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03.市場での邂逅


 フィオナ・シャルメリーズが東部エスティネルの城に輿入れしてから、穏やかな日々が過ぎ、三日が経っていた。城での生活は予想以上に快適で、使用人たちは皆、フィオナの些細な要望にも快く応じてくれた。特に、庭師のルイスと料理長のマルコは、彼女の虜になったかのようだった。しかし、真にフィオナの心を捉えて離さないのは、城主であるレオナール・エスティネルその人だった。彼の底知れない器の大きさと、どこか掴みどころのない奔放さは、フィオナの「小悪魔」の好奇心を深く刺激していた。


 その日は、月に一度の「開かれた市場」の日だった。東部の中心都市であるル・メルヴェイユは、王都からは遠く離れていながらも、洗練された趣を持つ地方都市である。この市場の日には、辺境の貴族から遠方の大商人まで幅広い層が集い、通りには活気あふれる音楽と、異国情緒あふれる香辛料の香りが満ちる。


「レオナール様、見て。あの香水屋さん、瓶がとっても可愛いの。まるでドレスみたい」


 フィオナは、手袋をはめた細い指でショーケースのガラスをつつきながら、くるりと振り返った。その瞳は、キラキラと輝いている。彼女は今日、淡い藤色のドレスを身に纏い、その小柄な体躯が、人並みでごった返す市場の中でも際立って可憐に見えた。


 レオナール・エスティネルは、隣でゆったりと両腕を組み、にこにこと頷いていた。その琥珀の瞳は、常にフィオナに向けられている。彼の周囲には、護衛の兵士と、侍女のエメ、そして執事のセシルが控えていたが、誰もがその二人の親密な空気に言葉を挟むことはなかった。


「気に入ったなら、全部買っていいよ」


 レオナールの言葉に、フィオナはとたんに目を潤ませた。


「……まあ。そんな、全部なんて……」


 だが、その視線の奥で、フィオナはこっそり笑っていた。


(ふふっ。やっぱりチョロいわ、この人)


 フィオナの「愛され術」は、ここでも健在だった。可愛らしい声でささやけば、「どうぞ」。少し袖をつかめば、「欲しいものは全部」。表情を崩せば、たちまち満足そうな笑顔を見せてくれる。彼の顔には「自分の奥さんが可愛い」という喜びに満ちており、その感情に、フィオナは微かな優越感を抱いていた。


(可愛いって、ほんと便利)


 フィオナはさっそく、店内に並ぶ香水をひとつひとつ手に取り、匂いを確かめながら、店員に微笑みかけた。その仕草は、まるで舞台女優のようだった。


「どれが似合うかしら、レオナール様。ねえ、試してもいい?」


 フィオナは小首を傾げ、レオナールを見上げた。


「もちろん。首もとにでもつけてみて」

「もう、意地悪ね。昼間なのに……」


 フィオナは頬を赤らめ、小悪魔的な視線をレオナールに送る。店員が思わずときめくほどの甘い空気を撒き散らしながら、彼女は小瓶を手に取った。レオナールはそんな彼女を満足げに見つめている。彼の瞳には、純粋な愛着と、彼女が自分に懐いていることへの喜びが満ちていた。


 彼女はまだ知らない――彼の「真の執着」が、どれほど危ういものかを。その甘い言葉の裏に隠された、底なしの独占欲と、過去の惨劇を。




「次はね、帽子屋さん。あそこ、うさぎの刺繍があるの。あれ、絶対私のために作られたって思わない?」

「思う」

「じゃあ、買ってもいい?」

「当然」


 無双状態のフィオナは、次々と店を巡っては「レオナール様~♡」と甘え、彼はひたすら財布を緩めた。その度に、護衛の兵士は静かにため息をつき、従者たちはもはや無言で荷物を抱えていった。エメ・セラフィーナは、頭を抱えながら、小声で呟いた。


「……これは奥方ではなく、完全に“ご主人様”になってますわね……」


 甘やかされる兎姫と、満面の笑みで財布を差し出す猛獣。そんな奇妙な買い物デートは、通りすがる市民や貴族の娘たちにも、あっという間に話題となっていた。


「きゃーっ、今のって辺境伯ご夫妻じゃない?」

「奥様、めっちゃ可愛くない!?  あんなふうに甘えたら勝ちよね……」

「うちの旦那は“は? ムダ遣い”しか言わないのに……うらやまし……」


 賞賛と嫉妬を一身に浴びながら、フィオナはまるで舞踏会の主役のように、優雅に、そして堂々と市場を歩いていた。彼女にとって、この市場は、自分という存在を最大限にアピールできる舞台だった。


 だが、その晴れ舞台に、冷たい影が差し込んだのは、ちょうど街角を曲がったときだった。


「まあ、これは……東部のプリンセス様?」


 高いヒールの音と共に、くぐもった声がフィオナの背後から降ってきた。その声には、明らかに揶揄と、僅かな敵意が混じっていた。




 フィオナが振り返ると、そこに立っていたのは、濃いラベンダー色のドレスに身を包んだ、すらりとした令嬢だった。切れ長の紫の瞳と、ラベンダーの長い髪。ヴァイオレット・グラセ。王都での「デビュタントの星」と呼ばれた女。彼女は常にフィオナと人気を二分する存在であり、そのプライドの高さと勝ち気な性格は、王都の社交界でも有名だった。


「あら、ヴァイオレット。お久しぶりね」


 フィオナはにこりと微笑んだ。だが、その視線は、ヴァイオレットの完璧な髪型から、付き従う侍女の数、そして胸元で輝くブローチの値打ちまで、一瞬で分析していた。ヴァイオレットもまた、フィオナのドレスの素材や、纏うオーラを値踏みするように見ている。


