19.この腕の中で
「……こんなに晴れているのに、気分はどんよりですわね」
初夏の陽光が差し込むエスティネル城の窓辺で、フィオナ・エスティネルは、頬杖をついたまま小さくため息をついた。優雅な暮らし、甘いお菓子、贅沢な紅茶、そして何よりレオナールの過剰なまでの甘やかしも――今の彼女の心に巣食う、焦りや疲弊を解消してはくれない。レオナールの完璧な甘さに、彼女は「自分が優位に立っている」という感覚を失いつつあった。彼が、全てを承知の上で自分を手のひらで転がしているのではないかという疑念が、彼女を蝕んでいた。
「エメ、街へ行きましょう。気晴らしがしたいの。この城にいると、息が詰まりそう」
フィオナは、侍女のエメに振り返ることなく言った。
「街、ですか? 旦那様にご相談を……。以前、襲撃に遭われたばかりですし、お一人では危険です」
エメは、フィオナの突然の提案に戸惑い、レオナールの許可を得るべきだと進言した。
「……内緒で行くの。あの人、いちいち“心配”ばかりして、私が何をしても、どこへ行っても、すぐに追いかけてくる。まるで、私の行動を全て把握しようとしているみたいで、息が詰まりそう」
フィオナの声には、苛立ちと、そしてレオナールへの拒絶の感情が滲んでいた。エメはフィオナの言葉を聞き、その気配に気づいていた。「いつものフィオナ様じゃない」と。彼女の目には、フィオナが、何かから逃れようとしているかのように映った。
「……では、少数ですが精鋭護衛をつけて、すぐに準備しますね。旦那様には、私が上手く説明しておきますので」
エメは、フィオナの心情を察し、彼女の望み通りに動くことを決めた。フィオナは微笑んだ。その笑みの奥には――**焦りと苛立ちと、ほんの少しの“虚しさ”**があった。彼女は、レオナールの支配から逃れようと必死になっていたが、同時に、自分の行動が彼を怒らせるのではないかという、新たな恐怖とも戦っていた。
午後、華やかなドレスと飾り羽の帽子をまとい、フィオナは馬車で王都の商街へと向かった。エメと数人の精鋭護衛に囲まれながら、次々と店に足を踏み入れていった。
「これとこれと、それも! ああ、このリボンも可愛いですわね! 全て包んでくださいな!」
フィオナは、まるで何かに取り憑かれたかのように、次々と商品を指差した。
「フィオナ様、それ全部、お買いになるのですか?」
エメは驚きを隠せずに尋ねた。
「買うの! 気分が晴れないときは、散財に限りますわ! 欲しいものを全て手に入れて、この胸のモヤモヤを吹き飛ばすのよ!」
ドレス、靴、香水、ティーセット……普段は控えるようなものまで惜しげもなく積み上げていくフィオナの姿に、エメはただ見守るしかなかった。
「これだけ買えば、きっと少しはスッキリするはず……ふふっ」
フィオナは、作り笑いを浮かべた。しかし、その笑顔は、彼女の内面の混乱を隠しきれていなかった。エメは微笑みつつも、フィオナの“無理な明るさ”に胸の奥がざらついた。
(本当は……何かに追い詰められてるように見えます、フィオナ様。こんな風に物を買っても、心は満たされないと、私は感じます)
エメの直感は正しかった。フィオナは、レオナールの支配から逃れるために、無意識に「自分の力」を誇示しようとしていたのだ。
日も傾きかけた頃、フィオナを乗せた馬車は、王都を離れ、エスティネル城への帰路についた。静かな森の中を、馬車の車輪が静かに音を立てる。その帰り道――それは、突然の出来事だった。
「――伏せてくださいッ!」
護衛の叫びと同時に、馬車が急停車した。次の瞬間、周囲を黒装束の男たちが取り囲んでいた。彼らは、手にした得物を構え、馬車へと迫ってくる。
「な、なに……!?」
フィオナは、再びの襲撃に、全身の血の気が引くのを感じた。馬車の扉をこじ開け、フィオナとエメを力任せに引きずり出す男たち。
「――貴族の娘か。これは高く売れるぞ。旦那はいないのか?」
「お人形みてえな顔しやがって……たっぷり可愛がってやろうぜ」
男たちの下卑た声が、フィオナの耳に届く。
「護れ、護れぇええええ!!」
護衛のひとりが叫びながら剣を振るうが、数で圧倒され、あっという間に切り伏せられる。護衛たちの悲鳴が、フィオナの耳を貫いた。
「やめてッ! やめてええっ!」
エメの悲鳴が響く中、フィオナは何が起きているのか理解する前に、両腕を荒々しく縛られ、男に担がれていた。
連れていかれたのは、郊外の廃屋のような建物だった。冷たい石壁に押し付けられ、服を乱されかけた瞬間――フィオナは、ぞわりと這い上がる嫌悪と、全身を包む恐怖に、声も出せずにいた。
「触らないでぇぇぇえええええ!!」
それでも、粗雑な手がフィオナの腕を掴み、顎を持ち上げられる。
(いや……いや……!!)
