23.手綱を握るのは
「――フィオナぁ、ちょっとだけ、こっち来て」
昼下がりのエスティネル邸。陽光が降り注ぐ広々とした廊下を、フィオナが歩いていたその時、背後から忍び寄ったレオナールが、当然のように彼女の腕を引き寄せた。彼の声には、まるで猫が飼い主を求めるような、甘えた響きが含まれていた。
「ちょっと、レオナール様っ! ここ廊下ですのよ! 人が通りますわ! やめてくださいまし!」
フィオナは、周囲の視線を気にしながら、慌てて彼を制止しようとした。だが、レオナールは、まるで愛犬が主の足元にまとわりつくような勢いで、フィオナの腰に手を回し、耳元に唇を寄せる。彼の体温が、フィオナの肌に伝わってきた。
「えー? だって、可愛いフィオナを見たら、我慢できなくなるんだもん。君が僕の妻だって、みんなに知ってほしいんだ」
彼の声は、甘く、そしてどこか独占欲に満ちていた。
「さっきの紅茶、君が選んでくれたやつだよね。美味しかったよ、ありがとう。君が選んでくれたものは、何でも最高だ」
「……それだけのためにこんなに密着しないでくださる!? もっと、ほかに感謝の伝え方があるでしょうに!」
フィオナは、彼の過剰なスキンシップに、顔を真っ赤にして抗議した。
「ご褒美のハグだから。君が僕のそばにいてくれるだけで、僕は毎日がご褒美だなんだもん」
「可愛く言えば何でも許されると思ってませんこと!? もう、いい加減にしてくださいまし!」
ふにゃりと笑って抱きしめるレオナールと、真っ赤な顔で抗議するフィオナのやり取りは、今やエスティネル邸の風物詩となりつつあった。使用人たちは、遠巻きに見て見ぬふりをしながら、微笑ましい眼差しを向けていた。
「……まったく、旦那様ったら」
フィオナは、ふうっと息をつきながら、ティールームで紅茶を口にする。彼女の頬は、まだほんのり赤みを帯びていた。その向かいで、侍女のエメが、楽しそうな声で笑った。
「でも、奥様。やっぱり素敵ですわよ。おふたり、とっても仲睦まじくて。見ていて、幸せな気持ちになります」
「……はあ。そう、見えるかしら」
フィオナは、気のない返事をした。エメの言葉は、彼女の心の奥に潜む葛藤を、さらに刺激した。
「以前は旦那様、あまり感情を表に出さない方と伺っておりましたもの。今の甘えっぷり、正直、目を疑っておりますわ。奥様が旦那様を、こんなにも変えられたのですね」
「……ただの変質者と紙一重ですけど。私が少しでも目を離したら、何をするかわかったものではありませんわ」
フィオナの言葉には、冗談めかしながらも、レオナールの「狂気」を恐れる、本音が含まれていた。
「でも、そんな旦那様をきちんとコントロールされている奥様は、さすがです! 奥様が手綱を握っているから、旦那様も安心して奥様に甘えられるのでしょう」
エメは、心から尊敬の眼差しでフィオナを見た。
「……ええ、ええ。私が手綱を握ってるんですのよね」
フィオナは、にこにこと微笑んでみせた。それは、いつもの“子兎系お嬢様”らしい愛らしい表情。けれど――内心では、彼女は自嘲していた。
(ふふ……手綱を握ってるのが私だと思われてるあたり、ほんと可笑しいですわね。みんな、そう思ってる。この関係は、私がコントロールしているって……。逆ですのよ。私、もう「逃げ場」を失ってるの。彼の過剰な愛情という名の鎖で、がんじがらめにされてる。彼から逃げようと思えば、いつでもできるはずなのに、もう、そんなことを考える気力すらなくなってしまった)
紅茶の香りに包まれながら、フィオナはふわりと微笑んだ。その笑顔の奥にあるのは、微かな緊張と、そして甘い絶望だった。
「ねえ、フィオナ。ここに座ってほしい」
レオナールが執務室のソファにどかっと座ると、すぐにフィオナの腰を抱いて、自分の膝の上に乗せた。彼の腕は、まるで彼女を閉じ込めるかのように、強く、そして優しかった。
「……ちょっ、ここ執務室……セシル様が出入りなさいますわ! 誰かに見られたら、どうするんですの!」
フィオナは、彼の大胆な行動に、声を潜めて抗議した。
「いいじゃん。夫婦だし。それに、セシルには後で「邪魔しないでほしい」って言っておくから」
レオナールの声は、どこまでも楽しそうだった。
「だからって、座らせ方ってものがあるでしょうに! 公爵令嬢の私に、この体勢は……!」
「この前、手を握っても怒らなかったから、今日はこれぐらい許されるかなって。君が怒らないと、僕はどんどん大胆になっちゃうよ」
レオナールの言葉に、フィオナは顔を赤くして反論した。
「……! 怒らなかったのは……別に……優しかっただけで……! あなたの心配そうな顔を見て、怒るに怒れなかっただけですわ!」
「うん、そういう君の優しさが、たまらなく愛しいんだ。君の優しさで、僕はどんどんダメになっていくよ」
レオナールは囁くように、フィオナの耳元へ唇を寄せた。
「フィオナ……好きだよ。君が、僕の全てだ」
「~~っ……」
フィオナは、頬が紅潮し、ぷいっと顔を逸らす。彼の言葉一つ一つが、彼女の心に深く突き刺さっていた。
(どうしてこんなに甘いの!? いちいち本気で照れてしまうではありませんの……! 私は、レオナール様の「甘さ」を克服するはずだったのに、いつの間にか、その「甘さ」にどっぷりと浸ってしまっている。私が主導権を握るんじゃなかったの!? 彼の狂気を、私の力でねじ伏せるはずだったのに!)
