたを、私なしではいられないくらいに」


 フィオナの言葉は、まるで子供が人形に語りかけるようだった。しかし、その裏には、レオナールを完全に「支配」したいという、彼女の強固な意思が隠されていた。


「逆じゃないかな、それ……。僕が君を甘やかしているんだけど」


 レオナールは、そう言いながらも、その表情は心底嬉しそうだった。


「違いませんわ。これは“フィオナ様の計画的愛され作戦”ですの。私はあなたの甘さに漬け込みながら、あなたを私のものにするのよ」


 無邪気な口調と、意図的な距離の近さ。フィオナの「掌の上で転がす」手腕は、ますます冴えわたっていた。彼女は、レオナールの「執着」を逆手に取り、彼を自分の世界へと引きずり込もうとしていた。


 レオナールはそのまま、彼女をそっと引き寄せた。彼の腕が、フィオナの腰を優しく抱きしめる。


「……君がこんなに可愛いせいで、僕の仕事、どんどん後回しになるんだけど。このままだと、セシルに恨まれてしまいそうだ」

「でも、後悔はしてないでしょ?  私と過ごす時間が、一番大切だって」


 フィオナは、彼の顔を見上げ、問いかけた。


「もちろん。君といる時間こそが、僕にとっての至福だ。他のことなんて、どうでもいい」


 抱きしめる腕の力が、すこしだけ強くなる。レオナールは、フィオナの存在が、彼の全てを凌駕していることを、隠すことなく示した。


「レオナール様……」


 フィオナがそっと名前を呼び、上目遣いのまま彼の瞳を覗き込む。琥珀色の瞳の奥に、深く、そして熱い光が宿っているのを感じる。そのまま瞳を伏せ、ゆっくりと目を閉じた。彼女の心臓の鼓動が、早くなるのを感じた。


 レオナールは吸い寄せられるように、彼女の唇にそっと口付けた。甘く、やわらかく、短く、確かに。それは、彼らの間で交わされる初めての口付けだった。世界が、その一瞬、止まったかのようだった。


「……」

「……ふふっ」


 フィオナが目を開け、はにかみながら微笑んだ。その頬は、ほんのり赤く染まっている。


「レオナール様。初めての口付けを、しちゃいましたね。ふふ、これで、あなたの「初めて」は、全部私のものになったわ」


 フィオナは、指で自分の唇をそっとなぞりながら、恥じらうふりをして――心の中ではしっかり「勝利の鐘」を鳴らした。これで、レオナールの「忘れられない初めて」は、完全に自分のものになったのだと。


「……可愛すぎるよ、君」


 レオナールは、そんな「あざとさ」にも気づいているようで、気づかないふりをしているような――どこか満足そうに、微笑んだ。彼の瞳は、フィオナへの揺るぎない愛情で満たされていた。


「君の全部が、僕だけのものであるって実感する瞬間が、一番幸せだよ。君の笑顔も、怒った顔も、全部僕だけのものだ」


 その言葉に、フィオナはまたレオナールの肩にもたれかかる。


「じゃあ、私の全部を受け取って?  あなたの“唯一”になりたいの。他の誰にも目を向けさせないくらいに」


 そう言いながら、フィオナはレオナールの首元に顔を埋める。彼の香水の匂いと、熱を帯びた肌の感触が、彼女を包み込んだ。


 フィオナの甘えは、もはや「巧妙な策略」というより、「緻密な支配」に近いものへと変化していた。彼女は、レオナールを完全に自分の世界に閉じ込めようとしていた。


(どんどんあなたの世界を、私で埋めていく。私だけを見て、私だけを欲しがって。そうすれば――あなたの狂気も、私に向くことはない。あなたは、永遠に私の手の中で、甘い夫として存在し続けるわ)


 けれど、そんな彼女の思惑は、まだレオナールには届いていない。あるいは、彼の方が一枚上手なのかもしれない。


 レオナールは静かに彼女の髪に口付けた。その瞳の奥には、フィオナがまだ知らない、深い闇が潜んでいた。


(“欲しがられている”と思っているうちは、まだ甘いよ、フィオナ。君は、もうずっと前から“僕のもの”なんだから。君がどこへ行こうと、何を選ぼうと、結局は僕の掌の上だ)


 それぞれが抱く愛情は、似ているようで違っている。フィオナの「独占」と、レオナールの「所有」。しかし今はただ――互いの「甘さ」に溺れているふたり。


 世界がふたりだけなら、それでいい。この口付けの余韻の中で。その蜜月は、いつまで続くのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