006.チョコレート夫婦の甘い日常
「……おはようございます、旦那様」
囁くような、鈴の音のように甘い声と共に、レティシアはルネの胸に額をこすりつけた。ぬくもりの中で目覚めた彼女は、昨夜のことを思い出して真っ赤になっている。その頬の熱は、ルネの肌にまで伝わってきた。
「ん……おはよう、レティシア。よく眠れたかい?」
ルネもまた、腕の中の愛しい妻を見下ろして、ふわりと微笑んだ。彼の瞳には、かつての「警戒心」や「緊張」は微塵もなく、ただ深い愛情と、幸福感が満ち溢れていた。
(あぁ……朝からこんなに可愛い……なんて尊い光景なんだ。なんだこのご褒美は……こんなにも心が満たされるなんて、政務を全部投げ出しても惜しくない……)
しばらく布団の中で互いを見つめ合い、時折、優しくキスを交わし、また黙って見つめる。二人の間には、言葉以上の、濃密で甘い空気が流れていた。
「……昨日のこと、夢だったらどうしようって思ってたんだ。君があまりにも完璧で、可愛すぎて……」
ルネが不安そうに呟いた。彼の言葉は、レティシアの心に深く響いた。
「夢じゃありませんわ。だって今、こうして……」
レティシアはそっとルネの手の甲にキスをした。その仕草は、以前の「氷の令嬢」からは想像もつかないほど、愛らしく、そして大胆だった。
「あなたの腕の中にいますもの。わたくし、今日からあなたの妻ですわ」
「…………尊すぎる……」
思わず、ルネが小声で呟く。その声は、感動で震えていた。
「え? 何か仰いましたの?」
「な、なんでもない! その……かわ……可愛いなって思っただけ! 君の、その仕草が、あまりにも……」
「……ふふ、ありがとうございます、旦那様。貴方様にそう言っていただけると、わたくし、勇気を出して良かったと思いますわ」
再び頬を赤らめるレティシア。ルネは、昨夜の出来事が脳裏にリピート再生されて、思わず顔を覆った。彼の脳裏には、レティシアの愛らしい微笑みと、小さく震える声、そして彼の愛を受け入れたときの幸福そうな顔が、エンドレスで再生されていた。
(……だめだ……思い出すだけで、脳がとける……仕事なんて、できるわけがない……)
ティリエは、ルネとレティシアの寝室の廊下で、ニコニコしながら控えていた。その顔は、まるで自分の恋が成就したかのように、喜びに満ちていた。
(昨夜のご様子……言わずともわかりますとも。お嬢様は、完全に氷が溶けて、ルネ様に全てを委ねていらっしゃる)
部屋の扉越しに聞こえてきた「ふふ」「うふふ」「だんなさま……」「れ、レティシア……」という、幸せ成分多めの語彙と、時折聞こえる小さな囁き。それを朝から再び聞かされて、ティリエは悟った。
(……完全に、落ちましたね。お互いに。しかも、お嬢様の方が、ルネ様を掌握している……!)
ティリエは、こっそり持っていた小さなノートに「初夜成功」の印をつけながら、ふむふむとメモを走らせた。
・お嬢様、今朝から完全にとけておられる。甘さレベル:MAX
・旦那様、理性がどこかへお出かけ。政務より妻、優先
・チョコレート夫婦、爆誕。ルネ様は溶かされる側
「……このままいくと、旦那様はお仕事にならないのでは? お嬢様を前に、筆を持つことすらできなくなるかも」
という懸念が脳裏をよぎるも、「まぁそれも、いずれなんとかなるでしょう。お嬢様の幸せが第一です」とスルーした。
その頃、執事ヴァロワは机の上の書類の山を睨んでいた。ルネの執務室である。
「……ルネ様。お仕事が、結婚前と比べて、一枚も減っていないのですが。むしろ、増えているように見えます」
「…………すまん、ヴァロワ。君の言う通りだ」
ルネは、机に突っ伏していた。その手には、羽ペンではなく、レティシアからもらったハンカチが握られていた。
「ご結婚から一夜明けて、貴族としてのやる気はどこに置いてこられたのです? 奥様が、ご多忙な旦那様のためにと、お体を気遣っておられるというのに」
「その、あれだ……昨夜の記憶がな……。レティシアが、あまりにも可愛くて……」
「ふむ、記憶が?」
「彼女が微笑んだ顔と、頬を赤くして『旦那様』って……いや、だめだ、思い出したらまた脳がとけそう……っ! 彼女を目の前にしたら、もう、仕事どころじゃなくなる!」
「………………」
ヴァロワは静かに手を伸ばして、机の引き出しから常備薬である胃薬を取り出した。
