001.狂った花に祈りを
あれが――人生で最初に抱いた、「恋」と呼ばれるものだったのだろうか。けれど、それが「普通の恋」でなかったことは、誰よりも自分がよく知っている。レオナール・エスティネル、二十歳。若くして辺境伯家を継ぎ、東部の防衛と政務に追われる日々を送っていた。彼の人生は、責任と義務に満ちていて、感情を揺さぶるような出来事は何もなかった。愛を知らないまま育ち、愛をどう表現すればいいのかも知らずに、彼はただ、与えられた役割をこなしていた。そんな彼が、ある日ふと心を奪われた。首都で行われた、新年の式典でのことだった。名前は、イレーヌ・モントレイユ。陽だまりのような笑みを浮かべる、小さな伯爵令嬢。大勢の貴族たちが集まる喧騒の中、彼女はまるで、そこだけ時間が止まっているかのように、静かに、そして美しく存在していた。
「こんにちは、辺境伯様。はじめまして、イレーヌですわ」
声を聞いた瞬間、レオナールは、息が止まった。彼女の声は、きらめくような、鈴の音のように澄んでいて、華奢な手、控えめな眼差し、そのすべてが、まるで壊れそうで、美しかった。
(――壊れそう?)
そう思った瞬間、レオナールの中の何かが軋みを上げた。それは、これまで感じたことのない、強烈な感情の揺れだった。「壊したい」ではない。「壊れさせたい」わけでもない。ただ――。
(このまま、自分のものにしてしまいたい。この美しさを、誰にも見せたくない。この笑顔を、僕だけのものにしたい)
それは、束縛でも支配でもなく、ただただ「自分だけのもの」にしたいという、純粋な、そして恐ろしいまでの「独占欲」だった。
イレーヌとの付き合いは、順調だった。彼は、彼女に会うために、忙しい政務の合間を縫って、何度も王都へ足を運んだ。彼女は臆病で、社交も得意ではなかったが、レオナールの前では、少しずつ笑ってくれるようになった。それが、嬉しかった。ただ嬉しい。ただそれだけだった――最初は。
けれど、日を追うごとに、彼女の周囲の視線が気になって仕方なくなった。彼女が他の男たちと話すたびに、彼の心は、針で刺されるように痛んだ。男爵令息と笑っていた、と聞けば不機嫌になり、彼女に会いに来た青年貴族を追い払った。文通をしていると聞けば、その手紙を取り上げ、誰とも連絡をとらせなかった。心配だからと、外出先には騎士をつけ、友人すら制限した。
「わたくし……籠の鳥みたいですわね。あなたの、美しく飾られた籠の中の鳥」
イレーヌが寂しそうに呟いたとき、レオナールははじめて彼女の手を強く握った。彼の心は、彼女の言葉に、激しく動揺していた。
「君は僕の天使だ。だから、どこにも行かないでほしい。誰の目にも触れないで。君が傷つけられるのを、僕は見ていられない」
彼の言葉は、彼女を「愛している」つもりだった。しかし、彼女の瞳には、愛ではなく、戸惑いと、そして微かな恐怖が浮かんでいた。
「……それは、愛なのでしょうか? わたくしには、それが、愛なのかどうかわからなくて……」
あの時、彼女は怯えていたのかもしれない。だが、彼はその違和感に気づけなかった。彼の人生には、愛をどう表現すればいいのか、どう愛せばいいのかを教えてくれる大人はいなかった。愛とは、独占であり、拘束であり、支配だと。それが、彼の歪んだ愛の定義だった。だからこそ、歪んだまま、深く、深く、その感情の沼に沈んでいった。彼は、彼女を「愛する」ことで、自分自身の存在意義を見出していたのかもしれない。
そして、崩壊は突然だった。イレーヌが、一通の手紙を置いて姿を消した。
『わたくしは、わたくしでいたいのです。あなたの籠の中では、もう生きられません。さようなら』
その一文を読んだ瞬間、レオナールは、血の気が引いた。彼女が自分から離れたという事実に、彼の心は、真っ暗な闇に突き落とされた。彼は、彼女を探し回った。文字通り、兵まで動かして、必死に彼女の行方を探した。そしてようやく見つけた先で見たのは――震えるように怯えたイレーヌと、その隣で彼女を庇う、見知らぬ年上の青年だった。
「どうして……逃げるんだ? 僕が、君を愛しているのに」
「あなたが、怖かったのです……。あなたの愛は、わたくしには、重すぎた……」
彼女の顔を見たとき、レオナールの中で何かがぷつりと切れた。彼の心は、絶望と、そして怒りに満ちていた。
「じゃあ、逃げられないようにすればよかったね。君を、永遠に僕のそばに閉じ込めておけばよかった」
彼は、彼女の腕を掴んだ。強く、そして乱暴に。イレーヌは抵抗することすらできず、ただ静かに泣いていた。その涙は、レオナールの心をさらに狂わせた。壊れる手前の花。限界ぎりぎりで咲き誇る、脆い愛の結晶。
(……綺麗だ。その怯えた顔も、震える体も、全てが美しい。壊れるくらいなら、僕が壊してしまいたい)
それが、彼女との最後の記憶だった。その後、イレーヌは貴族の青年と結婚し、国外へ移った。レオナールは、彼女を追いかけることも、引き留めることもできなかった。彼女は、何も告げず。まるで、レオナールとの記憶すべてを――「忘れた」ように。
それから数年。レオナールは、自分の感情に「名前」があると知った。
――狂愛。
――執着。
――依存。
それは愛ではなかったのかもしれない。彼の心は、愛をどう表現すればいいのかわからず、ただひたすらに、彼女を「独占」しようとしていたのだ。彼は、自分の行動が、彼女を傷つけたことを、ようやく理解した。
そして、現在。フィオナという、彼の狂気を「愛」として受け入れてくれる女性に出会った。彼女は、レオナールの狂気を恐れず、彼の「独占欲」を、愛の証として受け入れた。ふとした政務報告の中、旧モントレイユ家の記録に目を通したレオナールは、彼女――イレーヌの名前を見つけた。
『モントレイユ元伯爵令嬢イレーヌ。第三子を出産。母子共に健康』
その瞬間、レオナールは息をついた。彼の心に、長年居座っていた重い石が、一つ、取り除かれたようだった。
「ああ、そうか……生きてるんだ。僕の愛から逃げて、僕の知らない場所で、幸せに生きてるんだ」
静かに、何度も何度もその一文を読み返す。やがてふっと笑みがこぼれる。それは、安堵と、そして祝福の笑みだった。
「……忘れてくれて、ありがとう。君が僕を忘れてくれて、本当に、本当に良かった。今も怯えていたら、僕は、君の記憶を殺すために、何かしていたかもしれないから……」
彼は、瞳を閉じて、小さく呟く。
「君は、もう『壊れて』などいないんだね。僕の愛から逃げて、君は、君の人生を生きることができたんだ。……良かった」
机に額を預けるようにして、深く深く、息を吐く。自分が壊したはずの「初恋の花」は、いつの間にか、「見知らぬ誰か」の庭で、もう一度、幸せに咲いていたのだ。それを知った今――ようやく、レオナールの中の「イレーヌ」は、静かに眠りについた。そして彼は、フィオナという、彼の狂気を愛してくれる、新しい花を見つけたのだ。この物語は、過去の終わりと、新しい愛の始まりを告げていた。




