04.勝者の微笑
春の陽光が差し込む応接間には、今日も甘い紅茶と焼き菓子の香りが満ちていた。城に運ばれてきた王都の菓子は、フィオナのお気に入りで、エスティネルでの生活に彩りを添えている。
「……へえ。ヴァイオレット様って、かつては“エスティネル辺境伯家の花嫁候補”だったんですねぇ」
侍女のエメが、何気ない調子でぽつりと呟いた一言に、フィオナの指がカップの縁で止まった。昨日、市場で出会ったヴァイオレット・グラセ伯爵令嬢のことである。エメは、カミラから聞いたらしいその情報を、特に他意なく伝えただけだった。
カップの縁に添えていたフィオナの唇が、そのままふわりと微笑に変わる。
「ふうん……それってつまり、あの子、私の“落とした果実”だったってこと?」
あまりに無邪気で、しかし本質を突いたその声色に、エメは若干の恐怖すら覚えた。フィオナ様のこういった部分は、本当に小悪魔のようだ、とエメは内心で身震いする。しかしフィオナ本人は、いたってご機嫌だった。
(まあ、なんとなく感じてはいたけど……やっぱりそういうことだったのね)
昨日の街角での対峙。ヴァイオレットの張りつめた笑顔の下にあった「どうして私じゃなかったの?」という、隠しきれない執念めいた感情。その理由が、今、ようやく腑に落ちた。単なる嫉妬ではない、もっと根深い感情がヴァイオレットにはあったのだ。
フィオナは優雅に紅茶を口に運びながら、小さく息をつく。その瞳には、勝利を確信した狩人の光が宿っていた。
(でも、もう遅いわ。レオナール様は、今や“私のもの”よ)
可愛く、ふわっと笑って。その実、勝ち誇った獲物の目をして。フィオナは、自身の掌の上で踊るヴァイオレットの姿を想像し、満足げに口角を上げた。
「……ねえエメ。私、旦那様におねだりしてくるわ。たっぷり、愛されてきますもの」
そう言って、フィオナは椅子から腰を上げた。淡いピンクのドレスの裾が弾むたび、勝者の光が揺れる。彼女の足取りは軽やかで、まるで今から舞踏会へ繰り出すかのように見えた。エメは、その背中を不安そうに見送った。フィオナ様が、レオナール様を手のひらで転がしているのはわかる。しかし、レオナール様の底知れない部分に、エメは依然として拭い去れない恐怖を抱いていた。
執務室の扉を開けると、レオナール・エスティネルは相変わらず、机に積まれた文書と向き合っていた。しかし、その姿勢は、あくまで「くつろぎスタイル」。背もたれにどっしりと身を預け、右手に羽ペン、左手には、以前フィオナが贈った小さなチョコレートの包みが握られていた。
「……またお菓子を片手にお仕事?」
フィオナが呆れたように問いかけると、レオナールは顔を上げて、すぐに口説き文句が飛び出してきた。
「お、フィオナ。今日も可愛いな。うちの城の花って、もう庭だけじゃなくて“中”にも咲いてたのか」
(ほんと、ちょろい)
フィオナは内心で呟いた。彼のこの軽さが、妙に心地よいと感じていた。王都の貴族たちは、常に相手の言葉の裏を探り、隙を見せない。しかしレオナールは、どんな言葉も素直に受け止め、感情を隠すことがない。あるいは、隠す必要がないと思っているのか。フィオナは遠慮なくレオナールの膝に腰を下ろし、彼の首元に頬を寄せた。彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。
「ねえ、わたし、知ってしまったの」
「うん? 何を?」
レオナールは、警戒する様子もなく、優しくフィオナの髪を撫でた。
「あなたの……“かつての婚約者候補”のこと」
「……ああ」
レオナールの動きが、ほんの一瞬だけ止まる。手にしていた羽ペンが、カツン、と机に触れた。しかしその直後には、いつも通りの柔らかな笑みが戻っていた。その変化は、あまりに自然で、フィオナでも一瞬見間違えたかと思うほどだった。
「噂か。……いや、まあ、正確には“候補のひとり”ってだけだったけどな。王家からの推薦で、いくつかお見合いの話はあったんだ」
「ヴァイオレット。昨日、出会ったあの子よね?」
フィオナは膝の上で身じろぎしながら、唇だけで笑った。その表情は、愛らしい子ウサギのように見えて、その実、獲物を捉えた雌豹のようでもあった。
「うん。昔、王家からの推薦があってね。でも、俺の意志じゃなかった。彼女とは一度会ったきりだ」
レオナールは淡々と答える。彼の言葉には、ヴァイオレットに対する特別な感情は一切感じられなかった。
「ふぅん……でも、彼女、いまだに“未練あり”って顔してたわよ」
フィオナの指摘に、レオナールは困ったように眉を下げた。
「そうか? 気づかなかったな。俺はそういうのに疎くて」
「あら、本当に? でも、残念だったわね。もう、あなたは“わたしの旦那様”なんだもの」
フィオナは、彼の首に腕を絡め、甘えるように顔を擦り寄せた。その言葉には、確かに彼を自分のものにしたという確信と、ヴァイオレットへの静かなる勝利宣言が込められていた。レオナールは、どこか嬉しそうにその言葉を聞いていた。彼の瞳には、満ち足りた光が宿っている。
