003.氷の令嬢と胃痛の伯爵
その日、ルネ・シャルメリーズ伯爵は、人生で初めて「妹に頭を下げる」という屈辱的行為に出た。場所は、エスティネル邸の、高い塀に囲まれた離れの庭。フィオナとレオナールの「愛の檻」と化した、秘密の空間だった。ルネは、フィオナがティータイムを過ごす白いベンチの前に、膝をつかんばかりの勢いで立っていた。
「……頼む。どうしたらいいんだ、フィオナ。兄は、もう、どうしていいかわからない」
「……え? 何? お兄様、頭打ちました? 貴族の令息として真面目が服を着ているような人が、辺境伯領の庭先でそんな情けない声を出すなんて、珍しいですわね」
庭のベンチでティーカップを持つフィオナが、目をぱちくりとさせて兄を見る。その隣には、当然のようにレオナールが座っていたが、ルネの真剣な顔を見て、静かに微笑んでいるだけだった。その微笑が、ルネには逆に恐ろしかった。
「違う! 本気だ! 兄は今、人生最大の危機に直面している!」
ルネは食い気味に叫ぶ。
「レティシア嬢だ! 婚約話が進んでるレティシア・エルフォルト嬢……見た目は完璧なんだ。冷たい視線、凛とした態度、完璧に整った髪とドレス。まさに氷の彫刻のような、隙のない美人令嬢。でも、でもな、フィオナ」
「なに? 彼女が、お兄様に何か酷いことを言ったのですか?」
フィオナは、そっとカップを置いた。ルネの深刻な表情に、彼女も真剣な顔になった。
「いや! 逆だ! めちゃくちゃ可愛いんだよ、中身が!!」
「…………」
フィオナは、完全に無言になった。そして、隣のレオナールを見て、小さく囁いた。
「お兄様、婚約前から幻覚とか見えてるの? それ狂気の始まりって、レオナール様が言ってましたわ」
「違う!! 本当なんだ!! 狂気じゃない! これは、あまりに尊い『乙女心』だ!」
ルネは、フィオナに詰め寄った。
「こないだ一緒に舞踏会に出席したらな、僕が手を差し伸べる前に、緊張で手袋を落としたんだ。それを拾おうとした僕の手を見て、顔は無表情のまま『……ッッ!』って小さく手を握りしめてたんだ!」
「へぇ。それは……手を握られたいのに、恥ずかしがってるってことかしら」
「そうだ! しかも、顔は全く動いてないのに、耳だけ真っ赤なんだ! わかるか、あの完璧な氷の仮面の下にある、沸騰寸前の純粋な乙女心!!」
ルネは興奮したまま続ける。
「それだけじゃない! こないだ食事したときは、食前酒の香りに酔ったらしくて、顔真っ赤にして黙ってたんだが――後日、僕宛に手紙が届いた。『あの日はまことにご無礼をいたしました。あのような場所で頬を染めるなど、はしたない真似……わたくし、恥ずかしゅうございます。わたくし、心より反省しております』って!!」
ルネは、その手紙の内容を、まるで暗記しているかのように口にした。フィオナは、思わず声を上げた。
「うっわ。超可愛いじゃん、その人! それ、お兄様への好意、ダダ漏れじゃないですか!」
「そうなんだよッ!! 彼女が可愛すぎて、どうしたらいいかわからん!! 昔、僕が世話焼いてた令嬢たちは、もっと図太かったり、自己主張が強かったりしたのに! 氷の令嬢だと思ってたら、中身チョコレートだった!! 扱い方がわからん!!」
ルネは、庭の砂利の上に、頭を抱えて絶叫した。
「で、なぜわたくしに相談を? わたしは、狂犬を調教……もとい、愛し尽くす専門で、狂愛に溺れる専門ですわよ。氷ったチョコレートは、専門外です」
場所を移し、フィオナの寝室のソファに座り直して、フィオナが呆れたように問う。レオナールは、静かに二人の会話を聞きながら、フィオナの髪を梳いていた。ルネはちらりとレオナールへ視線を一瞬だけ向け、フィオナに問う。
「おまえ、狂犬辺境伯を手のひらで転がしてたよな……。おまえの愛嬌と、甘えと、時々ドSで、あれだけ凶暴な男を飼い慣らしてるんだ。その技術を分けてくれ!」
「愛嬌と、甘えと、時々ドSですよ。お兄様には無理でしょう?」
「無理だ……僕にはできん。僕がドSやったら、相手はショックで泣き出すぞ」
「お兄様の場合、真面目に紳士してれば十分じゃないです? 誠実さこそ、お兄様の魅力でしょう」
「いや、そうすると逆に『彼は私に興味がないのかしら……』って拗ねられそうで怖い! 彼女は、自分の気持ちを隠そうとするタイプだぞ!」
「うっわ、乙女すぎる……それ、間違いなく“妹の真逆”タイプですわ。わたくしなら、不安になったらすぐにレオナール様に抱きついて、愛を確認しますのに」
