06.小悪魔の独占欲
春の陽光がきらめく穏やかな午前。フィオナ・シャルメリーズ=エスティネルは、レースとリボンのあしらわれたクリームピンクのドレスで馬車に乗り込んだ。柔らかな髪は、陽の光を受けて淡い白金にきらめき、まるで春の妖精のようだった。隣に座るのはもちろん、彼女の旦那様――レオナール・エスティネル。今日は再び、東部の街ル・メルヴェイユへ買い物デートである。
「今日のお目当ては?」
レオナールは、フィオナの頭を優しく撫でながら問いかけた。その琥珀の瞳には、愛しげな光が宿っている。
「うさぎの刺繍入りの扇子と、新しく入ったというマカロン屋さん。それと……可愛い旦那様の“財布”ね」
フィオナが小悪魔的に微笑むと、レオナールは目を丸くした。
「財布?」
「ふふっ、つまり“レオナール様”よ」
フィオナが首を傾げて笑えば、レオナールは「はいはい、今日も甘やかされたいんだな」と満足そうに笑う。その声には、彼女を甘やかすことを心から楽しんでいるような響きがあった。フィオナは、彼のこういった反応が心地よかった。王都では決して見せることのなかった、純粋な歓喜と満足の表情。それが、彼女の「愛され術」をさらに磨き上げていく原動力になっていた。
馬車はにぎやかな市街地に入り、色とりどりの布地や異国の香水の香りが、すれ違う人々を包んでいく。市場特有の活気と熱気に、フィオナの瞳はキラキラと輝いた。
「ねえ、あの帽子屋さん、看板が新しくなってるわ。寄ってもいい?」
フィオナは、馬車を降りるやいなや、まるでスキップするように目的の店へ向かった。レオナールが、その後ろを緩やかに追いかける。彼の表情は穏やかで、まるで愛しい子兎を慈しむ飼い主のようだった。フィオナの背中には、可愛らしい兎の耳飾りが揺れていた。
しかし――その朗らかな空気を、鋭く切り裂く声がした。
「まあ、また街中で仲睦まじくして……さすが、泥棒猫ね」
その声には、明確な敵意と嘲りが含まれていた。フィオナが振り返るよりも先に、声の主が一歩踏み出す。
そこに立っていたのは、先日も遭遇したラベンダーカラーのドレスに身を包んだ令嬢――ヴァイオレット・グラセ。艶やかな巻き髪に、大ぶりのアメジストの耳飾りが揺れている。その切れ長の瞳は、フィオナを射抜くように睨みつけていた。
フィオナは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに口元だけで笑った。その笑みには、昨日エメから聞いた「婚約者候補」の噂が、確かに脳裏を過っていた。
「まあ、ヴァイオレット様。お元気そうで何よりですわ」
フィオナの言葉は、完璧な社交辞令だった。しかし、ヴァイオレットの怒りは、そんな言葉で収まるものではない。
「よく言えるわね。人の婚約候補を攫っておいて」
ヴァイオレットの声は、怒りで震えていた。彼女にとって、レオナール・エスティネルとの婚約は、幼い頃からの夢であり、グラセ家の名誉でもあった。それが、王都からやってきた見知らぬ伯爵令嬢に、いとも簡単に奪われたのだ。そもそも、レオナールとフィオナの結婚は王命なのだが。
「攫った? レオナール様は、“誰かのもの”ではありませんでしたよ」
フィオナは、あえて無邪気に問いかけた。ヴァイオレットの言葉を、文字通り受け止めるふりをする。その可愛らしい表情の裏で、フィオナはヴァイオレットの心の傷を抉っていた。
「泥棒猫め……!」
ヴァイオレットは、侮辱の言葉を吐き捨てた。その瞬間、ヴァイオレットの背後で控えていた侍女たちが、息を呑むのが聞こえた。
その言葉に反応したのは、フィオナではなかった。レオナール・エスティネルだった。彼は、にこりと笑う。その笑顔は、普段の朗らかで陽気なレオナールのものと寸分違わない。しかし、その笑みの奥には、氷のような冷たさが混じっていた。