「やめ、やめてぇ……っ、レオナール様……!」
フィオナは、無意識にレオナールの名を叫んだ。その言葉は、彼女の心に潜む、彼への「依存」と「安堵」を物語っていた。泣きながら名を呼んだその時――空気が、変わった。
「ッな、何だ――」
男たちの驚きの声が響く。廃屋の扉が、まるで爆発でもしたかのような勢いで吹き飛んだ。そこに現れたのは――
返り血を浴びた男。銀髪の隙間から覗く金の瞳が、獣のように光る。その姿は、あの夜のレオナールと瓜二つだった。
「……遅くなって、ごめんね、フィオナ」
レオナールの声は、普段と変わらない甘さだった。しかし、その声には、フィオナを助けに来た安堵と、そして目の前の男たちへの激しい「怒り」が滲んでいた。
「れ、レオ……ナール、さま……?」
フィオナは、彼の姿に安堵しながらも、同時に、彼の放つ尋常ではない殺気に、恐怖を感じていた。数秒の静寂の後、廃屋に惨劇が始まった。
「ぎゃあああああッ!!」
野党の一人が、レオナールの鋭い剣に斬られる。その腹から血が吹き出し、他の者たちは絶叫しながら逃げ惑う。
「ひ、一人で何人も……!? こ、こいつ人間じゃねぇ――!」
男たちの悲鳴が、廃屋の中に木霊した。
「うるさいなあ……僕の大切な奥さんに、よくも手を出してくれたね?」
レオナールの声は、いつも通り甘い。しかし、そこに滲むのは――純粋な怒りと、そして「壊すこと」を愉しんでいるかのような、混濁した感情だった。
「ほら、まだ君、指が動くでしょ? “謝って”、ちゃんと。ね?」
レオナールは、倒れた男の喉元に剣先を突きつけ、優しく囁いた。
「た、助けてくれっ――」
男の言葉が終わるより早く、鋭い刃がその喉を切り裂いた。血が、レオナールの顔に飛び散る。その時、レオナールの表情は、まるで至福に満たされているかのようだった。
その頃には、フィオナもすでに声を上げることもできず、ただ震えながら床に座り込んでいた。彼女の目の前で繰り広げられた惨劇は、彼女の心に深い傷を残した。
最後の一人が絶命した後、血に濡れた靴音がゆっくりとフィオナに近づく。
「フィオナ、大丈夫? もう安心していいよ。君を傷つける者は、もう誰もいない」
レオナールは、ゆっくりとしゃがみこみ、優しくフィオナの手を拘束していた縄を解く。その手も、血で濡れていた。
「レオ……ナール、さま……」
フィオナは、彼の顔を見た瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。しゃくりあげるように、震えながら、フィオナはレオナールの胸に飛び込んだ。
「怖かった……! 怖くて……! 嫌だったのに……誰も……誰も助けてくれなかったのに……!」
フィオナの言葉は、悲しみと、そして彼に助けられたことへの安堵に満ちていた。
「ごめんね、遅くなって。本当にごめん……僕がもっと早く来ていれば、こんなことにならなかったのに。君が僕のそばから離れたから、こんなことになったんだ。もう二度と離れないでほしい」
レオナールは、まるで子をあやす母のように、フィオナの背をゆっくりと撫で続けた。彼の言葉は、フィオナを安心させる一方で、彼女を永遠に自分のそばに閉じ込めておきたいという強い「所有欲」を含んでいた。
「もう大丈夫。君はもう僕が守るから。僕の腕の中にいれば、もう何も怖いことはないよ」
その言葉が、どうしようもなく温かくて。同時に、ぞっとするほど冷たいものにも感じられて――けれど今は、何もかもがどうでもよくなるほど、安堵に包まれていた。フィオナは、彼が自分を守ってくれたという事実が、彼の「狂気」への恐怖を上回っていることを悟った。
「大丈夫……大丈夫だからね」
レオナールは、まるで傷ついた“ぬいぐるみ”を抱きしめるように、フィオナをきつく、優しく抱きしめ続けた。彼の腕の中で、フィオナは、彼を「支配」するどころか、彼に「依存」し始めている自分に気づかずにいた。




