20.貴方のぬくもり
静けさが降りたエスティネル城の一室。夜の帳が落ちたとは思えないほど、そこは穏やかであたたかい光に満ちていた。それは、レオナールがフィオナのために用意させた、いくつもの柔らかなランプの灯りだった。
浴室で何度も湯を替え、丁寧に身を清められたあと――フィオナは、静かにベッドに仰向けに横たわっていた。真っ白な天蓋のカーテンが揺れている。その揺らぎは、彼女の心の動揺を映しているかのようだった。触れた水の感覚も、柔らかな毛布のぬくもりも、今はまだ現実ではなく、夢の中のことのようだった。
(……怖かった。あのとき、本当に終わるんだと思った。私の、この人生が、全て……)
体に這ったあの汚らわしい手の感触が、まだ微かに皮膚の奥に残っている気がして、フィオナは無意識に腕を抱き寄せる。全身が震え、涙が頬を伝った。
(でも――)
恐怖の記憶と重なるように、鮮明に浮かぶのは、あの血まみれの中で差し伸べられた腕。あの、狂気を秘めた金の瞳。――「大丈夫。君はもう僕が守るから」……その言葉が、どれほど心を震わせたか。それは、彼女の心が本当に助けを求めていた瞬間に、差し伸べられた唯一の「救い」だった。彼女は、あの時の彼を「恐ろしい」と思った。だが、それ以上に、「彼がいてくれてよかった」と、心の底から安堵したのだ。
(……私、レオナール様が……好き……?)
フィオナの心に、これまで感じたことのない感情が芽生えた。それは混乱ではない。錯覚でもない。あのときの安堵感は、確かに「愛しさ」に変わっていた。彼の持つ「狂気」も「甘さ」も、全てひっくるめて、彼を「好きだ」と、彼女の心が告げていた。
「……っ」
ふと、扉の外に気配を感じた。フィオナの心臓が、微かに跳ねる。ゆっくりと扉が開く。
「フィオナ、起きてる?」
低く、優しい声。フィオナはベッドの上で体を起こす。目の前に現れたのは、あのときの血に染まった姿とは全く違う、どこまでも穏やかなレオナールだった。彼の表情は、フィオナの無事を確かめるように、心からの安堵に満ちていた。
「……レオナール様」
フィオナの声は、微かに震えていた。
「ごめんね。休んでるところに邪魔をしてしまったかな」
レオナールは、フィオナの顔色を窺うように、ゆっくりと歩み寄った。
「いいえ……来てくださって嬉しいですわ。あなたに……会いたかったです」
フィオナは、素直な感情を口にした。レオナールは、その言葉に安堵し、手に持っていた包みをフィオナに差し出した。
「これはエメから。無理はしないでって。彼女は腕に切り傷を負っただけだけど、僕が強制的に療養させることにしたよ。君のそばにいるのは、僕だけで十分だから」
レオナールの言葉には、エメへの優しさと、そしてフィオナへの強い「所有欲」がにじみ出ていた。
「よかった……でも、彼女がいないと少し寂しいですわね」
フィオナは、エメの無事に胸をなでおろした。
「その間、メイド頭のカミラが代わりについてくれる。彼女も信頼できる人間だ」
「カミラさん……ふふ、頼もしいですわ。ご心配おかけしました」
そのやりとりの最中、フィオナの心には、ほっと安堵の笑みが浮かんだ。彼の「支配」と「保護」は、彼女にとって、もはや切り離せないものになりつつあった。しかし次の瞬間――フィオナの前に膝をついたレオナールは、そっと彼女を抱きしめた。
「……間に合ってよかった」
その言葉に、フィオナの喉が詰まる。彼の声は、安堵と、そして深い「後悔」に満ちていた。
「あと少し遅れていたら、僕は――僕自身を許せなかった。君が傷つく姿を、僕は二度と見たくない。あの男どもを、この手で八つ裂きにしてやりたかった」
レオナールの言葉には、深い愛情と、そして恐ろしいまでの「狂気」が混在していた。フィオナは、彼の胸元にそっと顔をうずめた。その胸の鼓動が、確かに生きていると教えてくれる。
「大丈夫……私は、大丈夫です。レオナール様が……助けてくださったから」
「……そう言ってくれるのは嬉しいけど、心も体もきっと、たくさん傷ついただろう?」
レオナールの手が、フィオナの髪を撫で、首筋へと下りてゆく。彼の指先が、彼女の肌を優しくなぞる。
「治療が、必要だ。君の心と体の傷を、僕がぜんぶ癒やしてあげたいんだ」
レオナールは、フィオナの首筋に顔を埋めた。彼の声は、あまりにも甘やかで。深く、熱く――情熱に沈んでいた。
問い返す間もなく、彼の唇が、そっとフィオナの額に触れた。次に、こめかみ。まぶた。頬。そして、鎖骨。彼の唇は、まるで彼女の体に刻まれた傷を探すように、優しく、そして丁寧に押し当てられていく。
「や、レオナール様……くすぐった……」
フィオナは、戸惑いながらも、彼の行為を拒否することはできなかった。彼女の心は、すでに彼の「甘い支配」に絡めとられ始めていた。
「君の心と体の傷を、僕がぜんぶ癒やしてあげるんだ。君が僕以外に頼る必要がないように」
その声は、あまりにも甘やかで、深く、熱く――情熱に沈んでいた。フィオナの胸が、どくんと高鳴る。自分でも抑えきれないほどに。逃げようとした指先を、レオナールが優しく絡め取る。その指先は、まるで二人の関係を確かめるように、深く絡み合った。
「フィオナ……」
呼ばれた名に、フィオナは静かに目を閉じる。彼の唇が、彼女の唇に重なった。深く、長く――静寂が世界を包み込むほどに。それは、もはや「キス」というよりも、二人の魂を繋ぎ止める「儀式」のようだった。
「フィオナ……怖い記憶は、僕が全部消してあげるから。君の心には、僕の存在だけあればいい」
囁かれたその言葉に、フィオナはそっと身を預けた。もう、何も抗う理由がなかった。彼の腕の中は、恐ろしいほどに甘く。どこまでも優しかった。彼女は、レオナールの「支配」を、もはや「恐怖」とは感じていなかった。それは、彼女の心を癒すための「救い」だと、錯覚し始めていたのだ。
カーテン越しの月明かりが、白いシーツに影を落としていた。フィオナの頬はほんのりと朱に染まり、静かに眠っている。彼女の細い肩を抱きしめながら、レオナールは満足げに目を細めた。
「……やっと、僕のものになってくれたね。もう二度と、僕から逃げようとは思わないだろう?」
レオナールは、フィオナの髪をすくい取り、そっと口づけを落とす。
「これからは、何があっても……絶対に離さない。君の全ては、僕のものだ。君の心も、体も、何もかも」
その言葉は、囁きのように優しく。けれど――静かに滲む、「独占欲」の温度は、狂気と紙一重だった。レオナールの心の中には、フィオナという「美しい獲物」を完全に手に入れたことへの、深い満足感が満ちていた。