「――うちの大事な奥様を、泥棒猫呼ばわりしないでくれる?」
その一言が発せられた瞬間、周囲の空気が凍りついた。レオナール・エスティネルが「本気で不機嫌」になる瞬間を見た者は少ない。王都の貴族たちは、彼の豪快な性格は知っていても、その内に秘められた「獣」の一面を知る者は少なかった。それだけに、その静かな怒気は、ヴァイオレットの喉元をきゅっと締めつけた。ヴァイオレットは、恐怖に顔を青ざめさせ、一歩後ずさった。彼の琥珀の瞳の奥で、獣のような鋭い光が一瞬、きらめいたのを、フィオナは確かに見た。
しかし、そんなレオナールの迫力にも、フィオナはまるで気に留める様子もなく、彼の腕を軽く叩いた。
「レオナール様、そんな怖い顔しないで。お買い物中なのよ?」
フィオナの声は、甘く、そしてまるで子供を諭すようだった。その言葉に、レオナールの表情がわずかに和らぐ。彼が、どれほどフィオナの言葉に影響されているかが、周囲の誰の目にも明らかだった。
「……でも、君が侮辱されたんだぞ?」
レオナールは、まだ怒りの色が残る声で尋ねる。
「たかが婚約者候補のお一人に、そんなことを言われるなんて……私、これからあと何人に“泥棒猫”って言われるのかしら?」
フィオナは長い睫毛を伏せ、無邪気に問いかけた。その言葉には、一切の悪意も計算もないように見えた。だが、その実、彼女はヴァイオレットが抱いているレオナールへの未練の大きさを、意図的に露呈させていたのだ。
レオナールは、フィオナの言葉を聞いて、ふと笑みを浮かべた。その表情は、先ほどの冷酷さとは打って変わって、心底楽しんでいるかのようだった。彼は真面目に指を折って数えはじめた。
「うーん……ざっと数えて、十五人かな? もしかしたら、二十人くらいいるかもしれないな」
「まあ! それだけ“レオナール様を狙ってた人”がいたんですのね。わたくし、罪な女だわ」
フィオナは本当に楽しげに笑った。彼女は、レオナールの言葉を、自分がそれだけ魅力的であることの証明だと受け取ったのだ。そして、それらの女性たちを退けて、自分が彼の唯一の妻となったことに、静かな優越感を抱いていた。その様子に、ヴァイオレットは息を呑んだ。顔を赤くし、悔しさに唇を噛み締める。
(この女……全く、動じていない)
侮辱しても、嫉妬をにじませても、何一つ「効かない」。いや、それどころか、全てを「可愛さ」で呑み込み、自分の優位性を確立してしまう。ヴァイオレットは、フィオナという存在が、自身の常識をはるかに超えていることを理解した。
「……あなた、いつかその余裕、崩れることになるわよ」
ヴァイオレットは、絞り出すような声で、呪いのように呟いた。その言葉には、未来への不吉な予感が込められているようだった。
「その日が来たら、紅茶でも用意して待っていてくださらない? その時はわたくし、自家製のクッキーでも焼いて持っていきますわ。ヴァイオレット様のお口に合うといいけれど」
フィオナは完璧な微笑みでそう返すと、レオナールの手を取った。その手は、まるで彼を支配するかのように、しっかりと彼の指を絡めとった。
「さ、レオナール様。買い物に戻りましょう? 可愛い扇子が私を待っているわ」
「うん、行こう。君の笑顔を邪魔するものは、俺が全部遠ざける。何があっても、君の側を離れることはない」
レオナールは、フィオナの手を握り返し、優しく微笑んだ。二人は何事もなかったかのように連れ立って歩き出す。フィオナのステップは軽やかで、うさぎの耳飾りが揺れていた。まるで、ヴァイオレットの存在など、最初からいなかったかのようだった。ヴァイオレットは、その背を見送りながら、怒りに震え、拳を握りしめた。
(どうして……どうして“あたし”じゃなかったの? あの人が、あんなにも執着する相手は、私であるべきだったのに……!)
