002.兄の受難
「――信じられん。何がどうして、あんなことに……!」
ルネ・シャルメリーズ伯爵は、東部エスティネル辺境伯領の正門を睨みながら、心底げんなりしていた。彼の脳裏には、数週間前の悪夢のような光景が、鮮明に焼き付いている。妹であるフィオナ・エスティネル。子兎のように愛らしく、掌の上で守るべき存在で――なぜか、今では辺境伯の“溺愛檻付き奥様”になっていた。前回の訪問時に見せつけられた「安心できるのはレオナール様の腕の中ですの」発言。あれから月日が経っても、ルネはそのショックを忘れられずにいる。
「……もう一度確認する。あれは“囚われていた”んじゃなくて、“囚われにいってた”んだよな?」
ルネは、頭を抱えながら、独りごちた。あれだけ危険視していた男の懐に、自ら飛び込むような妹。信じられない。いや、信じたくない。自分の妹が、自ら狂気の中へ飛び込んでいくなど、兄として認めるわけにはいかない。───というわけで。ルネ、再び現地へ。
「お兄様、またいらしたのですか? もう、何か用事でもあったのですか?」
フィオナは、控えめな微笑みで、ルネを歓迎した。その手には、湯気の立つ紅茶が握られていた。その隣には、やはり当然のように辺境伯――レオナール・エスティネルが座っていた。距離、近すぎ。肩、くっついてる。ルネは、眉間に深いしわを刻みながら、二人の間の距離を測った。もはや、物理的な距離など意味をなさないほど、二人の間には、濃密な空気が流れていた。
「……フィオナ、少しだけふたりで話を……。お前が心配で、こうして来たんだ」
「お断りしますわ。わたくし、レオナール様と一緒の時間を邪魔されたくありませんの。お兄様との話は、また今度で結構ですわ」
可愛らしくも冷たい笑みで返されて、ルネは目を剥いた。その態度は、以前の、遠慮がちに話していた妹とは、かけ離れていた。
「おまえなァ! 兄に向かってなんだその態度はッ! あのときの手紙、ちゃんと読んだのか!? 『壊した過去がある』とか、『気をつけろ』とか、全部書いてやっただろうが!」
ルネの怒声に、フィオナは少しも動揺しなかった。
「読みましたけど、それが何か? わたくしは、もう子供ではありませんもの。自分の意思で、レオナール様を選んだのです」
「おまっ……!」
「わたくし、レオナール様に壊されるどころか、甘やかされて、愛されて、毎日とっても幸せですの。ふふ、ね? レオナール様」
フィオナは、レオナールの腕に、そっと自分の腕を絡ませた。
「うん。君がそう言ってくれて、嬉しいよ。君が幸せなら、僕も幸せだ」
レオナールは穏やかな笑みを浮かべ、フィオナの手をとった。その表情があまりにも自然で、まるで本物の“愛し合う夫婦”にしか見えない。
(……なんでだ!? なんで、この男は、こんなにも自然に、愛を語れるんだ!?)
ルネは混乱していた。レオナールがフィオナを壊してないのも、それどころか全力で甘やかしているのもわかる。けれど、それが逆に不気味だ。あの男は絶対「ただの陽キャ」じゃない。笑顔の裏に、闇がある。狂気がある。執着がある。――なのに、妹はこの男の腕の中で微笑んでいる。
「……フィオナ。おまえ、本当にいいんだな? 兄としては、お前が幸せなら、それでいい。だが、もし少しでも、この男が……」
「はい。わたくしは、レオナール様の全てを受け入れました。彼の狂気も、彼の愛も、全てわたくしにとって、かけがえのないものなのです」
フィオナは微笑を深めた。その瞳には、かつての「子兎」の怯えはなく、ただ、レオナールへの深い愛情と、そして、彼に愛されることへの、確かな安堵が満ちていた。
「ですから……もう、帰ってくださいます? お兄様。私たちの邪魔は、もう、結構ですわ」
その一言に、ルネは完全敗北した。妹に、完全に突き放されたのだ。
――伯爵領へと戻る馬車の窓から、ルネは遠ざかるエスティネル邸を、呆然と眺めていた。彼の心は、嵐のように荒れ狂っていた。
「……信じられん。信じられん。どう見ても、囚われてる顔だっただろ!? 僕の妹は、あんなに……あんなに可憐だったのに……!」
「いえ、あれは“安心して飼われている”顔ですね。辺境伯様という、世界で一番安全な檻の中で、フィオナ様は、心から安堵しておられます」
冷静に返したのは、ルネの執事。名をヴァロワ・フィッツジェラルドという。整った容貌に、優雅な物腰。忠義に厚く、三十歳にしてルネの片腕――というか、実質の影武者とすら言われる男だった。
「ヴァロワ……僕の目は節穴なのか……」
「いえ、伯爵様の目は正しいのです。ですが、それ以上にフィオナ様が強かったというだけでしょう。辺境伯様の狂気を、ご自身の愛で包み込んでしまうほどに、フィオナ様は成長なさいました」
「成長……?」
「見ましたか、あの女豹のような微笑。かつて子兎と言われた令嬢とは思えぬ“狩り顔”でしたよ。見事な調教の……もとい、夫婦の信頼関係のなせる技でしょう」
「それ調教って言ってないか!? ていうか、まさかおまえ、あれを見て“いいな”とか思ってないよな!?」
ルネは、ヴァロワの言葉に、思わず声を荒らげた。彼の言葉は、フィオナとレオナールの関係を、まるで「調教」のように表現していた。
「……フィオナ様ほどではありませんが、私も“人たらしの狂犬”に囲われてみたい願望は若干――。ああ、いえ、失言でした」
ヴァロワは、何事もなかったかのように、静かに眼鏡を拭く。
「黙れ!!!」
ルネの叫びが、馬車の中に響き渡った。
「しかし伯爵様、今後もフィオナ様は変わらないでしょうな。むしろ、さらに辺境伯様に籠絡していくかと。そして、辺境伯様も、フィオナ様なしでは生きられなくなる」
「妹が“籠絡”しているんじゃないのか……?」
「表面上は。ですが、私の目から見れば、エスティネル辺境伯様の方がずっと“手綱を握って”おられる。フィオナ様は、彼の手のひらで踊らされている。しかし、そのことに、フィオナ様は、心から満足しているのです」
「ぐっ……。フィオナが、レオナールに……完全に……」
ルネは唸った。頭を抱え、椅子に崩れ落ちる。
「ですが、それでいいのではありませんか?」
ヴァロワは微笑んだ。その瞳には、ルネへの深い同情と、そしてフィオナへの、かすかな祝福が満ちていた。
「フィオナ様はとてもお幸せそうでした。あんなにも心から、愛されている表情を、私は見たことがありません」
「……ぐぬぬぬぬ。わかってる。わかってるけど……僕の妹が、あんなにも、他の男に……」
ルネは唸った。彼の心は、妹の幸福を喜ぶ一方で、彼女を失ったような寂しさを感じていた。
「このままじゃ、防止の胃が先に壊れる……! 誰か、僕を慰めてくれ……!」
「伯爵様、そろそろご結婚など――。そうすれば、ご自身の幸福に集中できますよ」
「うるさいっ!!!」
ルネの叫びが、再び馬車の中に響き渡った。こうして今日もまた、東部辺境の狂愛夫婦と、胃痛に悩む兄と執事の一日が過ぎていくのだった。




