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07.壊しがいのある獲物


 午後のエスティネル城に、春の穏やかな空気が流れる中、客間の扉が勢いよく開かれた。その音は、まるで静寂を切り裂くかのようだった。


「お待ちしておりました、グラセ伯爵閣下、ヴァイオレット様」


 応対に出たのは政務官セシル・ロシュ。普段は柔和で丁寧な彼だが、その背筋は張り詰め、緊張で硬直していた。グラセ伯爵の訪問は、昨日急遽伝えられたものであり、その目的はレオナールとの直接対話だと聞かされていた。セシルは、この訪問が単なる社交辞令ではないことを察していた。


「わざわざ辺境まで足を運んでいただき、さぞご苦労だったことと存じますが……本日はどのようなご用件で?」


 グラセ伯爵──王都でも伯爵位ながら、古参の重鎮と名高い男は、重厚なマントを揺らして一歩踏み出す。その顔は、王都の貴族特有の気品を保ちながらも、どこか諦めと、それでも娘のためにと奮起する父の複雑な感情が入り混じっていた。


「我が娘ヴァイオレットの“未来”に関わることだ。辺境伯殿とのご対面をお願いしたい」


 その背後で、ヴァイオレットがじっと前を見据えていた。彼女の瞳には、まだ希望が残っている――それが、彼女の過ちだった。王都で「デビュタントの星」と謳われたプライドの高い彼女は、レオナールがフィオナを選んだのは何かの間違いであり、自分が直接問い詰めれば、彼が考え直すはずだと信じていたのだ。彼女の心には、王都でのフィオナとの応対で受けた屈辱も、彼に捨てられた悔しさも、すべてを打ち破る「真実」を聞き出すという決意が宿っていた。




 一方その頃、城の中庭の東屋。フィオナは、優雅に紅茶を啜っていた。彼女の傍らには、侍女のエメが控えている。中庭の奥からは、庭師のルイスが丹精込めて手入れをする植物の香りが、微かに風に乗って運ばれてくる。


「フィオナ様、本日は執務室へいらっしゃらないので?」


 侍女エメが尋ねると、フィオナはふわりと笑って答える。その声には、一切の憂いが感じられない。


「ええ、お茶の時間ですもの。レオナール様が何をしていても、私は“今”を楽しみますわ」


 まるで何も知らないかのように。しかし、その笑顔はどこか「全てを分かっている者」のものだった。フィオナは、グラセ伯爵とヴァイオレットが城に到着したことを、既に察知していたのだ。昨日のヴァイオレットの言葉、そしてルネの忠告。それらが結びつき、今日の「訪問」の真の目的を、彼女は既に理解していた。彼女は、この状況を、レオナールの「本性」をさらに引き出すための、そして自身の「小悪魔」の力を試すための、絶好の機会だと捉えていた。




 執務室の扉が開かれ、グラセ伯爵とヴァイオレットが足を踏み入れた。レオナール・エスティネルは、椅子に腰かけたまま、淡く微笑んだ。その表情は、普段と変わらぬ朗らかさで、まるで来客を心から歓迎しているかのようだった。


「これはこれは、グラセ伯爵。そして……ヴァイオレット嬢。ようこそ、エスティネル城へ」


 レオナールの言葉は丁寧で、その場に緊張感が漂っていることなど、まるで気に留めていないかのようだった。


「本日は突如の訪問をお許しください。……娘が、どうしても“真実”を問いたいと申すもので」


 伯爵の言葉に、ヴァイオレットが一歩進み出る。彼女は薄紫のドレスを身に纏い、艶やかな巻き髪に揺れるアメジストの耳飾りが、彼女の緊張を隠そうとしているかのようだった。街で見た時よりも、遥かに装いに気合が入っていた。彼女は、この訪問に最後の望みをかけていたのだ。


「レオナール様……何故、私では“ダメ”だったのですか?」


 その問いは、真っ直ぐだった。感情も、屈辱も、そして自身が抱えるレオナールへの純粋な想いも、すべてを込めて放たれた言葉。彼女の瞳は、レオナールの返答を、懇願するように見つめている。


 レオナールは、ヴァイオレットの問いに、にこりと笑った。その笑顔は、どこまでも優しげで、ヴァイオレットの心に希望の光を灯すようだった。


「ヴァイオレット。君は“綺麗なお人形”のようだった」

「え……?」


 ヴァイオレットは、その言葉を褒め言葉だと受け取り、一瞬、顔に安堵の表情を浮かべた。しかし、レオナールの言葉は、まだ続いていた。


「でもね、君、すぐに壊れそうだったんだよ。……だから、壊しがいがなさそうで」


 その瞬間、ヴァイオレットの顔から血の気が引いた。彼女の瞳から、希望の光が消え失せる。レオナールが褒めていたのではない。憐れんでいたのでもない。ただ、「面白くなさそうだった」と、淡々と、それだけを告げたのだ。彼の甘い笑顔は消えず、それどころか優しげな口調はなお続く。その声が、ヴァイオレットの耳には、まるで地獄の底から響いてくるかのようだった。


