02.陽だまりの小悪魔
フィオナ・シャルメリーズが東部エスティネルの城に輿入れしてから、早くも三日が経った。王都での喧騒とは打って変わって、この辺境の地は、ゆったりとした時間が流れている。春風の吹き抜ける広々とした庭園では、早朝から花の世話をする庭師の姿が見えた。奥の厨房からは、香ばしいパンと焼きたてのキッシュの匂いが、風に乗って微かに漂ってくる。城全体が、ゆっくりと目覚めるような静寂に包まれていた。
そんな朝の静寂を破ったのは、フィオナの、ころころと転がるような笑い声だった。
「まあ! 本当にこれ、フィオナそっくり……!」
彼女が手にしていたのは、庭師ルイス・キエルが手ずから刈り整えた、見事な「兎の形」をした草木のオブジェだった。その形は、彼女の愛らしい仕草とそっくりで、今にもぴょんぴょんと跳ね出しそうに見える。
「……俺はただ、坊ちゃんの頃から兎が好きだと言ってたって聞いたから、それで作っただけだ」
ルイスは素っ気なくそう呟くが、浅黒い肌に金髪の長髪を一つに結んだ野性的な顔は、ほんの少しだけ赤くなっていた。動物や植物に人一倍優しい彼が、こんなにも細やかな作業をしていたことに、フィオナは密かに感嘆していた。
「とっても素敵ですわ。ね、エメ。あの子、名前をつけてあげましょうか」
フィオナは、オブジェの兎を抱きかかえるように胸元に寄せ、隣に控える侍女のエメ・セラフィーナに微笑みかけた。
「はい、フィオナ様。……また可愛いもの好きが広がってますわね……」
エメは呆れたように言いながらも、その口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。彼女もまた、主と共にこの城での暮らしに馴染みつつあるようだった。王都での緊張感とは違い、城の温かい雰囲気に触れることで、エメの表情にも以前より安堵の色が見える。
フィオナはオブジェの兎を、まるで生きているかのように慈しむと、視線をルイスに戻した。
「ルイス様……いえ、ルイス。次は、桜の苗を植えるのを手伝ってもいいかしら?」
フィオナがくるりと笑って上目遣いで見つめると、ルイスは一瞬たじろいだ。その瞳には、彼女の小悪魔的な魅力に対する戸惑いと、それ以上の純粋な戸惑いが入り混じっていた。彼は口数の少ない男だが、その動揺は分かりやすかった。
「……ああ。怪我しないようにだけ、気をつけてくれ」
そう言って、ルイスは視線を逸らした。
「ありがとう。やさしいのね、ルイス」
フィオナは、その一言を、甘えを含んだ声で囁いた。ルイスは何かをぐっと飲み込むように喉を鳴らし、それ以上何も言わずに、返事の代わりに黙って苗木を抱えて歩き出した。その背中からは、照れ隠しのような、わずかな慌ただしさが伝わってくる。
――ふふ、簡単ね。
フィオナは微笑んだまま、そっと目を伏せる。笑顔を向けて、少しだけ甘えた声で、ささやかな感謝を伝える。それだけで、大人たちは皆、自分に向き合ってくれる。それが、彼女が幼い頃から無意識に磨き上げてきた「愛され術」だった。王都の貴族社会では、この術で多くの人間を意のままに操ってきた。この辺境の地でも、それは変わらないようだ。むしろ、王都の貴族たちよりも純朴な人々は、彼女の小悪魔的な魅力に、いとも簡単に絡め取られていく。
その日の午後、フィオナは厨房に顔を出した。城の隅々まで散策するのが日課になっていたフィオナは、好奇心旺盛な子猫のように、新しい場所を見つけては足を踏み入れていた。厨房もその一つだった。
「マルコ、何か甘いもの……ありますか?」
扉を開けると、甘く香ばしい匂いがふわりと漂ってくる。フィオナが顔を覗かせると、料理長マルコは顔を輝かせた。でっぷり体型の口髭おじさんは、フィオナが城に来て以来、彼女の胃袋を掴むことに情熱を燃やしていた。