フィオナは、そう言って、レオナールを見上げた。レオナールは、優しく微笑み、フィオナの頬にキスをした。
「バカップルが!!」
ルネは、バタバタと足をばたつかせる。
「氷の令嬢だと思ってたのに中身チョコレートだった!! 扱い方がわからん!! どうしたら、彼女の繊細な心を傷つけずに、自分の愛を伝えられるんだ!」
「じゃあ、素直に言えばいいじゃないですか。『君のこと、可愛すぎて緊張してる』って。飾らない言葉ほど、彼女の心に響くはずですわ」
「無理だ……羞恥で死ぬ……。あの完璧な令嬢を前に、そんな恥ずかしい言葉、口が裂けても言えない!」
「じゃあ、結婚前に、恥ずかしがって距離置かれて破談しますね? 彼女は、お兄様の無言の誠実さを、『無関心』と誤解するタイプですわ」
「それも困る……!!」
「めんどくさ!!」
フィオナは、ため息をついた。
後日。ルネは、フィオナの言葉を胸に、勇気を振り絞ってレティシアとのお茶会に臨んだ。彼は、事前にヴァロワに練習台になってもらい、何度もシミュレーションを重ねていた。
「レティシア嬢、その、私は、君といると緊張するというか……えっと、つまり……君のその、凛とした美しさに……」
ルネは、言葉を探している。彼の顔は、すでに真っ赤だった。レティシアは、無表情のまま、ティーカップを持っていた。その瞳は、ルネを真っ直ぐ見つめている。
「……あの、伯爵様」
「は、はい! 何でしょうか、レティシア嬢!」
「わたくしの方こそ、手が震えるくらい緊張しておりまして、実は今、この紅茶を持つ手が限界です……。伯爵様の、その、誠実な眼差しに、わたくしは……」
「えっ」
レティシアの言葉に、ルネは思わず目を丸くした。
ガチャッ、カランッ。
――そして、レティシアの指先から、カップが落下し、床に紅茶が広がった。
「あ、あああの! 私がすぐ拭きますから! 気にしないでください!」
ルネは、慌ててハンカチを取り出した。
「うわぁあ……わたくし、やっぱりはしたないですわああ……。伯爵様の前で、こんな失態を……」
レティシアは、顔を真っ赤にして、泣きそうな表情を浮かべた。その表情は、普段の氷のような仮面が剥がれ落ちた、純粋な乙女の顔だった。
(かわいいーーーーー!!!!)
叫んだのは、ルネの心の声だった。彼の心は、完全に彼女の純粋さに射抜かれた。彼は、ハンカチで床を拭くのも忘れ、レティシアの手を掴んだ。
「レティシア嬢。気にしないでください。その……君のそういうところが、とても、とても可愛らしいと思います」
ルネの正直な言葉に、レティシアは、さらに顔を赤くした。
「で、どうだったんですか。お茶会は」
レティシアの帰宅後、様子を伺いに来たフィオナが訊ねる。ルネは、どこか魂が抜けたような顔をしていた。
「……笑顔で『結婚、よろしくお願いします』って言われた」
「え、それ、結婚決定じゃん。おめでとう、お兄様!」
「……お前の言う通り、素直に『可愛い』って言ってたら、超顔赤くして『うれしゅうございます。伯爵様のお言葉、わたくしにとって、何よりの褒め言葉です』って返された……もう、無理だ。可愛すぎる。僕の心臓が持たない」
「なんだかんだ上手く行ってるんですね、お兄様。レオナール様と違って、普通の愛で良かったじゃないですか」
フィオナは、心底安堵した。
「なぁフィオナ……もし今後、彼女が何か可愛いことしてきたらどうしたらいい? 僕は、心臓を抑えられそうにない」
「喜んで素直に褒めて、後でひとりで床ゴロゴロしてください。それが、乙女心に最も効く褒め方であり、お兄様の心臓を守る唯一の方法ですわ」
「……っ!! その通りだッ!!!」
ルネ・シャルメリーズ伯爵は、フィオナに心からの感謝を込めて、深く頭を下げた。これで、ルネの胃痛はしばらく続きそうだが、彼の婚約は、無事に確定したのだった。そして妹の背後では、レオナールがいつの間にか登場し、フィオナを抱きしめながら、ルネに微笑みかけた。
「……仲良い兄妹だね。君の幸せのために、こんなにも頑張るなんて。フィオナは優しいね……でも僕のフィオナだから、あまり……君に取られすぎちゃうのは困るなぁ? 君の相談に乗るのは、僕だけでもいいんだから」
ルネはレオナールの瞳の奥に一瞬だけ、狂気の炎が燃え上がったのを見た。
「ひいいッ!? 来るなぁああ!! 僕は、フィオナの幸せを祈っている! ふたりの邪魔はしない!」
伯爵領に平和が訪れるのは、もう少し先の話である。ルネの胃痛は、結婚まで続きそうだった。




