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05.兄の忠告、妹の覚悟


 春の暖かな陽光が差し込む城の中庭では、薄紅のクロッカスが風に揺れ、穏やかな午後の訪れを告げていた。噴水の清らかな水音と、木々の間を飛び交う鳥のさえずりが響くその空間に、白亜のティーテーブルと優雅な椅子が設えられていた。


 そこに座る一人の男――ルネ・シャルメリーズ伯爵。フィオナの兄にして、王都では「氷の瞳の副将」として知られる、冷徹な美貌の持ち主だ。整った顔立ちと、常に冷静で筋の通った行動が、彼を王都の貴族たちから広く慕われる存在にしていた。しかし、妹のフィオナに関してだけは、その評価が真っ二つに割れる。彼の妹への過保護ぶりは、「シャルメリーズ伯爵?  あの妹至上主義の……」という噂が立つほどだった。


 そのルネが、今日このエスティネル辺境伯領に足を運んだ理由は、決して王都からの使者としての公務だけではない。もちろん、義弟であるレオナール辺境伯への挨拶もあるが、真の目的は、愛する妹の現状を確認することだった。


「兄妹でお茶でも、というお誘いを受けたからだ。……まったく、珍しいことをする」


 テーブルの前に座るルネは、手袋を外しながら目を細めた。彼が「珍しいこと」と評したのは、レオナールが兄妹水入らずの時間を設けたことだ。それは、彼がフィオナを大切にしている証拠ともとれるが、ルネの心には、拭いきれない疑念があった。




 そして数分後。


「お兄様っ!」


 軽やかな足音と共に、中庭に現れたのは、淡いピンクと白のレースとリボンで飾られたドレスに身を包んだ、フィオナ・シャルメリーズだった。彼女のミルキーピンクの髪が、陽光を浴びてきらきらと輝いている。


「会いたかったわ!」


 フィオナは勢いよく駆け寄ると、ルネが椅子から立ち上がる間もなく、そのまま彼の胸に飛び込んだ。ルネは、反射的に妹を抱きとめたが、その表情には困惑の色が浮かんでいる。


「お、おい……いきなり抱きつくな。服が皺になるだろう」


 ルネの普段の冷静さからは想像できないほど、動揺した声だった。王都では、いかに妹が可愛かろうと、公衆の面前で抱きつくなどあり得ないことだ。


「そんなの気にしない。だって、お兄様は久しぶりなんですもの」


 フィオナはまるで子兎のようにルネの胸に擦り寄りながら、嬉しそうに笑った。その仕草は、彼の心を解きほぐすのに十分だった。


 ルネは苦笑しつつ、妹の髪を一度撫でた。その手つきは、優しく、そしてどこか不器用だ。


「……相変わらず、変わらないな。いや、少し大人びたか?  まだお菓子作りとお昼寝ばかりしているのか?」


 ルネの言葉は、以前フィオナがヴァイオレットに言った「お菓子作りとお昼寝ばかり」という言葉を指していた。彼は、妹がレオナールに「可愛い」と言われるために、そう振る舞っていることを知っている。


「そう?  やっぱり、奥様らしくなったのかしら♪」


 フィオナは悪戯っぽくウインクする。その表情は、ルネの心を読んでいるかのようだった。


「……はしゃぎ過ぎるな。どこに目がついているかわからん」


 ルネは周囲を警戒するようにちらりと見渡す。彼の脳裏には、レオナール・エスティネルの「裏の顔」がちらついていた。


「“あいつ”は?」

「“あいつ”?  ああ、旦那様のこと?」


 フィオナはふわっと笑った。


「“兄妹で仲良くお茶を飲んでおいで”って。来ないのよ、本当に……旦那様って、チョロいんだから」


 フィオナの言葉に、ルネの眉がぴくりと動いた。彼の瞳に、冷たい光が宿る。


「フィオナ。おまえ、旦那のことを“チョロい”と言ったな?」


 その声音には、明確な威圧感が含まれていた。普段の穏やかな兄の顔ではない。


「言ったわよ?  だって本当なんですもの。ちょっと甘えたらなんでも言うこと聞くし、買ってくれるし、時間もくれるし」


 フィオナは、ルネの言葉の真意を測るように、瞳を細めた。しかし、彼女の口調は一切変わらない。まるで、自分に非がないとでも言うように。


「そういう“優しさ”の陰に、何かが潜んでいるとは思わないのか?」


 ルネの声音が変わった。先ほどまでの穏やかな兄ではなく、「戦場の副将」の顔をしていた。その視線は鋭く、フィオナの心の奥底を見透かそうとするかのようだった。


「……フィオナ。気をつけろ。あの男は“普通”じゃない」


 ルネは、レオナールの過去について、独自に調べ上げていた。王都にいる間も、彼は辺境伯の動向を常に監視し、特に彼の過去の女性関係については、徹底的に情報を集めていた。