「おおっ、フィオナ様! おいでなすった! あるとも、ありますとも!」
マルコは手についた小麦粉を払って、興奮した様子で冷蔵庫から一皿を取り出した。ガラス製の皿の上には、淡いピンクと白の美しい層になったデザートが乗っている。
「これは苺とローズのジュレ、ミルクパンナコッタ仕立て! 奥方様のために毎朝苺を潰しては、メイドの嬢ちゃんたちが不審がっておりましてな!」
「まあ、そんな……」
フィオナは、厨房の片隅に置かれた小さな椅子にちょこんと座り、マルコが差し出したスプーンを口に運んだ。とろりとした口溶け、甘さの中に広がる芳醇な花の香り、そして苺の甘酸っぱさが絶妙に溶け合う。それは、まるで春そのものを凝縮したような味だった。
「……おいしい。世界が春でできているみたい」
フィオナがぽつりと呟いたその言葉は、厨房に響き渡った。職人気質の料理人たちは、普段は無骨な男たちばかりだが、その言葉に思わず手を止め、皆がフィオナの言葉に耳を傾けた。彼らの顔に、純粋な喜びと、彼女を喜ばせられたことへの満足感が浮かぶ。フィオナは、彼らの素朴な感情に、心地よい充足感を覚えていた。王都の貴族たちの、裏の読み合いや腹の探り合いに比べれば、この城の人々はあまりにも真っ直ぐだった。その光景を、厨房の扉の影から見ていた男がいた。
レオナール・エスティネルは、柱の陰から静かにその様子を眺めていた。執務を終え、気分転換に城内を歩いていると、厨房からフィオナの笑い声が聞こえてきたのだ。
フィオナは厨房の者たちに囲まれ、笑い、甘える。彼女の仕草一つで、普段は堅物のメイドすら、顔を綻ばせる。マルコは得意げに、彼女の言葉に耳を傾け、ルイスは照れながらも彼女のために精魂込めて兎のオブジェを作る。
(……すごいな。あっという間に、みんなの懐に入ってる)
感嘆と、微かな安堵がレオナールの胸を満たした。城に新しい風が吹き込んでいる。それは、これまでどこか冷えていた彼の心の中にも、じんわりと温かい光を灯していくようだった。
(こんなに“自然”に笑ってくれる人が、いるなんて)
彼の脳裏に、かつての城の様子が過る。重苦しい空気、笑顔のない使用人たち。イレーヌ・モントレイユがこの城にいた頃、彼女は笑うことを知らなかった。あるいは、笑うことができなかったのかもしれない。レオナールの過剰な愛と執着は、彼女からすべての感情を奪い去り、最終的に精神を壊してしまった。その過去の記憶は、今でもレオナールの心を蝕んでいた。
しかし、フィオナは違った。彼女はまるで水を得た魚のように、この城で輝いている。その声が、その笑顔が、彼の心の空白にじわじわと染み込んでくる。
「どうかしました、旦那様?」
ふいに、メイド頭カミラ・デュプレの声がした。彼女はいつも通りの優しい雰囲気で、レオナールの傍らに立っていた。レオナールは慌てて笑みを作る。
「いや、なんでもない。ただ……幸せな絵だと思っただけだ」
「ふうん……そう見えるなら、何よりです」
カミラは軽く目を伏せたが、その言葉の奥には「遠回しな警告」も含まれていた。彼女は、レオナールが過去に何をしたかを知っている。そして、フィオナがどれほどこの城に光をもたらしているかも。
――壊さないで。
彼女の目がそう言っていた。その沈黙の視線が、レオナールの胸に突き刺さる。彼は口元を歪め、城の奥へと足を向けた。
日が暮れる頃、フィオナは一人で執務室を訪れた。エメには「少しお散歩してくるわ」と告げ、単独行動だった。彼女の目的は、レオナールだった。彼の「陽キャ」な仮面の下に隠された本性を、もっと深く探りたい。そして、彼を自分の掌で転がせるかどうか、試したかった。コンコン、と扉をノックする。
