24.独占欲という甘い鎖
午後の陽光が、エスティネル伯爵家の書斎に、やわらかな光の筋を描いていた。静けさに満ちたその空間で、窓辺に寄り添って座るレオナールとフィオナは、静かに紅茶を口にしていた。
今日も穏やかで、平和な一日。二人の間には、もはや以前のような張り詰めた緊張感はなく、まるで長年連れ添った夫婦のような、心地よい空気が流れていた。フィオナは、そんな雰囲気を壊すつもりなど、微塵もなかった。本当に、何気ない、ただの雑談のつもりだったのだ。
「そういえば、わたくし……婚約者候補の方って、結構いましたのよ。社交界でも、何人かの方からお声がけをいただきましたわ」
フィオナは、過去の他愛ない記憶を話すように、さらりと口にした。その瞬間、レオナールが手にしていたカップが――かすかに、カチリと鳴った。
「へぇ、そうなんだ。君は、王都でも噂の美貌だったからね。さぞかし、たくさんの男たちが君を求めたんだろう」
レオナールは、あくまで柔らかく微笑みながら答えた。しかし、フィオナは気づいていなかった。彼の金の瞳の奥に、一瞬だけ、ヒリつくような、嫉妬と独占欲の光が灯ったことを。
「ええ、まあ。お父様が『可愛い顔しているから』って、次から次へと紹介してきて……でも、皆どこか退屈で。わたくしの話を聞かず、自分の話ばかりするような方たちばかりでしたわ」
フィオナは、思い出し笑いをしながら話した。彼女にとって、それはすでに過去の、どうでもいい記憶だった。レオナールは無言のまま、フィオナの表情をじっと見つめていた。彼の表情は穏やかだったが、その視線は、まるで彼女の言葉の裏にある「真実」を探しているかのようだった。
「名前もほとんど覚えてませんわ。顔も。どうせ、わたくしに『惚れてしまった男』たちばかりでしたから。彼らにとって、私はただの『美しいお人形』でしたの」
フィオナは、レオナールの表情の変化に気づかず、話を続けた。彼女の心には、レオナールが自分を「人形」として扱わなかったことへの、密かな喜びがあったのだ。レオナールは、ゆっくりと立ち上がり、フィオナの後ろに回った。そして、彼女の肩に手を置き、首筋に唇を近づける。彼の体温と、かすかな吐息が、フィオナの肌に伝わってきた。
「でも今は、僕の可愛い奥様、だよね? 君を人形だなんて思わない、この僕の……ね?」
耳元で囁くその声に、ゾクリと背筋が震える。フィオナは、彼の声に含まれる甘さと、そしてどこか危険な響きに、本能的な恐怖を覚えた。
「も、もちろんですわ……今のわたくしには、レオナール様しかおりませんから。レオナール様が、わたくしの全てですわ」
フィオナは、彼を安心させるように、精一杯の言葉を紡いだ。彼女の心は、レオナールの嫉妬を鎮めることで、この穏やかな時間が続くと信じていた。
「……うん、わかってる。わかってるよ、フィオナ。君は、僕だけのものだ」
レオナールは、唇の端で優しく笑った。しかし、その瞳の奥は、どこか壊れそうなほど暗い光を湛えていた。それは、レオナールの「独占欲」が、フィオナの言葉によって、再び呼び覚まされた証だった。
(ああ……まただ)
フィオナは、ようやく気付いた。この暗い光は、あのとき――野盗を斬ったときと、同じ目だ。彼の心に巣食う、根深い「狂気」の光。
(でも……今は、私を抱きしめて、微笑んでくれてる。これは、私への「愛」の表現なの……)
震える胸を抑えながら、フィオナは、レオナールの腕の中で笑ってみせた。彼女は、レオナールの「狂気」を、「愛の証」として受け入れることを、無意識に選択していたのだ。
日が落ち、夜の帳が降りた。フィオナが部屋に戻ると、すぐに扉がノックされた。彼女の心臓が、微かに跳ねる。レオナールの気配が、扉の向こうから伝わってきた。
「フィオナ、僕だけど……入っていいかな?」
「レオナール様?」
その声音は、いつもよりも甘い――けれど、どこか熱を孕んでいる。フィオナは、彼が昼間の「嫉妬」を、まだ引きずっていることを悟っていた。
「ええ、どうぞ」
鍵が開き、レオナールが静かに入ってくる。彼の瞳は優しげで、けれど熱っぽく。何かを抑え込んでいるような、そんな色をしていた。彼は、フィオナのそばまで歩み寄り、彼女の手をそっと握った。
「ねえ、フィオナ。さっきの話だけど……」
「……?」
レオナールの声は、夜の闇に溶け込むように、低く、そして甘く響いた。
「『惚れてしまった男たち』って、君が言ったよね? 君を求めた男たちが、たくさんいたって……」
「ええ、言いましたわね? でも、もう過去のことですわ。わたくしには、レオナール様しかおりませんもの」
フィオナは、彼を安心させるように、もう一度、愛の言葉を繰り返した。レオナールは、ふっと笑った。その笑みは、安堵と、そして深い「後悔」に満ちていた。
「……なんか悔しくなっちゃった。僕が一番に出会ってたら、全部壊してでも君をさらってたのに。君を僕だけのものにするために、どんな手も使ったのに」
彼の言葉は、フィオナの心を深く揺さぶった。彼の「狂気」は、過去の自分に向けられている。そして、その「狂気」の対象が、自分ではないことに、フィオナは安堵を覚えた。
「……レオナール様?」
レオナールは、フィオナの言葉に答えず、ゆっくりと近づき、そっと彼女の頬に触れる。彼の指先は、まるで彼女の肌に刻まれた過去の記憶を、消し去ろうとしているかのようだった。
「今からでも、上書きしていい? 君の全部を、僕でいっぱいにしてあげたいんだ。君の心も、体も、記憶も……僕で満たしてあげたい」
低く、甘く囁くその声音に――フィオナは抵抗できなかった。彼女の体は、彼の「愛」と「狂気」に、完全に支配され始めていた。彼に抱きしめられ、ベッドに押し倒される。彼のキスは、もはや優しさだけではなかった。それは、まるで「お仕置き」とでも言わんばかりに、レオナールの手は彼女の頬や首筋、鎖骨に触れ、唇は熱を刻み続けた。
「今日は……ちょっと、しつこいかも。でも、君を求めた男たちが、僕以外の誰にも、君に触れる権利がないってことを、君にわかってほしくて」
くすぐったいほどに囁く声。けれど、それは優しさではない。「独占」の証。逃がさない、離さない、忘れさせない――そんな執着のすべてが、キスのひとつひとつに込められていた。フィオナは、彼の「独占欲」を、もはや恐怖とは感じていなかった。それは、彼が自分を深く愛していることの、何よりの証明だと、錯覚し始めていた。
「レオナール、さま……」
震える声で名を呼ぶたび、レオナールは優しく笑いながら、何度も唇を重ねてくる。彼のキスは、フィオナの心に、彼の存在だけを深く刻みつけていく。
「フィオナ……全部、僕のものだよ。心も、身体も、記憶も。僕以外の男たちの記憶なんて、全部、僕が消してあげる」
その夜、フィオナはレオナールの執着に包まれながら、どこか安心して眠りに落ちた。彼女の心には、彼への深い愛と、そして、彼の狂気を「受け入れた」という、深い安堵感があった。
“手綱”など、とうに彼の掌の中――フィオナは、それをうっすらと自覚しながらも、その「甘い鎖」に、幸福を感じ始めていた。




