005.氷の令嬢と純粋な誓い
白亜のチャペルの扉が、厳かに開かれた。柔らかな光が、大理石の床を照らし、祭壇へと続く赤い絨毯を浮かび上がらせる。レティシア・エルフォルト。彼女の心臓は、耳元で激しい鼓動を打ち、ヴェールの中に閉じ込められた表情は、微動だにしなかった。
(深呼吸……深呼吸ですわ……ティリエに言われた通り、今日のわたくしは『チョコレートのように蕩ける』令嬢。決して氷の女王ではございません……)
白銀の髪をまとめ、繊細なレースの花嫁のヴェールをまとった姿は、完璧なまでに美しかった。だが胸の奥は、乙女のきらめきと、ルネに対する深い愛、そして不安とでいっぱいだった。
正面――祭壇の前、ルネがいた。背筋を伸ばし、新郎の儀礼服を完璧に着こなした伯爵は、きりりと引き締まった顔で、新婦を見つめていた。彼の表情は、一見すると緊張というよりも、深い決意に満ちているように見えた。
(ああ、今日からわたくしは……あの、不器用で誠実な、わたくしの旦那様の妻になるのですわ……)
一歩、また一歩。父に手を引かれ、レティシアはゆっくりと歩を進める。ルネの姿が近づくにつれ、彼女の緊張は最高潮に達した。ふと、ルネの瞳が揺れた。彼の瞳は、レティシアの「完璧な花嫁姿」ではなく、その内側に隠された「乙女の心」を見抜こうとしているかのようだった。
「……」
レティシアは、勇気を振り絞り、微かに微笑む。それは、ルネにだけ向ける、秘密の合図だった。ルネもまた、かすかに頬を緩めた。
(よし、かわいい。やっぱり、レティシア嬢は、その微笑みが一番だ。俺も、笑顔で迎えなければ……! 誠意だ、誠意!)
(笑ってくださった。伯爵様が、わたくしの微笑みを受け止めてくださった……!)
式の間中、ふたりは一切言葉を交わさなかった。しかし、その視線と息遣いと、手が触れ合う瞬間の、ぎこちない手の触れ方のひとつひとつに、深い想いが詰まっていた「誓いの言葉」を交わすとき、レティシアの唇は、緊張で渇いていた。だが、ルネが力強い声で誓いを述べたとき、彼女の心は、彼の愛に包まれた。
そして、誓いの口付けの瞬間。ヴェールを持ち上げたルネの指が、かすかに震えていたことを、レティシアは見逃さなかった。
(……伯爵様も、緊張なさっているのね。わたくしと同じように、この瞬間を、大切に思ってくださっている……!)
その事実に、レティシアは、胸の奥で熱いものが込み上げるのを感じた。そして、ふわりと瞳を閉じた。ルネの唇が、額にそっと触れる。それは、深く、情熱的なキスではなかった。あまりに丁寧で、優しくて、けれど、どこまでも「貴族らしくあらねば」と自分を抑えた彼の不器用な好意だった。
「……これから、よろしくお願いします。私の、愛しい妻」
ルネの言葉は、まるで祈りのように、静かに、そして真摯に響いた。
「……ご結婚、おめでとうございます、ルネ様。誠に、素晴らしい式でございました」
「ありがとう、ヴァロワ。……でも、正直、怖い」
ルネは、控え室で、執事ヴァロワに本音を漏らした。
「なにがです? レティシア様の美しさですか?」
「いや、違う。……彼女が、可愛すぎる。あの、俺の目をじっと見つめるときの、微かに震える唇が……どうしたらいいかわからない」
「――ああ、いつもの病ですね。ですが、ルネ様」
執事ヴァロワは、ぴたりと笑みを止めた。その瞳には、主に対する厳しくも優しい忠告が宿っていた。
「主に対する忠告ですが――レティシア様を遠くで見てばかりでは、今夜、花嫁に泣かれますよ? 彼女は、あなたの『観察対象』ではなく、あなたからの『愛』を求めています」
「そ、そんなつもりは……! 僕は、彼女を心から愛している!」
「ならば、行動で示してください。一度でも手を取ったなら、きちんと責任を持って優しくしてさしあげてください。彼女はあなたの“可愛いだけの存在”ではなく、今日から“妻”なのですから」
ルネは真顔で頷いた。ヴァロワの言葉は、いつも、彼の心の核心を突いた。
一方、レティシアの控室。
「お嬢様、どうですか? 緊張、してます?」