「レオナール様、入ってもよろしい?」
中から、低い声で「もちろん。おいで」と返事が聞こえた。
執務室の中は、書類の山で埋もれていた。レオナールは積み上がった報告書を片手に、椅子を引いてフィオナに勧める。彼の顔には、一日の疲れが滲んでいるようだった。
「今日は、庭で遊んでたそうだな。ルイスにまで名付けさせるとは……やるな、フィオナ」
「ふふっ。だって、あの子、可愛くできていたんですもの。……ねえ」
フィオナは勧められた椅子に座り、卓上の紅茶を一口飲んでから、優しい声で問いかけた。その瞳は、まっすぐにレオナールを見つめている。
「うん?」
「ここは、いいお城ね。人も、空気も、優しいわ。でも……あなたは?」
レオナールの表情が、一瞬固まった。フィオナは彼の目を見つめたまま、言葉を続ける。
「あなたは、ちゃんと笑えてる? 本当の意味で」
レオナールは、一瞬言葉を失った。どうして、この少女が、そこまで見抜けるのか。彼の表向きの快活さの奥に隠された、真実の感情を。
(どうして――)
そう思ったが、すぐに理解する。彼女は可愛いだけじゃない。人の心を読むことに、長けている。
「……難しい質問だな。俺は“守る側”だからな。皆が笑っていてくれるなら、それでいいと思ってる」
レオナールの言葉は、どこか諦めを含んでいた。
「でもそれ、あなたの幸せじゃないわよ」
フィオナはカップを置き、椅子からすっと立ち上がった。そして、軽やかな足取りで、まっすぐに彼のもとへ歩いてくる。積み上げられた書類の山が、まるで二人の間の壁のようだったが、フィオナは迷いなくその壁を越えていく。
小さな体が、レオナールの前でぴたりと止まる。見上げるような視線。フィオナの桜色の瞳が、彼の琥珀の瞳を射抜く。
「笑って? 私のためでもいいから」
その言葉は、驚くほど真っ直ぐだった。まるで、子供が両親にねだるように、純粋で、無垢で、しかし有無を言わせない力強さがあった。フィオナが求めるのは、レオナールの偽りのない笑顔。それが、彼の心の奥底に隠された本性を引き出す鍵だと、彼女は直感していた。
ふわりと、白兎のような少女が笑う。その笑顔が、レオナールの胸に、じんわりと滲む。それは、今まで感じたことのない、甘く、切ない感情だった。彼の心に、今まで誰も踏み込むことを許されなかった領域に、フィオナは軽々と足を踏み入れたのだ。
レオナールはふっと微笑んだ。それは、表面的な「陽キャ」の笑顔ではなく、心の奥底から湧き上がる、微かな、しかし本物の笑みだった。
「……ああ。なら、こうして君といること、それが今の俺の幸せだって、思っておくよ」
フィオナはその言葉に満足げにうなずき、踵を返した。
「よかった。それなら、しばらくここにいてあげる」
その背中を見送りながら、レオナールはひとつ、深く息を吐いた。フィオナの言葉は、まるで彼の心の奥深くに閉じ込められていた感情を、無理やりこじ開けようとしているかのようだった。彼女が去った後も、その言葉が、まるで呪文のように彼の脳裏を巡る。
けれど、同時に脳裏に浮かんだのは――
白い部屋。
割れたティーカップ。
泣きじゃくる声。
そして、ぼろぼろになったイレーヌの顔。
“あの子”のことだった。
「……忘れたわけじゃない、んだよな」
彼の声は、誰にも聞こえないように、そっと虚空に消えた。フィオナが灯した小さな光が、彼の心の奥底に隠された闇を、ゆっくりと照らし始めていた。そして、その闇は、彼女を飲み込むのか、あるいは、彼自身を再び壊すのか。レオナールは、その答えを知ることに、恐れを感じていた。