21.甘い朝に揺れる心
白い天蓋の隙間から、やわらかな朝の光が差し込む。それは、まるで二人の昨夜を祝福するかのように、静かに、そして穏やかに部屋を照らしていた。どこか夢の中のように静かな時間が、フィオナとレオナールを優しく包んでいた。
フィオナはまどろみの中で身をもぞもぞと動かし――己の体の重さに、ふと意識が引き戻され、目を覚ました。彼女の頬に触れる、ひんやりとした感触。金色の髪が頬にかかっている。隣には、静かに息を立てて眠っている――いや、眠ったふりをしているレオナール。その穏やかな寝顔は、あの夜の狂気を秘めた姿とは、あまりにもかけ離れていた。
「あ……」
フィオナは、彼の顔をそっと見つめた。そうだ、昨夜のこと。思い出しただけで、彼女の頬はかっと赤くなる。自分から唇を重ねて、身を預けて――気がつけば、全てを許していた。恐怖と安堵の狭間で、彼女は彼に身を委ね、心も体も、彼に飲み込まれてしまったのだ。
「……なんで、私……」
フィオナは、罪悪感と、そして得体の知れない戸惑いに満ちた声を、小さく、そして震わせるように呟いた。彼女は、レオナールを「手のひらの上」で転がすつもりだった。彼の狂気すらも、自分の力で「支配」できると信じていた。だが、今はもう……違う。彼の目が、声が、手が――今も、皮膚の奥に残っているようで。その感触が、彼女の心を締めつけ、彼女自身の感情を混乱させていた。
胸の奥がきゅう、と締めつけられるような感覚。それは、甘く、くすぐったく、そしてほんの少し怖い。その混じり合った感情をどう名付ければいいのか、フィオナにはわからなかった。
(私……この人を、好きになってる?)
フィオナの心に、静かに、そして確かな感情が芽生え始めていた。それは、理屈では説明できない、純粋な「愛しさ」だった。
「……ふふ、起きてるの、バレバレですわよ? レオナール様」
フィオナは、彼の寝顔をそっとつつくように言った。すると、レオナールはあからさまに「ばれてしまった」という顔をして、目を開けた。彼の瞳には、悪戯っぽい光が宿っている。
「おはよう、フィオナ。君が起きてくれたから、僕も起きたよ」
「おはようございます、レオナール様」
ベッドの中ということを忘れたような、丁寧な挨拶。それにレオナールは、喉を震わせて笑った。その笑い声は、フィオナの心に安らぎを与えた。
「ねえ、フィオナ。昨夜は、幸せだった。君も、そうだったかい?」
「……っ!」
フィオナは、彼の率直な言葉に、再び顔を真っ赤にして毛布をぎゅうっと引き寄せた。
「ば、バカですの?! 何をいきなり言い出しますのよ!」
顔を真っ赤にして毛布に顔を埋めるフィオナに、レオナールはまるで子供のようにくすくすと笑い出した。
「だって……昨日のフィオナが可愛すぎたから。泣いて、僕を求めて、そして僕を受け入れてくれた君が、可愛くて、愛おしくてたまらないんだ」
「~~~~っ! 知りませんわ! 朝からそういう話、禁止です! もう、本当に、恥ずかしいですわ!」
フィオナは、ますます顔を赤くして、彼から身を離そうとした。
「あれ? 照れてる? フィオナが照れるなんて……なんだか、嬉しいな。もっと君の可愛い顔が見たい」
レオナールの声は、どこまでも甘くて、どこまでも優しい。まるで、フィオナという存在にすべてを捧げると決めたような、深い愛情が滲み出ていた。
(あの人が、こんなに甘くて、優しくて、愛おしいなんて。私が「コントロールしていた」はずなのに……。……今じゃ、完全に振り回されてるの、私の方じゃない。彼の掌の上で、私は踊らされてるだけなのかも)
それを認めるのが悔しくて――でも、レオナールの満ち足りた笑顔を見ると、笑えてしまう。
「……ふふ。レオナール様って、本当にチョロいですわね。私のことなら、なんでも許して、なんでも受け入れてくれるんですもの」
「うん。君の前では、どこまでもチョロくなるよ。君が望むなら、どんなことでもしてあげる。それが、僕の愛だから」
そう言って、頬に触れてくるその手は、まるで硝子細工を扱うように繊細だった。彼の優しい眼差しに、フィオナは抗うことができなかった。
「……ねえ、フィオナ」
