004.氷が溶けて、チョコレートみたいな甘さが溢れる日
ドレッシングルームに、清々しい朝の光が差し込んでいた。エルフォルト伯爵令嬢レティシアは、鏡の前に座り、侍女のティリエが淹れたハーブティーを一口飲んだ。その顔は、いつものように完璧なまでに整えられ、感情を読み取れない「氷の女王」そのものだった。しかし、その静寂を破ったのは、ティリエの遠慮のない、そして愛ある直言だった。
「……お嬢様。氷の女王じゃ、一生お独りですよ。ルネ様は、優しく、繊細な方ですから、お嬢様の『氷』を、拒絶と誤解してしまいます」
「……ッ、ティリエ! またそんな直球なことを……!」
レティシアは、侍女からの直球発言に思わず顔を赤くした。鏡の前、ドレッシングルームでお茶の準備をしながら、ティリエはにっこり笑っている。彼女の栗色の髪は、陽の光に照らされてキラキラと輝いていた。
「いいですか? ルネ様に好意があるなら、もっと……その、こう、湯煎されたチョコレートでいかないと! 誠実で、真面目なルネ様を攻略するには、お嬢様の『甘さ』を隠しちゃだめです!」
「ち、チョコレート……? 湯煎……?」
レティシアは、言葉の意味を理解しようと、戸惑った。彼女の心は、常に「貴族令嬢として完璧であること」という鎧で覆われていたのだ。
「そうです。お嬢様の中身は、チョコレートでできているじゃありませんか。いつも私の前で『キャッ!』とか『お手を取られるなんて……!』って叫んでいらっしゃるんですから」
「や、やめてくださいまし、ティリエ! それは、わたくしの……わたくしの、秘密の感情ですわ!」
「でも外見は氷像でしょ? それじゃ、誰も中身にたどりつけませんって。ルネ様は、ご自身の『対応』が原因で、お嬢様を怒らせていると誤解してしまいますよ」
「……けれど、それを表に出すなんて……恥ずかしゅうございますわ……。ルネ様が、わたくしを『はしたない』と、お思いになったら……」
「それを恥ずかしがってたら、他の女にルネ様、取られちゃいますよ? ルネ様を狙う、大胆な令嬢なんて、たくさんいるんですから」
「……それは……っ……!!」
ぐらり、と心が揺れる。レティシアにとって、ルネを失うことほど恐ろしいものはなかった。レティシアは知っていた。ルネ・シャルメリーズは、物腰が柔らかく理知的で、それでいて時に熱くなる不器用な人。彼の冷静な視線に見られるたび、背筋が伸び、心がときめくのだ。だが、毎回うまく話せず、返す言葉も硬く、睨んでいるような無表情になるばかり。
(……こんな私を、きっと怖がっておられますわ……。本当は、もっと愛らしい笑顔で、お話したいのに……)
そう思いながらも、内心ではいつもこう叫んでいる。
(伯爵様と指が触れましたの! きゃっ! この手を一生洗えなくてもいい! なんて優しくて、強いお指……!)
(今日もお声が素敵で……耳が蕩けそう……。 早く、わたくしの名前をたくさん呼んでくださいまし……)
(ああ、もう少しで『お手を』って言ってしまいそうでしたわ! 伯爵様から、わたくしをエスコートしてくださるのを、我慢して待つのです!)
そんな恋する令嬢の胸のうちは、当然本人以外には秘密。けれど――。
「……ティリエ、わたくし、勇気を出してみようかしら。ルネ様の誤解を、解くために……わたくしの、本当の心を、少しだけ……」
レティシアは、小さく息を吸い込んだ。
「いいですね、お嬢様! 今日は、『チョコレートのレティシア様』で! 甘くて、とろけるような愛らしさで、ルネ様を射止めるのです!」
「そ、それは嫌ですわ……! せめて、ミルクたっぷりな珈琲、くらいで……!」
顔を真っ赤にしながらも、レティシアは決意を固めた。今日、彼女は「氷の仮面」を少しだけ外し、「チョコレート」の自分を見せる覚悟をしたのだ。
ルネ・シャルメリーズ伯爵は、若干そわそわしていた。執務室の窓から、レティシアとの待ち合わせ場所であるサロンを何度も確認する。
(今日はレティシア嬢とお茶会だ……昨日、フィオナに「可愛いって素直に言え」とか言われたけど……。素直に言うなんて、僕にはハードルが高すぎる!)