彼女の心には、フィオナへの憎しみと、レオナールへの拭いきれない執着が、深く刻み込まれた。
「ねえレオナール様。あの反応……ちょっと可哀想だったかしら?」
人混みに紛れ、ヴァイオレットの姿が見えなくなったところで、フィオナはレオナールの腕に手を絡ませ、小悪魔的に上目遣いで尋ねた。
「まさか。君が“勝者”って証明された瞬間だったろう? 俺は君が誇らしいよ」
レオナールは、フィオナの頭をもう一度優しく撫でた。彼の言葉は、フィオナの心を完璧に満たしてくれた。
「ふふっ、確かに。じゃあ、ご褒美におねだりしてもいい?」
「もちろん。欲しいもの、全部言ってごらん」
レオナールの声は、どこまでも甘い。フィオナは、これほどの男性が、本当に自分の手のひらで転がされていることに、確かな手応えを感じていた。
「じゃあまずは――さっきのお店にあった、うさぎ柄の扇子。それと、金の刺繍入りの手袋。そして……」
フィオナは、次々と欲しいものを挙げていく。レオナールは、その全てを「うん」と頷いて受け入れた。
「そして?」
レオナールが促すと、フィオナは満面の笑みを浮かべた。
「今日一日、“レオナール様は私だけのもの”って、周囲に自慢しながら歩きたいの」
その言葉に、レオナールは少し目を細める。彼の瞳の奥に、わずかながら、真剣な光が宿った。
「それは……もう君の特権だろう? 誰がどう見ても、君は俺の唯一の妻だ」
「ううん、“自慢しながら”ってところがポイントなのよ。見せびらかしたいの。こんなにも甘くて、私を溺愛してくれる旦那様、って」
フィオナは、彼の顔に触れ、甘えるように頬を擦り寄せた。彼女の言葉は、レオナールの独占欲と、フィオナ自身が彼を独占したいという願望が、見事に一致していることを示していた。
「……君って、やっぱり小悪魔だな」
レオナールはそう呟いた。その声には、呆れではなく、純粋な喜びと、フィオナへの深い愛情が込められていた。
「それ、褒め言葉で受け取っていい?」
「もちろん。世界で一番可愛い“小悪魔”だ」
レオナールはそう言って、フィオナの手をとった。ふたりの指が絡まる。その瞬間、ヴァイオレットの姿も、過去の名も、今はもう意味を持たない。愛されているのは「今ここにいる、フィオナ」だけ。
午後、街角の小さなマカロン専門店にて。
「見て見て、レオナール様。このラズベリー色のマカロン、うさぎの形!」
フィオナは、ショーケースに並べられた愛らしいマカロンを指差して、無邪気にレオナールに呼びかけた。
「うわ、本当だ。君に似てる。可愛い」
レオナールは、フィオナが喜ぶのを見て、心底楽しそうに笑う。
「また甘いこと言って……でも、好き」
フィオナは、彼の言葉を素直に受け止め、照れたように微笑んだ。
「俺も」
レオナールは、フィオナの髪を撫でながら、そっと呟いた。見つめ合う二人の空気は、もはや誰にも割り込めない、甘く、閉じた世界となっていた。
かつての婚約候補たちが、いかに華やかで、いかに名家の令嬢であったとしても――この空間には入れない。フィオナが作り上げた、レオナールとの絶対的な「二人だけの世界」。そこには、彼女以外の誰も立ち入ることは許されない。
フィオナは小さく笑いながら、うさぎの形をしたマカロンを口に運んだ。甘く、柔らかい食感が口の中に広がる。
(泥棒猫でも、なんでもいいわ。「可愛く笑って、全部もらう」のが私なんだから。そして、手に入れたものは、誰にも渡さない)
フィオナの瞳の奥で、確かな決意の光が揺れていた。それは、レオナールの「執着」と響き合う、彼女自身の「独占欲」の萌芽だった。この「遊戯」の勝者は、いつだって自分だと、フィオナは疑わなかった。