22.選んだのは
朝のエスティネル邸には、まるで春の風が吹き抜けたかのような穏やかさが漂っていた。前夜の雨が嘘のように晴れ渡り、庭の白バラが陽の光を浴びてきらきらと輝いている。フィオナは、朝のティールームで紅茶を飲みながら、窓の外の景色を眺め、ふわりと微笑んだ。その表情は、心からの安堵と幸福に満ちていた。それだけで――。
「奥様、今朝もとってもお綺麗で……。まるで、春の女神のようです」
「ええ、本当に……。最近、奥様の笑顔が増えましたね。見ているわたくしたちも、幸せな気持ちになります」
メイド頭のマルゴーをはじめとした使用人たちは、誰からともなくそんな言葉を交わしていた。彼らはみな、フィオナの心からの笑顔が、この屋敷に穏やかさをもたらしていることを感じていた。そして、それ以上に彼らが感じていたのは、レオナールの変化だった。
以前のレオナールは、どこか“愛情”の見えない、空虚なまなざしをしていた。しかし、今の彼はまるで初恋をした青年のような、とろけるような笑顔でフィオナを見つめている。彼の瞳には、フィオナへの深い愛情と、そして底知れない「独占欲」が満ちている。
「……このまま、穏やかであってくだされば。辺境伯様と奥様が、いつまでも幸せでありますように」
副官のユーゴが小声でそう呟くと、政務官のセシルは、その知的な瞳を細めた。
「だが、奥様のほうが主導権を握っているようにも見えるのが、興味深い。辺境伯様は、奥様の言葉一つで感情を露わにされ、そして、奥様の言葉一つで感情を抑えられる。これまでの辺境伯様では、考えられないことです」
「ふふ、それこそ理想の夫婦像ですわね。愛し合う二人の間にある、深い信頼の証でしょう」
メイド頭のマルゴーが柔らかく笑う。彼らの言葉は、全てが安堵に満ちていた。過去を知る者たちにとっては――それほどに、今の辺境伯と奥方の空気は“奇跡のように優しいもの”に思えたのだ。だからこそ、その穏やかな空気が一変した時、彼らは息をのんだ。
「――ご来客です」
門番の声が、静かな屋敷に響き渡った。
「……ルネお兄様」
応接間に通されたその男は、予想通り、フィオナの実兄・ルネ=シャルメリーズ伯爵だった。彼の顔は、フィオナへの心配と、そしてレオナールへの強い警戒心に満ちていた。彼は、フィオナのそばに座るレオナールを見るや否や、鋭い視線を向けた。
「貴様……妹を壊した男か。妹は部屋に引きこもっていたと聞いた。それも、お前が何か引き起こしたことが原因だろう」
その声音に、応接間の空気が張り詰める。ルネの言葉には、フィオナへの深い愛情と、そしてレオナールへの強い怒りが込められていた。レオナールは、フィオナの隣に座っていたが、ゆっくりと背もたれに体を預け、口元を緩めた。
「フィオナは壊れていないよ。むしろ、以前よりもずっと美しい。そして、僕に愛されることで、彼女はより輝いている。僕は、彼女を可愛くて仕方がないんだ」
レオナールの言葉は、甘く、そしてどこか冷たかった。彼の瞳の奥には、ルネを警戒するような、獣の光が宿っていた。
「……連れて帰る。今すぐにだ。お前のような危険な男のそばに、フィオナを置いておくわけにはいかない」
ルネの声に、フィオナは眉をひそめた。
「お兄様、急に来て何を……。私、何も聞いていませんわ」
「今すぐ荷物をまとめろ、フィオナ。この男の甘い言葉に騙されてはいけない。この男は、過去に……」
「おいおい、まるで誘拐犯みたいな物言いだなあ? 君は、僕の大切な奥さんを、僕から奪おうとしているのかい?」
レオナールの声が、わずかに低くなる。彼の瞳の奥の光が、さらに強くなった。フィオナが咄嗟にレオナールの袖を握る――それだけで、彼は再び甘い笑顔を浮かべたが、視線の奥では金色の瞳がルネを射抜いていた。
「なに、目が……」
ぞっとしたようにルネが眉をひそめたその瞬間。
「やめて、レオナール様。お兄様、お座りください。落ち着いて、話を聞いてくださいませ」
フィオナが、落ち着いた声で言った。彼女の言葉は、レオナールの高まった感情を、わずかに抑え込んだ。
「お兄様、私を心配して来てくれたのでしょう? そのお気持ちは、本当に嬉しいですわ。でも、もう心配いりませんわ。私は、もう大丈夫です」
「……フィオナ。この男は……」
ルネが、レオナールの危険な本性を訴えようとした。しかし、フィオナの次の言葉が、彼の言葉を遮った。
「私の一番安心できる場所は、レオナール様の腕の中なんですの。彼が、私を一番に守ってくれる。そのことが、私にとって何よりの幸せなのです」
その一言で。レオナールの顔に、とろけるような笑みが広がった。彼の瞳は、フィオナへの深い愛情で満ちている。
「……うん、フィオナ。嬉しいよ。君がそう言ってくれて、僕は心から……本当に、心から嬉しい」
嬉しそうにフィオナを抱き寄せ、額に口づけるレオナール。その姿は、まるでこの世で一番幸せな男のようだった。対照的に――ルネは、凍りついたように立ち尽くしていた。彼の顔は、フィオナの言葉を理解できずに、混乱に満ちていた。
「…………な、にを」
ルネの唇が震える。声が、うわずっていた。
「……っ、おま、え……お前……ふ、ふ、フィオナ……な、なにを……! 騙されているんだ、目を覚ませ!」
ようやく事態を“察した”ルネの顔が、みるみるうちに赤く染まり、耳まで真っ赤に。フィオナが、レオナールの「狂気」を承知した上で、彼に身を委ねていることを理解したのだ。
「嘘だ……妹が……この狂った男と……! こんな……こんなことが、あるはずない!」
バンッ!!