そんな葛藤の最中、ノックの音が響いた。
「……レオナール様、政務の報告を――」
セシルが扉を開けると、そこには、レオナールの膝の上に乗せられたフィオナの姿があった。セシルの顔から、一瞬にして表情が消えた。
「あ、セシル。タイミング悪いよ。今、フィオナに仕事よりも大切な話をしてたんだ」
レオナールは、セシルを咎めるように言った。
「…………お邪魔しました」
セシルは、一礼して、ぱたんと扉を閉めた。しばしの沈黙のあと――。
「レオナール様のバカァーーーー!」
フィオナの叫び声が、執務室に響き渡った。
「ひどっ!? 急に!? 僕、何か悪いことした!?」
赤面して逃げるように立ち上がったフィオナの背に、レオナールは笑いながら追いかけようとするが、フィオナの逃げ足は案外速かった。
夕方――フィオナは一人でバルコニーに立っていた。薄桃色の夕日が、遠くの森を照らしている。頬にあたる風が心地よくて、少しだけ冷静になれた。
(本当に私……どこまでこの人に飲まれてるのかしら。レオナール様の甘さに、私はもう、抗うことすらできなくなってる。逃げようと思えば、きっと逃げられる。お兄様に助けを求めれば、きっと助けてくれる。でも――この腕の中は、あまりに心地よすぎて、もう、ここから抜け出せない。彼の「狂気」も、「甘さ」も、全て受け入れて、彼の「所有物」になりたいと、心のどこかで願ってる)
そのとき、背後に気配を感じた。フィオナは振り返ることなく、その気配が誰なのかを悟っていた。
「……フィオナ。ここにいたんだ。探したよ」
「レオナール様……」
優しい声。けれどフィオナには、ふと“野生”を含んだような、低い響きに聞こえた。まるで、彼女を逃がさないとでも言うかのように。
「さっきの、怒ってる?」
レオナールは、フィオナのそばに立ち、優しく問いかけた。
「怒ってなどおりませんわ。ただ……」
「ただ?」
「もう少し……節度を持ってほしいだけです。私が、あなたにばかり振り回されるのは、少しだけ……悔しいですから」
フィオナが控えめに言うと、レオナールは苦笑した。
「うん、気をつける。でも……つい、我慢できなくなるんだよ。君が可愛すぎて、愛おしすぎて、僕はもう、君から離れられない」
「……子供みたいに言わないでくださいまし。あなたは、立派な辺境伯ですわ」
「じゃあ、君が大人になって、ちゃんと“ごほうび”くれたら我慢できるかも。たとえば……君からのキスとか、ハグとか、愛の言葉とか」
「なっ……!」
真っ赤になって俯くフィオナの横で、レオナールはにこにこと笑っていた。
(やっぱりこの人……チョロい。この人の「甘え」は、私の「ワガママ」を全て受け入れてくれる。でも、その「甘え」の裏で、彼は私を完全に「支配」している。手綱を握っているのは、私じゃない。彼が、私に手綱を握らせていると錯覚させているだけだ)
そう実感するたびに、フィオナの胸には奇妙な安堵と、ほんのひとかけらの不安が積もっていく。それでも。
「君がそばにいるだけで、僕は幸せなんだよ。君が僕を求めてくれるなら、僕はどんなことでもできる」
その言葉が、本当に嬉しくて。フィオナは、彼の「狂気」よりも、彼の「愛」を信じたいと、心の底から願っていた。
「……私も、ですわ。レオナール様がそばにいてくださるだけで、私も、安心できるから」
フィオナは、そっと彼の袖をつかんだ。誰のものでもない、**“ふたりだけの甘い世界”**に浸るように。この世界から抜け出すことは、もうできない。そして、フィオナは、もう抜け出したいとも思っていなかった。




