007.檻とチョコレートの惚気話
エスティネル辺境伯領の客間。豪華ながらも落ち着いた調度品で統一された客間には、静かな午後の光が差し込んでいた。珍しく、兄妹の二人きりで向かい合うティータイム。辺境伯レオナールは政務で席を外しており、ルネは、警戒する相手がいないことに、心底安堵していた。
「で? 今日は何しに来たの、お兄様。まさか、またわたしを連れ戻そうなんて考えてませんでしょうね?」
フィオナは紅茶のカップを口元に運びながら、胡散臭そうに目を細める。彼女の表情は、以前の「怯える子兎」ではなく、自分の居場所に確信を持つ「飼い慣らされた美しき花嫁」のそれだった。
「お前の顔を見に来た。それだけだ。ちゃんと幸せにやっているか、兄として確認しに来た」
ルネは、素っ気ない口調で答えたが、その視線はフィオナの顔色を細かく伺っていた。
「ふうん? 旦那様に会うんじゃなくて?」
「……べ、別に奴に用があるわけじゃない。あの男の顔なんて、一秒でも長く見たくない」
「へえ~? でも、お兄様、辺境伯領に来る頻度、高くなりましたわね。もしかして、旦那様と気が合うんじゃない?」
ニヤニヤと笑う妹にルネは咳払いをして視線を逸らす。その仕草がまた可笑しくて、フィオナはくすくす笑った。
「で、仲良くしてるの? レティシア様と。わたしに相談してきたくらいだもの、進展があったのでしょう?」
「ああ。もちろん、最高に」
フィオナが問いかけると、ルネの顔は一瞬で柔らかくなった。その変わりようは、フィオナも目を見張るほどだった。
「……うわ。ほんとに惚れてるんだ? あの、氷の令嬢に」
「当たり前だろう。あんなに健気でお淑やかな女性、他にいない。誰にも見せない心を、俺だけに見せてくれるんだ。朝起きて、隣に彼女がいるだけで、生きる希望が湧くというか……」
「うわ、キモい。お兄様まで、愛に狂った人間になってるじゃない」
「お前にだけは言われたくない。お前とあの辺境伯の関係なんて、狂愛の標本みたいなものだろう」
「私、そんなにキモくないもん。可愛く甘えてるだけだもの。わたしが甘えるから、旦那様もデレてくださるのよ」
「……あれを“可愛い”と言い張れるのは、旦那の感性がバグってるとしか思えない。あれは、完全な『支配』だ」
「それはお互い様じゃない? お兄様の奥さん、見た目キツめの美人さんなのに、中身はとろとろのチョコレートってギャップがすごいもの。デレ方とか完全にヒロインよ」
ルネは、口を閉じた。フィオナの言葉に、反論の余地はなかった。レティシアの「乙女心」を知る者は、自分と侍女のティリエしかいない。
「………………」
「ねぇ、でしょ? デレてるレティシア様、可愛いでしょう? お兄様は、そのギャップにやられちゃったんでしょう?」
「……あぁ、世界一だ。あの、恥ずかしがって俯く時の、耳の赤さといったら……あれを見たら、僕はもう、何も言えなくなる」
言い切った兄の表情が清々しくて、フィオナはちょっと感動してしまった。彼の瞳には、純粋な愛と幸福しか映っていなかった。
「……そっか。ちゃんと幸せなんだ、お兄様も。あのとき、わたしに相談してきてくれて良かったわ」
「お前だって、なんだかんだ言って幸せそうじゃないか。あの辺境伯が、お前のことになると骨抜きで、政務すら手につかないのは見てればわかる。あいつ、確実に、お前の愛の檻に閉じ込められてるぞ」
「うふふ、でしょ? 私ってば、ほんと『手のひらの上で転がしてる』って感じ? 彼の狂愛を、わたしが手綱を握ってコントロールしてるのよ」
「いや、あれは……」
言いかけたルネの口が止まる。
(いや、あれはむしろ……手綱を握ってると思わせて、全部握られてるんじゃないか……? フィオナの方が、あの男の愛に依存しきっているように見える)