ティリエはドレスを整えながら、レティシアに尋ねた。
「ええ……わたくし、きっと今夜、どうにかなってしまいますわ……。あの方の、あの優しい眼差しに、わたくしの心は、完全に溶かされてしまいそうですわ……」
「お嬢様は、氷じゃなくてチョコレートですもんね! すぐ溶けちゃう! でも、溶けてしまっていいんですよ。旦那様に全部、受け止めてもらってください!」
「ティリエ、もう少し落ち着きなさいませ……! でも……」
「だって、今日の旦那様、めっちゃ可愛かったですよ? 誓いのキスの時絶対、手が震えてました! あれ絶対緊張してる顔でした!」
「そ、そうかしら……」
(かわいい……。あの不器用な優しさが、たまらない……)
レティシアの頬には、すでに熱が帯びていた。
その夜、ふたりは初めて“夫婦として”同じ部屋にいた。ルネはルネで、寝室のドアの前で20秒以上深呼吸していたし、レティシアはレティシアで、ベッドサイドに腰掛けて、緊張で膝を揺らしていた。
「……お待たせしました、レティシア」
ルネが、意を決して部屋に入ってきた。
「……旦那様」
レティシアは、小さく名を呼んだ。その声は、震えていた。
「部屋にまで入れてくれて、ありがとう……あ、いや……なんというか……貴女が隣にいてくれることが、すごく……夢みたいで」
言葉が出てこない。それは彼も、彼女も同じだった。二人の間には、純粋すぎるがゆえの、甘い沈黙が流れた。ルネはそっと、レティシアの手に触れた。彼の指先もまた、わずかに熱を持っていた。
「今日は……すごく、綺麗だった。私の妻として、完璧だった」
「っ……ありがとう、ございます」
その一言に、レティシアの肩が小さく震えた。ルネの「妻として完璧」という言葉は、彼女にとって、何よりの賛辞だった。
(落ち着いて、わたくし。チョコレートモードよ。ここで、彼の優しさに甘えるのです……!)
レティシアはそっとルネの袖を掴み、目を伏せて、小さく呟いた。
「……緊張して、眠れそうにありませんわ……。旦那様も、そうではございませんか?」
「私もだ。君があまりにも綺麗すぎて、どうしていいかわからない」
「……じゃあ、少し……おそばに、いていただけます? ただ、そこにいてくださるだけで、わたくし、安心できますわ」
その瞬間、ルネの心臓は跳ね上がった。
(そばに……!? え、え、え!? まって、これは……今夜、『愛の行為』をする流れじゃないか……!? ヴァロワの忠告が……!)
しかし、レティシアはベッドの端にちょこんと座り、ぽんぽんと隣を叩くだけ。顔はほんのり赤く、けれど瞳はきらきらしていた。
「……ありがとう、レティシア」
ルネは、彼女の隣にそっと腰掛けた。
(旦那様が、近い……。この、誠実な体温……)
「……今日は、いろいろ疲れただろう。少し、話でもしようか? 君の、好きなものの話とか」
ルネは、彼女を気遣い、敢えて緊張を解こうとした。
「っ……お優しいですわ、旦那様………」
(かわいい! 疲れてるのに、僕を気遣ってくれるなんて……!)
(優しい! 疲れているはずなのに、話をしてくださるなんて……!)
内心で2人は叫びまくりながら、しばし静かな時を過ごす。そして、触れる指が、手に、肩に、髪に――徐々に近づき、お互いの頬に触れた時、もう言葉は要らなかった。二人の間に流れていたのは、「純粋な愛」という、最高の空気だった。
「レティシア……」
「はい、旦那様……」
唇が重なり、やがてそっとベッドに沈んでいった。その夜、二人は「純粋な愛」を交わし合った。それは、激しい情熱ではなく、お互いの存在を確かめ合うような、優しく、そして愛しい時間だった。
「……わたくし、今日から、あなたの妻で……とても、幸せですわ……」
レティシアの言葉は、心からのものだった。
「私の方こそ、ありがとう。レティシア。……大事にするよ。君の全てを」
そして、夜が更けていった。氷の令嬢は、純粋な愛という名の熱で溶かされ、ルネという不器用な優しさの器に、完全に受け止められたのだった。