「ええ、お久しぶり。東部に嫁いだって噂は聞いていたけど……てっきり、修行僧とでも結婚したのかと」


 ヴァイオレットの言葉には、辺境伯への侮蔑と、フィオナへの皮肉が込められていた。王都の貴族たちにとって、辺境伯は野蛮で粗野な存在という認識が強かった。


「ふふ。じゃあ私、修道服に兎の耳でもつけようかしら。それが私の“新しい流行(トレンド)”ですもの」


 フィオナはちらりと笑って返した。周囲にいた従者たちは、空気の密度が変わったのを感じて一歩引いた。その場に緊張感が走り、エメは思わずフィオナの背後に一歩詰めた。


「でも、驚いたわ。辺境伯様って、もっと……いかついのかと思っていたのに、まるでフィオナの“しもべ”みたい」


 ヴァイオレットの挑発的な視線が、レオナールに向けられる。彼女は、レオナールがフィオナに甘い態度を取っていることを、軽蔑しているようだった。


「まあ、ヴァイオレットったら。大人の男の優しさが理解できないなんて、まだお子様なのね?」

「お子様?」


 ヴァイオレットの頬が、ぴくりと引きつった。彼女のプライドを抉るようなフィオナの言葉に、周囲の貴族の娘たちも息を飲む。


「それにしても、随分と派手なお買い物。……ねえ、レオナール様」


 ヴァイオレットは、露骨にレオナールに媚びるような甘い声を出した。レオナールは、名を呼ばれても何の警戒も見せず、笑顔で会釈する。彼は、この場の女性たちの間に流れる張り詰めた空気を、全く察していないようだった。


「やあ、ヴァイオレット嬢。お噂はかねがね。王都での舞踏会、素晴らしかったと聞いている」


 レオナールは社交辞令を述べ、ヴァイオレットを褒め称えた。ヴァイオレットの顔に、わずかな優越感が浮かぶ。彼女は目を伏せながらも、ちらりとフィオナを見やった。その瞳には「私は辺境伯にも認められている」という自負が宿っていた。


「私、今も舞踏の練習は欠かしていないんですの。奥様も……どうかしら?」


 それは、フィオナが「昼寝」をしていると聞き及んでいることへの、あからさまな挑発だった。王都の社交界では、令嬢のたしなみとして舞踏の腕前は非常に重要視される。


「最近は、お菓子作りとお昼寝ばかりですわ。でも旦那様が“可愛い”って言ってくれるから、それで充分ですわ」


 カーン。


 見えない剣が交わった瞬間だった。フィオナの笑顔はまるで花が開くよう。しかし、その奥の「勝ち誇り」を、ヴァイオレットは痛いほど感じ取っていた。フィオナの言葉は、レオナールの寵愛を盾に、ヴァイオレットの努力と価値観を真っ向から否定するものだった。ヴァイオレットは、その場で怒りに震え、顔を赤くした。


「ふぅん。じゃあその可愛さ、いつまで続くのかしらね」


 ヴァイオレットの反撃は、フィオナの「可愛さ」が一時的なものに過ぎないという含みを持たせていた。レオナールの心変わりを暗示し、フィオナを不安にさせようとする、彼女なりの精一杯の反撃だった。


「……見ていてくださいな。“一生モノ”ですから」


 フィオナはしなやかに返した。その声には、揺るぎない自信と、レオナールへの確かな信頼が込められているようだった。その言葉に、レオナールは「……ほう」と興味深げに目を細めた。彼の瞳には、フィオナに対する新たな好奇心と、彼女の強さへの認識が生まれたようだった。


(……これは思ったより、面白くなりそうだ)


 彼の口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。しかし、その笑みの奥には、彼の「執着」の片鱗が垣間見えていることを、フィオナはまだ知らない。




 買い物の終わり、荷物を馬車へ積みながら、フィオナは何食わぬ顔でレオナールの腕に手を絡めた。周囲の視線も気にせず、彼は自然にフィオナの頭を撫でる。


「レオナール様。今日はいっぱい甘やかしてくれてありがとう。楽しかったわ」

「俺も楽しかった。……まさか、あそこまで強いとは思ってなかったけど」


 レオナールは、フィオナの頭を撫でる手を止め、その瞳をじっと見つめた。


「なにが?」


 フィオナは小首を傾げる。


「ヴァイオレット嬢の言葉も、微塵も効いてなかったろう?  俺の目の前で、よくあそこまで言い返せたな」


 フィオナは、少し唇を尖らせた。


「効かなかったんじゃないわ。必要なものを選び取っただけ。私には、あなたがいるもの」


 その言葉に、レオナールはひとつだけ短く笑った。それは、満足と、そしてどこか、諦めにも似た響きがあった。


「そうだな。君には、俺がいる」


 その言葉は、まるで彼の心を縛り付ける鎖のようにも聞こえた。フィオナの言葉が、彼の内なる「執着」を、一層強く呼び起こしているかのようだった。

 まだ、彼女は知らない。その言葉の重みが、時に呪いにもなることを。そして、彼の「いる」という言葉が、彼女を逃がさないという決意の表れであることも。


 だが今はまだ、陽射しと共に微笑みあうだけの――優しい時間だった。市場の人々の喧騒が遠ざかり、馬車が城へと向かっていく。フィオナの傍らで、レオナールは静かに微笑んでいた。彼の瞳の奥で、かすかに光る琥珀色は、獲物を見定めた獣のように、深く、強く輝いていた。

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