兄としての懸念は尽きない。が、本人がにこにこ満足げにしているなら、今は口をつぐもう。そう思った。
「で、お兄様の方は? レティシア様をどうやって口説いたの? あの氷の令嬢が、あんなにデレるなんて」
「……正直に言えば、口説かれたようなものだ。彼女が勇気を出して、自分の心をさらけ出してくれたんだ」
「えぇ、あのお淑やかなレティシア様が? なんて言ったの?」
「彼女なりに必死だったんだ。『伯爵様とお話していると緊張で紅茶を持つ手が震える』とか、『夜中に、はしたない自分を思い出して泣いている』とか……あの、にじみ出る努力とか、もう可愛くてな……」
「え、語り入った。長くなるやつ? わたし、チョコレートのレティシア様語りを聞かされるの?」
「ちょっとだけな。その手紙がな、毎回、便箋の一番下に『追伸:わたくしの恥ずかしき姿を、どうかお忘れくださいませ』と書いてあるんだ。それが……もう……」
──結局、フィオナはレティシアの手紙攻撃や、可愛い失敗談、ティリエによる恋愛指南などを小一時間聞かされることになった。
「……ふうん。お兄様もけっこうデレてたんじゃない? お義姉様の純粋さに、完全にやられちゃってる」
「否定はしない。彼女の愛は、僕にとって、何よりも尊いものだ」
「まあ、うちは旦那様がもっと凄いけどね。毎日『可愛い』『可愛い』って。挙句の果てには『フィオナしか要らない。君がいない世界は、僕には地獄だ』って……」
フィオナは、頬を染めながら、レオナールの溺愛っぷりを語る。
「うるさい。もう聞きたくない。そっちは、愛じゃなくて依存だ」
「じゃあお兄様も惚気てみなさいよ。私が絶句するくらい甘ったるいやつ」
「……毎晩、寝る前に彼女が『今日も大好きですわ、旦那様。明日も、明後日も、愛しています』って耳元で囁くんだ。その時、僕は、世界一の幸福者だと感じる」
「っ……なにそれずるい……あざと……。そんな純粋な愛、卑怯だわ!」
「こっちのセリフだ。レオナールが『フィオナがいるから生きていける。君は僕の酸素だ』って言ってたって、こっそりエメから聞いたぞ」
「……ば、ばれてた? エメったら、余計なことを……」
「もともと、エスティネル家の古参の使用人はあいつの狂愛に気付いてる。お前だけだぞ、途中まで本気で『私が手綱握ってる!』って思ってたの」
「う、うるさいわね……! でも、いいの。お互い、幸せなら。わたしの檻は、この世で一番安全な場所だもの」
「……そうだな。俺の妻の純粋さも、この世で一番の宝だ」
フィオナは、満足げに微笑んだ。
「……ほんとに変ね。お互い、『まさかあの人と』って感じだったのに。最初は、政略的な婚約だったはずなのに」
「『まさか』が、運命なのかもしれん。俺たちの愛は、形は違うが、本物だ」
「……かっこいいこと言ってごまかさないで。でも、まあ、そうね」
紅茶のおかわりをエメがそっと注ぎながら、ふたりの会話を聞いて微笑む。
「本当に、仲の良い兄妹でいらっしゃること。そして、奥様、旦那様、それぞれが心から愛し合っておられて、私たちも大変嬉しく思います」
「まあ、たまにはね」
「たまにでいい」
それぞれが「配偶者を一番愛しているのは自分」だと確信しているからこそ、今日の兄妹喧嘩は、どこか楽しげで、平和だった。ルネは、レティシアの「純粋すぎる愛」という蕩けるチョコレートに溺れ、フィオナは、レオナールの「狂愛」という名の檻の中で永遠の幸福を見つけた。
二組の夫婦の愛の形は、「支配と依存」と「純粋と誠実」という、正反対の形をしていたが、彼らにとってそれは紛れもない「真実の愛」だった。