 フィオナはティーカップを手に取り、紅茶をひとくち。その動作は優雅で、ルネの剣幕にも一切動じていないように見える。


「はいはい。お兄様が心配性なのは、昔から変わらないのね」


 フィオナは、幼い頃からルネの過保護ぶりに慣れ親しんでいた。彼が自分を心配する気持ちは理解できるが、それを「心配性」の一言で片付けた。


「これはただの心配じゃない。忠告だ」


 ルネの声に、苛立ちが滲む。彼は、フィオナが自分の忠告を軽んじていることに気づいていた。


「どんな忠告?」


 フィオナは、あえて挑発するように問いかけた。彼女は、兄がどこまでレオナールのことを知っているのか、確かめたかった。


「過去に、“婚約者候補”を壊した男だ。……しかも、エスティネルの内情を調べるほどに、その話は“なかったこと”にされている。証拠がことごとく、綺麗に消されている」


 ルネの言葉に、フィオナの手が、ほんの少しだけ止まる。カップを持つ指先が、微かに震えた。イレーヌ・モントレイユ伯爵令嬢。その名は、王都の社交界でも、レオナール・エスティネルの暗い過去として密かに囁かれていた。しかし、その真相は誰も知らず、ただの噂として扱われていたのだ。ルネの言葉は、その噂が真実であり、しかもレオナール自身によって隠蔽されていることを示唆していた。


 だが――次の瞬間、フィオナはいつもの笑顔でカップを置いた。その表情は、完璧な「小悪魔」の仮面を被っているかのようだった。


「それって、嫉妬じゃない?」

「……は?」


 ルネの顔が、驚きと怒りで歪む。


「私が、誰かの奥さんになったから。お兄様の“独占”が終わったから、だからそんな風に言うんじゃない?」


 フィオナは、ルネのシスコンを逆手に取った。彼の言葉の裏に「妹を取られたくない」という感情があると指摘することで、彼を動揺させ、その忠告の信憑性を揺るがそうとしたのだ。


「馬鹿を言うな」


 ルネは低い声で言い放った。彼のプライドを傷つけられたことへの怒りがあったが、同時に、フィオナに図星を突かれたことへの僅かな動揺も隠せなかった。


「ふふっ。でも、ちゃんとありがとう。お兄様のそういうところ、私は好きよ」


 ルネの鋭い視線を、あえて正面から受け止めながら、フィオナは柔らかく微笑む。その笑顔には、ルネへの信頼と、そして彼を掌で転がしている確信が宿っていた。


「大丈夫よ。私は、自分を壊すような男に甘えたりしない」


 フィオナの言葉には、確固たる自信が満ちていた。彼女は、自分の「愛され術」を過信しているわけではない。むしろ、その術を使って、どんな男も手懐けられると信じていた。レオナールの持つ「刃」を、彼女は「飴細工」に変えられると。


「フィオナ……」


 ルネは、妹の言葉に、何も言い返すことができなかった。彼の目に映るフィオナは、もう幼い頃の守るべき妹ではなかった。自らの意志を持ち、困難に立ち向かおうとする、一人の女性として立っていた。


「それに、今の旦那様は“お砂糖”みたいに甘いの。ふわふわで、溶けちゃうくらい」

「……そう見えても、中に“刃”が仕込まれているかもしれない。その甘さで獲物を油断させ、深く突き刺すような……」


 ルネは、最後の忠告を振り絞るように言った。


「それなら、私がその刃を“飴細工”にしてあげるわ。甘くて、誰も傷つけない、美しい飴細工にね」


 その瞬間、ルネの表情が少しだけ変わった。妹の成長――いや、変化を感じ取ったのだ。彼女は、もはやただ守られるだけの存在ではない。自分自身の意思で、危険な男に立ち向かおうとしている。


「……本当に、大丈夫なんだな?」


 ルネは、フィオナの目を見つめ、もう一度問いかけた。彼の声には、妹への心配と、彼女の決意を尊重しようとする葛藤が入り混じっていた。


「大丈夫よ。ね、せっかくだから甘い焼き菓子、もうひとつ食べていって。お兄様の好きなフィユタージュもあるのよ」


 フィオナは、そう言って、ティーテーブルの皿をルネの目の前に差し出した。皿の上には、ルネの好物がきちんと載っていた。それは、フィオナが、ルネの好みを事前に調べていた証拠でもあった。彼は少しだけ気を抜いたようにため息をつき、フォークを取った。


「……やっぱり、おまえは変わらんな」

「でしょう?」


 フィオナは微笑んだ。ふたりはその後、穏やかな午後を共に過ごした。兄妹の会話は、ルネの心配をよそに、暖かく、そして優しい時間として流れていった。

 けれど、その背後で――。




 城の窓の奥から中庭を見下ろしていた男がひとり、静かに紅茶を啜っていた。──レオナール・エスティネル。彼は来なかったわけではない。「兄妹水入らずの時間を邪魔しない」という名目で、あえて姿を見せなかっただけだった。


「兄貴ってのは、どうしてどいつもこいつも“過保護”なんだろうな」


 レオナールは、ティーカップを置くその手は、どこまでも静かだった。だが、彼の瞳の奥に一瞬、青白い炎が揺れたのを、誰も知らない。それは、フィオナに向けられた、深く、そして底知れない「執着」の炎だった。ルネの忠告は、彼の耳には届いていなかった。あるいは、聞こえていても、まるで意に介していないかのように。

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