ルネは勢いよく椅子を蹴倒した。彼の怒りは、レオナールだけでなく、フィオナにも向けられていた。
「フィオナ! 貴様、気でも狂ったか! こいつがどれだけ危険な男か、お前は……! イレーヌ嬢の悲劇を、お前は知らないのか!」
「知っていますわ」
フィオナは、きっぱりと言い切った。その言葉に、ルネは完全に言葉を失う。
「な……なぜだ? 知っていて、なぜ……?」
「私が選んだの。イレーヌ様がどうであれ、レオナール様の過去がどうであれ、それでも私が選んだのです。誰に否定されても、私の意思は変わりませんわ」
フィオナの声は、迷いなく、そして揺るぎない決意に満ちていた。
「もう、お兄様に心配されるような、か弱い妹ではありません。私は、レオナール様とともに生きていくことを、この身に誓いました」
「っ、う、うそだ……っ! 俺の妹は、こんなに馬鹿じゃないっ! 嘘だと言ってくれ、フィオナ!」
「あら? 私、もともと賢くありませんでしたわよ? あなたが思っているほどに」
軽やかに言うフィオナに、ルネは拳を握りしめる。彼の顔には、怒り、絶望、そして深い悲しみが混在していた。
「フィオナ、お前は騙されているんだ! こんな男に! 目を覚ませ!!」
ルネの叫びが、応接間に響き渡った。
「うるさいなあ」
その声は、レオナールのものだった。まるで、ずっと我慢していた何かが“ぽとり”とこぼれたように。彼の表情から、これまでの甘さが消え去っていた。
「そんなに言うなら、君の目を閉じさせてあげようか? 君が僕の邪魔をしないように」
にこにこと微笑むレオナールの目は、どこか焦点が定まっておらず――その奥底で燃えているのは、確かに“狂気”だった。ルネの言葉が、彼の「独占欲」を刺激し、その「狂気」を呼び覚ましてしまったのだ。
「言ったはずだよね。フィオナを連れて帰るなんて、二度と口にしないでって。彼女は、僕だけのものだ」
「ひっ……」
ルネの背中に、冷たい汗が流れる。立ち上がったレオナールの気配に、部屋の空気が張り詰めた。レオナールは、ルネを「排除」しようとしている。
(まずいですわ。このままでは、お兄様が……!)
フィオナは、ルネを守るように、そっとレオナールの手を取る。
「……ねえ、レオナール様。私、今夜は特別に、添い寝していただきたいのですけれど……」
フィオナは、彼にしか聞こえないように、甘く囁いた。
「……!」
その一言で、レオナールの目の色が一気に和らぐ。狂気の光が消え、再び甘い光が戻ってきた。
「本当に? フィオナのほうから、そう言ってくれるなんて……夢みたいだ。君が僕を求めてくれるなんて……」
「ふふ、ですから、怒らないでくださいませ。私、あなたの笑顔が一番好きですのよ? その怖い顔、私には似合いませんわ」
「……うん、わかった。フィオナがそう言うなら。僕は君の望む通りに、君の隣にいるよ」
再び微笑むレオナールに、使用人たちはそっと胸をなでおろす。狂気が、フィオナの「愛の言葉」によって、ぎりぎりのところで押しとどめられたのだ。
結局、ルネはフィオナの頑なな態度と、レオナールの底知れない狂気に打ちのめされ、満身創痍で屋敷をあとにした。去り際、彼は何度も「フィオナは騙されている……!」「あんな男、絶対に許さない……!」と呟いていたのが、フィオナの耳に忘れられずに残っていた。その姿を、フィオナは窓辺からそっと見送った。
「……ごめんなさい、お兄様。でも私には、もうレオナール様しかいないの。あなたにこの気持ちは、きっとわからないでしょうけれど」
そう呟いた横で、レオナールが微笑む。
「フィオナ、ありがとう。君が僕を選んでくれて……本当に嬉しい。君は、僕の全てだ」
「こちらこそですわ。レオナール様が、私の全部を受け止めてくれるから。私の「ワガママ」も、「我慢」も、そして「秘密」も……」
フィオナは、レオナールの胸に顔をうずめた。二人は静かに抱きしめ合う。その繋がりは、もはや恐怖や支配を超え、フィオナの選択によって、より強固なものとなった。
けれど――その未来が、幸福で満たされているかどうかは、まだ誰にもわからなかった。二人の間にある「愛」と「狂気」のバランスは、あまりにも脆く、そして危ういものだった。