そんなこと言えるか! 乙女相手に! 淑女相手に! 彼の脳内では、紳士としてのプライドと、レティシアへの純粋な愛らしさが、激しく衝突していた。
(……でも、ほんとに可愛いから困る。あの、氷の仮面の下の、真っ赤な耳とか……手紙の、あの文面とか……)
噛み合わないようで、噛み合っているような不思議なやりとりを何度か重ねたが、ついに本日――。
「お待たせいたしました、伯爵様」
サロンの扉が開き、レティシアが現れた。
「っ……!」
ルネは、思わず息をのんだ。現れたレティシアは、淡い桜色のドレスに身を包み、いつものように整った容貌で――だが、今日だけは違っていた。彼女は、静かにルネに向かって歩み寄り、そして、わずかに微笑んだ。その微笑みは、氷のように冷たいものではなく、春の陽だまりのような、柔らかいものだった。そして彼女ははっきりと、ルネに伝えた。
「本日はお会いできて……とっても、嬉しゅうございます」
「!?」
ルネ、即死。
(今の、笑った!? いや、絶対笑った! しかも『とっても』って強調した! あんな柔らかい微笑み、見たことない!!)
彼の心臓は、激しく鐘を打ち鳴らすように高鳴った。
「あ、あの、レティシア嬢? 今日は、なんだか……その……雰囲気が、いつもと違うような……? 何か、あったのでしょうか?」
ルネは、動揺を隠せないまま、言葉を絞り出した。
「……あの、伯爵様」
レティシアは瞳を伏せて、ゆっくりと顔を上げる。その瞳には、勇気を出した者だけが持つ、強い光が宿っていた。
「わたくし……伯爵様とお話しすると、いつも緊張してしまって。うまく言葉が出てこなくて、ご無礼ばかり……気分を害されていたらと思うと、毎晩、泣きたくなっておりましたの……」
レティシアの、素直すぎる告白に、ルネは完全にノックアウトされた。
「そ、そんなことは!! 全然ないですよ!? むしろ私の方が……その……貴女の美しさと、その……どきどきしてて、うまく話せなくて」
ルネは、顔を真っ赤にしながら、自分の正直な気持ちを伝えた。フィオナに言われた通り、素直に。
「……!」
(どきどき、ですの!? 伯爵様も、わたくしと同じように、緊張してくださっていたなんて……!)
レティシアは、感動と羞恥で、真っ赤な顔で、言葉を詰まらせる。彼女の心の中は、「きゃー! 伯爵様と両想いですわ!」という叫びで溢れていた。
「だから……ええと……今日はその、笑顔が見られて、すごく……その、うん、可愛くて……っ!!」
(可愛いって言われましたの……!? 伯爵様に、わたくしが! 夢ではございませんわよね……!)
「わ、わたくしも……っ」
レティシアは、扇子をぎゅっと握りしめた。彼女の決意は、限界に達していた。
「……わたくしも、伯爵様の、そういう不器用で誠実なところ、ずっと素敵だと思っておりましたの……っ。わたくし、伯爵様と……」
ドガァァァン。
ふたりの間に、見えない爆発音が鳴った。それは、恋の感情が、一気に臨界点を超えた音だった。ルネとレティシア、そろって真っ赤。視線が合って、また逸らして、また合って――そして。
「け、結婚、楽しみにしております……。わたくし、伯爵様と、暖かい家庭を……築きたいですわ……」
レティシアの言葉は、消え入りそうに小さかった。
「はいっ、はい! よろしくお願いしますっ! 暖かい、幸せな家庭を、必ず……!」
ルネの返事は、力強く、そして決意に満ちていた。ふたりは完全に恋に落ちていた。そしてその愛は、どこかフィオナとレオナールの「狂愛」とは正反対の、「純粋すぎる愛」の形を築き始めたのだった。
「お嬢様、やりましたね! チョコレート味、大成功です! ルネ様、完全に射止めてしまいましたね!」
帰宅後、レティシアは自室のベッドに倒れ込んでいた。
「ううぅ、ティリエったら、あんな恥ずかしいこと……もう、知りません……! わたくし、ルネ様に、完全に心を読まれてしまいましたわ……!」
枕に顔をうずめて、転がる令嬢。氷の女王とはかけ離れた姿であり、ティリエ以外には晒せない姿である。
「……でも、嬉しゅうございましたわ。あの方に、可愛いと言っていただけて……素直になって、本当に良かった」
「ふふ、お嬢様はもともとチョコレートですもの。あとは、結婚してからも、どんどんおかわいく攻めていけばいいんですよ。ルネ様は、お嬢様の『素直な甘さ』に弱いんですから」
「そ、そんな……わたくしには無理……っ」
(けれど、あの方のためなら……。彼の誠実さを、私の甘さで、温めて差し上げたい……! 勇気くらい、出せるかもしれませんわ……)
レティシアの頬に浮かぶ笑みは、氷の女王の仮面の下に隠された、まさに恋する乙女そのものだった。彼女の愛は、「不器用な純粋さ」という形で、ルネの心に深く根を下ろしたのだった。