レオナールの声が、真剣な響きを帯びる。
「……なんですの」
「昨日ね、君とひとつになったとき……「壊したい」なんて、一瞬も思わなかったんだ。ただ、君を抱きしめて、君の全てを僕のものにしたいと、それだけを願っていた」
フィオナは、黙ってレオナールの顔を見つめた。彼の言葉は、彼女の心を深く揺さぶった。
「ずっと、そうやって、全部手に入れたら、どこかで「壊す」ことが自分の愛情の証だと思ってた。そうすることでしか、自分の愛情を確かめられないと、昔は思っていたんだ。僕の「愛」は、そうやってしか表現できないと信じていた。イレーヌの時も、そうだった」
フィオナは、彼の言葉を、ただ静かに聞いていた。彼の正直な告白に、彼女の心は、レオナールの「狂気」の根源に触れたような気がした。
「でも、君といるとね……壊すより、こうして「君のままでいてくれる」ことの方が、もっともっと嬉しいんだ。君が僕の隣にいて、笑ってくれるだけで、僕の心は満たされる」
レオナールの瞳には、フィオナへの深い愛情と、そして「狂気」を克服しようとする、かすかな光が宿っていた。
「…………レオナール様って、ほんと変な人。でも……少しだけ、嬉しいです」
「うん。君がそう言うなら、きっとそうなんだろうね。僕は君にとって、変な人で、でも……君を一番愛する人でありたい」
レオナールの指が、フィオナの頬を優しく撫でる。その仕草があまりにも優しすぎて――フィオナはつい、目を細めた。彼女は、彼の優しさに身を委ねていた。
(この人が、私のことを大切にしてくれているのは、嘘じゃない。でも、どこまでが“愛”で、どこからが“狂気”なんだろう? それは、きっと、彼自身にもわからないのかもしれない。彼の「愛」と「狂気」は、すでに一体化している。そして、それが私の心を、完全に絡めとってしまった)
それが未だにわからなくて、けれど今はもう、それを確かめることが怖くもある。彼の「狂気」を再び目の当たりにするよりも、この「甘い朝」が永遠に続くことを願っていた。
「レオナール様」
「ん?」
「今日も、お仕事でしょう? ちゃんと行ってくださいな。あなたが怠惰だと、この領地がどうなってしまうか、わたくし、心配でたまりませんわ」
フィオナは、彼を突き放すような口調で言った。それは、彼の「甘さ」に飲み込まれないように、自分自身を保つための、彼女なりの抵抗だった。
「え~、今日はフィオナとずっとこうしていたい。仕事なんて、どうでもいいよ。君が僕の隣にいてくれるなら、僕は何もいらない」
すねたような口調と、心底から愛しそうな眼差し。彼の言葉は、フィオナの心をさらに揺さぶった。
(チョロい、ほんとチョロい……。でも、どこかで少しだけ――レオナールのその笑顔の奥に、あの夜見た「狂気」の片鱗がある気がして。それに気づかぬふりをすることでしか、今は繋ぎとめられないものがあるような、そんな気がしますの)
その後、フィオナは身支度を整え、ティールームでカミラの淹れた朝の紅茶を味わっていた。彼女の顔には、もう昨夜の疲労の色はなかった。
「奥様、顔色もお戻りで、安心いたしました。旦那様も、奥様がご無事で、心底安堵なさっていました」
「ありがとう、カミラさん。エメのこと、よろしくお願いいたしますね」
「承知しております。奥様がこうして穏やかに過ごされていることこそが、私たち使用人の安心でもありますから」
その言葉に、フィオナの胸がぎゅうっと締めつけられるようだった。
(「穏やか」に見える私……でも本当は、レオナール様に飲み込まれてるだけなのかもしれない。彼の腕の中でしか、安らぎを見つけられない、哀れな私……)
でも。
(……それでも、私、後悔してない。だって………あんなに、安心できたのは初めてだったから。彼の「狂気」を知った上で、それでも彼に身を委ねたからこそ得られた、この上ない安堵感。どれほど甘い罠でも、私はもう……この人を手放したくない。この温かさを、二度と失いたくない)
フィオナの中で、その感情が確かに根を張り始めていた。それは、彼女が望んでいた「支配」とは違う、しかし、彼女の心を完全に満たす「愛」だった。