「そう言ってくれると、ちょっと自信になるよ」
「じゃあ、もっと自信を持ってもらわなきゃね」
フィオナは腕を絡めたまま、彼の首元にそっと唇を寄せる。その距離、息がかかるほど。レオナールの頬に、フィオナの吐息が温かく触れる。
「……私、昨日ね。いろんな人に羨ましがられたの。あなたに“甘やかされてる”って」
「そりゃ当然だろ。世界で一番可愛い奥様に、俺は負けっぱなしだ」
レオナールの言葉に、フィオナは満足げに笑った。彼のこの軽口は、彼女を常に満たしてくれる。
「ふふっ、じゃあ、今日も負けて?」
「……どんな勝負かによるけど」
レオナールは、フィオナの額にキスを落とした。
「“わたしを好きすぎて政務が手につかなくなる選手権”よ」
フィオナは挑戦的な瞳で彼を見上げた。レオナールはふっと笑い、羽ペンを置いた。
「それ、もう優勝してる気がするけどな」
その言葉は、嘘偽りのない本心から出たものだった。彼の政務能力は極めて高く、どんなに忙しい時でも決して仕事を滞らせることはない。しかし、フィオナが隣にいると、どうにも集中できない。彼女の存在そのものが、レオナールの心を揺さぶるのだ。
一方その頃、執務室の扉の外――
政務官セシル・ロシュは、手に持っていた分厚い書類を掲げたまま、遠くを見つめていた。彼の整った顔には、呆れと、しかしどこか尊敬の入り混じった表情が浮かんでいる。
「……やっぱり今日もダメですね、あれ」
昨日も、一昨日も。執務室に書類を持って行くたび、主であるレオナールは膝に妻を乗せてご機嫌な様子だった。その光景を見れば、誰もが「これは仕事にならないな」と思うだろう。なのに――
「なぜ、政務は全部終わってるんですかね……?」
セシルは頭を抱えた。レオナール・エスティネル。その気さくで軽やかな印象に反して、彼の政務能力は極めて高く、しかも「抜け目がない」。表向きには甘やかし系の旦那様を演じているが、実態は、フィオナとの夫婦の時間を確保するために、早朝4時から働き、重要な案件だけを一瞬で処理していた。彼の効率性は、もはや人智を超えているとしか思えなかった。その時、執務室からレオナールの声がかかった。
「……セシル? それ、後ででいいか?」
「“妻が可愛いから集中できない”らしい」
「……っ!!」
扉越しに顔を覆うセシルの後ろで、メイド頭のカミラが小さく呟いた。
「はいはい。いつも通り“本気で甘やかすモード”ね。お茶と菓子は、もう少ししたら届けるからねぇ」
カミラは慣れた様子で微笑んだ。レオナールがフィオナに深く傾倒していることは、城の使用人たちも皆、知っていた。そして、それが城に明るさをもたらしていることも。
執務室では、フィオナがレオナールの首に腕を絡めたまま、膝の上で揺れていた。
「レオナール様、わたしのこと……どれくらい好き?」
「この国の大きさを“可愛さ換算”したら足りないくらい好き」
レオナールは、ため息をつくように甘い言葉を紡ぐ。その言葉は、フィオナの心をくすぐる。
「ふふっ、上手に言うのね。でも、その言葉、きっとヴァイオレットにも言ったことあるんじゃない?」
フィオナは、彼の言葉の裏を探るように問いかけた。彼女の小悪魔的な本能が、彼の隠された本心を暴き出そうとする。
「ないない。……あの子には“真面目な挨拶”しかしたことないよ。当たり障りのない社交辞令だけだ」
レオナールは、フィオナの頬にキスを落とし、優しく否定した。
「本当に?」
「フィオナには、全部“初めて”なんだ。こんな風に、誰かを膝に乗せて仕事をしたのも、可愛いからって理由で仕事を放り出したくなったのも、君が初めてだよ」
その言葉に、フィオナの頬がわずかに赤く染まる。彼の瞳の奥に、嘘偽りのない感情が見えた気がした。それは、彼女の心に、これまで感じたことのない温かい感情を呼び起こす。だが、すぐにふわりと微笑んだ。
「……なら、これからも全部、わたしの“初めて”で塗りつぶしてね?」
その笑顔に、レオナールの目がやや細められる。彼の瞳の奥に、深い、底知れない感情が揺らめいた。
ふと、彼の中に「既視感」がよぎった。あのときも――誰かに、こんなふうに微笑まれていたような。その笑顔が、彼を深い闇へと引きずり込んだような。イレーヌ・モントレイユの面影が、一瞬、脳裏を過った。
けれど。
(……いや、違う。これは“今の幸せ”だ)
レオナールは、その過去の記憶を振り払うように、強く目を閉じた。過去が何を告げようと、今ここで膝の上にいる少女は、自分の「すべて」に変わりない。この温かさ、この安らぎ、この可愛らしさ。これらすべてを、彼は手放すわけにはいかなかった。
「もちろんだよ、フィオナ」
レオナールは優しく囁き、そっと彼女の手に口づけを落とした。彼の瞳は、フィオナを捕らえ、二度と離さないと誓っているかのように、深く、熱く輝いていた。彼の「執着」は、知らず知らずのうちに、形を変えて、フィオナに絡みついていた。