26.甘い幸福
エスティネル邸の一室。深紅のカーテンが閉じられたまま、薄明かりだけが差す寝室で、フィオナはベッドに身を横たえていた。彼女の表情は、どこかぼんやりとしていて、現実から切り離された夢の中にいるようだった。起き上がれるようになって数日。しかし、外に出る気になれず、今日も部屋に籠もっていた。食事も部屋でとり、誰とも顔を合わせずに、ただ静かに過ごしていた。その理由は――。
(だって、レオナール様が……)
毎朝、毎晩。必ず会いにきて、甘やかし、囁き、触れてくる。そのたびに彼女の心は熱を帯び、甘い陶酔に溺れていく。彼の「愛」という名の支配は、彼女の心を完全に絡めとっていた。もはや、普通の優しさでは満たされなくなっている自分がいた。
(おかしい……わたくし、どうして。どうして、こんなにも満たされないの? 以前は、普通の愛を求めていたはずなのに……。どうして“普通の愛”じゃ足りないの? どうして、この狂ったような、彼にだけ求められなきゃ、満足できないなんて……)
フィオナは、毛布の中で、小さく震えた。それは、恐怖からではなく、自分自身の心の変化に対する、戸惑いと、そして微かな興奮からくるものだった。
「フィオナ、おはよう」
ノックもせず入ってきたレオナールは、柔らかく微笑みながらベッドに近づいた。その表情には、フィオナに会えたことへの、心からの喜びが満ちていた。
「また籠もってたの? 体調はもういいはずだろう?」
「……ええ。でも、なんだか、こうしていたくて。体調はもうすっかり良くなりましたのよ」
フィオナは、彼の顔を見ずに、そっけなく答えた。
「うん、知ってる。エメから聞いた。君が元気そうで、よかった」
にこにこと笑いながら、レオナールは椅子を引き、ベッドの傍らに座る。そして、フィオナの手をとって、その指を一つずつ愛しげに撫でた。
「綺麗だね、フィオナの指。まるで、僕を誘うかのように、僕の心に触れてくる」
彼の言葉に、フィオナは、思わず顔を赤くした。
「……子兎に“綺麗”って……変ですわ。そんな風に言われたら、私が……」
「いいや、僕には最高に魅力的に見えるんだよ。君の全部が、ね。君の瞳も、唇も、髪も……君という存在の全てが、僕を狂わせるほどに美しい」
その声音には、柔らかい蜜のような甘さと、狂気の針のような執着が同居している。フィオナはその音に、震える心を抱えながら、ふと自嘲気味に微笑んだ。
「……ねえ、レオナール様。もし、わたくしが“檻の中に閉じ込められてる”って思ったら……どうします?」
フィオナは、彼を試すように言った。彼女の心には、彼がどう答えるかという興味と、そして「もしかしたら、彼は私を外に出してくれるかもしれない」という、わずかな希望があった。レオナールは、一瞬だけ瞳を細めた。そして、ゆっくりと、しかし確かな声で微笑んだ。
「君が檻に入ってるなら、僕は“その檻ごと抱きしめる”よ。そして、その檻を、誰にも見つけられない場所に隠して、僕だけのものにする」
「……!」
フィオナの心臓が、大きく跳ねた。彼の言葉は、彼女の予想を遥かに超えていた。
「もし、君が外に出たいって言うなら、鍵を壊してあげる。でも、その鍵を壊したところで、君はもう、僕から離れられない。僕が、君の居場所だから」
レオナールの声は、どこまでも甘く、そして恐ろしかった。
「出たくないなら、檻の中で君が安心できるように、甘くて柔らかい絹のクッションでも敷き詰めてあげる。君が、僕に甘えられるように、僕が、君の全てを受け入れてあげる」
「……甘すぎますわ。そんなことを言われたら、わたくし……」
「君が甘えられるようにしてるんだよ。全部、君のために。君が安心して僕に身を委ねられるように、僕はどんな嘘でもつくし、どんなことでもしてあげる」
そう言って、レオナールはフィオナの指先にキスを落とす。彼のキスは、彼女の心に、彼の「愛」と「狂気」を、深く刻みつけていく。
(――そう。わたくしは、もう“外の世界”なんて望んでない。この檻の中で、狂おしいほどに求められて、支配されて、囚われて――そうでなければ、満たされない。他の誰かの愛では、もう、満足できない。この甘い支配から、もう、抜け出せない)
胸が、ずきんと疼く。そんな自分に驚きながらも、否定できない高揚感が、フィオナの中に確かに存在していた。
夜。フィオナは、久しぶりに屋敷のバルコニーに出た。冷たい夜の空気が、彼女の火照った体を冷やしていく。月明かりに照らされた庭は、静かで、どこか寂しいほどに美しい。
「……レオナール様」
後ろから、彼の温かい腕に抱きしめられた瞬間、フィオナは彼の名を呟いた。
「フィオナ、外は冷えるよ。風邪をひいてしまう」
「でも、少しだけ……空気に触れていたかったんですの。ここにいると、外の世界を忘れてしまいそうで」
フィオナの言葉は、彼の心をくすぐった。彼の腕の中は、檻と同じ。けれど、温かくて、心地よくて、逃げ出す気すら起きない。
「フィオナ」
低く甘い声が耳元で囁かれる。
「君の瞳が、僕に向いているときだけ……僕は生きてる気がする。君の存在が、僕を人間でいさせてくれる。だから……僕から、離れないでほしい」
(……ああ、まただ。この人は、私の存在に、自分の生の意味を見出している。この人の愛し方は、きっと普通じゃない。でも――それが、嬉しくてたまらない。この人に、私しかいないという事実が、何よりの幸福だと感じてしまう)
ふわりと笑って、フィオナは振り返る。彼女の瞳は、もう迷いを捨て、レオナールだけを映していた。
「わたくし、もう戻れませんわね。普通の愛を求める、あの頃の私には……」
「戻らなくていい。戻る必要はない。君は、僕だけの檻の中にいればいい。僕だけが見える場所に……僕だけが見つめる場所にいればいい」
月の光の下、レオナールは狂気をまといながら微笑む。その手は、どこまでも優しくフィオナを包み込むようだった。愛されるほどに囚われていく。囚われるほどに幸福になる。フィオナは今、確かに――「檻の中の花嫁」だった。そして、その檻は、彼女が自ら選んだ、甘い幸福の場所だった。