「失礼します。本日2度目の胃薬です。ルネ様、ご自身の体の健康を考えてください」
「す、すまない……ヴァロワ。感謝する」
ルネは、胃薬を一気に飲み干した。
「正直なところ、わたくしも、奥様のあまりの愛らしさに、感動で泣きたくなるほど嬉しゅうございます。ですが、伯爵家の政務が崩壊しては元も子もありません。奥様も、それは望んでおられないでしょう」
「わかってる……ちゃんと、やる……でも今朝も……布団の中で彼女が、俺の手の甲にキスをして……っ!!」
「――胃に穴が空きそうです。ルネ様、せめてお昼までは、奥様を思い出さないでください」
ヴァロワの手が、薬の瓶を持つ手も、帳簿を持つ手も、細かく震えていた。
昼食時、食堂でふたりはようやく“人前で”顔を合わせた。ルネは、ヴァロワに無理やり引きずり出されたようなものだった。レティシアは上品に座り、ルネを出迎えるように微笑む。その微笑みは、もう「氷」のかけらもない、純粋な愛らしさだった。
「旦那様。お仕事、お疲れ様ですわ。少しでも、お体を休めてくださいまし」
「……う、うん。ありがとう、レティシア。君の顔を見たら、疲れが吹き飛んだよ……あの、その……っ」
(かわいい可愛いかわいい。ああ、ダメだ、言葉が出てこない。この可愛さを前に、どうしたら紳士でいられるんだ……!)
ルネは、口ごもる。
「……なにか? わたくしの顔に、なにかついておりますか?」
レティシアは、不安そうにナプキンで口元を拭った。
「い、いや……ドレス、すごく似合ってる。桜色のドレスが、君のその……優しい雰囲気に、ぴったりだ」
「まぁ。ありがとうございます」
レティシアはほんのりと頬を染め、ナプキンを胸元に当てる。
「お昼は、旦那様のお好きなメニューにしましたの。厨房にお願いして、わたくしが少しだけ、味付けを見てみましたのよ」
「……ありがとう……レティシア、最高の妻だ……。君以上の妻は、この世にいない」
「ふふ、まだ一日目ですわ。これから、もっと貴方様を甘やかして差し上げますわ」
その間、周囲の使用人たちはみな静かに微笑んでいた。
(まさかの、完落ち……ルネ様が、完全に骨抜きになられている)
(レティシア様が、こんなに柔らかくなるとは……愛の力は偉大ですな)
(旦那様、完全に骨抜きですね。ヴァロワ様のご苦労も、報われますまい)
ティリエは静かにレティシアに耳打ちした。
「お嬢様、あまり甘やかしすぎると、旦那様……とけますよ? チョコレートのように、形を失ってしまいます」
「……いいのですわ、ティリエ。とろとろに溶かして差し上げますの。わたくしの愛で、彼を完全に満たして差し上げますわ」
(お嬢様、完全にチョコレートモード……! もう、誰も止められません!)
政務の合間にちらっと部屋のドアを開けて、「会いたくて」と囁くルネ。その声は、一刻も早くレティシアの腕の中に飛び込みたい、という衝動に満ちていた。「少しだけですわよ? 早くお仕事を終えてくださいまし」とにっこり微笑み、ルネの手を取るレティシア。ふたりは廊下ですら恋人モード全開で、すれ違うたびに周囲が「尊い……」とざわめく。ヴァロワはそのたびに胃薬を取り出していた。
「……ご結婚、おめでとうございます、本当に……」
今日だけで3回目の祝辞をつぶやくと、ヴァロワは帳簿を睨んだ。
(まぁ、あれほど幸せそうな旦那様を見るのは初めてだからな……これくらいの苦労は、妥当か。だが……来月の政務量が倍にならないことを、心から祈る)
夜。ベッドの上、レティシアはルネの胸に耳を当てて、静かに目を閉じていた。彼の力強い鼓動が、彼女の心に安らぎを与えていた。
「……今日も、幸せでしたわ。旦那様」
「私もだ。君が隣にいるだけで、こんなにも世界が輝くなんて、知らなかった。ずっと、こうしていたい」
「明日も?」
「うん、明日も、明後日も。永遠に」
そして。
「……ずっと、レティシアのそばにいる。君が逃げ出さないように、私が君の受け皿になる」
ルネの言葉は、純粋な愛と誓いに満ちていた。
「はい、旦那様。わたくしも、あなたのそばを離れません。あなたの愛のお皿の上で、ずっと蕩けていたいですわ」
愛し愛され、氷の令嬢と理知の伯爵は、今日も“チョコレートのような”日々を、一歩ずつ積み重ねていくのだった。その日々は甘く、温かく、そして永遠に続くのであった。