「せっかく手に入れても、一瞬で“ひび割れて崩れる”ようなガラス細工は、僕には退屈なんだ。すぐに終わってしまう遊びには、興味がないんだよ」


 執務室の空気が、息を呑むほどに重くなった。グラセ伯爵が娘を庇うように立ち、苦い表情でレオナールに告げた。彼の娘への侮辱は、グラセ家の名誉を傷つけるものであったが、レオナールの言葉の裏にある、底知れない狂気を感じ取った伯爵は、それ以上何も言えなかった。


「……では、我らの申し出は、やはり――」

「はい。ご足労、感謝します」


 レオナールは柔らかく頷いた。その言葉は、穏やかであるにもかかわらず、一切の反論を許さない絶対的な拒絶だった。


 ヴァイオレットは、もはやレオナールと視線を合わせることができなかった。「彼の目」が怖かった。以前、愛を告げられた時にときめいたその瞳が、今は「壊すこと」を語るために、冷たく、妖しく光っている。


(この人は――)


 ヴァイオレットの心に、深い絶望が広がった。彼が、どれほど異常な人間であるかを、今、この瞬間、身をもって理解したのだ。


(本当に、「何か」が欠けている……まともな倫理観が、感情が……)


 立ち去ろうとしたその時。背中越しに、レオナールの声が届いた。その声は、執務室の空気を再び凍りつかせた。


「――ああ、最後にひとつだけ」


 グラセ伯爵とヴァイオレットが振り返る。レオナールは、椅子に深く身を預け、優雅な笑みを浮かべたまま、彼らを見つめていた。


「今の話、他言無用だよ。もし他人に話したりしたら……」


 レオナールはそのまま、微笑を浮かべた。しかし、その瞳の奥には、狂気に満ちた光が宿っている。


「“死んだ方がマシ”って思うくらい、壊してあげるから」


 静かな声音だった。脅迫でも、怒鳴り声でもない。ただ淡々と、告げられた「約束」。その言葉が、ヴァイオレットの心臓を鷲掴みにした。彼の微笑が、悪魔の笑みに見えた。


 ヴァイオレットの唇がわななく。彼女は、これ以上ここにいることはできないと直感した。


「行きましょう、お父様……」

「……うむ」


 グラセ伯爵は、娘の震える手を掴み、足早に執務室を後にした。ふたりは扉の向こうへと消えていった。

 その姿を見送りながら、レオナールは机に肘をつき、指で頬を支える。彼の表情は、まるで退屈な劇が終わった後の観客のようだった。


「……僕を誰だと思ってるんだろうね、あの子」


 彼の視線は、窓の外、中庭に向けられた。そこには、紅茶を手にくつろぐフィオナの姿があった。レオナールの目は、そこにだけ柔らかく緩む。フィオナの存在が、彼の心を唯一、揺さぶることができるものなのだ。


「君だけが、面白い。君だけが、ちゃんと“壊れずに噛みついてくれる”」


「だから愛しい」――そう呟く声は、誰にも届かない。彼の執着は、ヴァイオレットのような「壊れやすい人形」には向けられない。彼の心を満たすのは、フィオナのような、彼の狂気に耐えうる、あるいはそれをも受け止めて「遊んで」くれる存在だけだった。




 その後。グラセ伯爵邸には、不思議なことに、今回の「訪問」に関する報告書も記録も一切残らなかった。グラセ伯爵は、レオナールの脅迫を忠実に守り、一切の情報を消し去ったのだ。


 関係者も「どこに行ったのかよく覚えていない」と言い、使用人たちは理由も分からず、帳簿だけが数時間空白になっていた。レオナールの影が、城の隅々にまで浸透していることを示すかのようだった。


 ただひとつ、ヴァイオレットの部屋の引き出しには、「辺境にはもう行かない」という走り書きだけが残されていたという。それは、彼女がレオナールの真の姿を見て、どれほどの恐怖と絶望を味わったかを物語っていた。彼女にとって、レオナール・エスティネルという男は、もはや憧れの対象ではなく、触れてはならない「狂気」そのものとなったのだ。フィオナとの「遊戯」に敗れ、ヴァイオレットは、完全にレオナールの「執着」の対象から外されたのだった。

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