18.毒と蜜の間
初夏の陽が心地よく差し込むエスティネル城の中庭。白バラが満開となり、薄桃色の風が花弁を運んでゆく。甘く芳醇な香りが、あたり一面を満たしていた。その中にひときわ目を引く姿があった。
フィオナ・エスティネル。ローズグレイのワンピースをまとい、レースのついた白いパラソルを片手に、緑のアーチの下をゆっくりと歩いている。彼女の姿は、まるで絵画の登場人物のようだった。その横顔には、これまでの「あざと可愛さ」とは異なる、どこか覚悟を決めたような、そして挑戦的な表情が浮かんでいた。
その姿を、執務室からの庭の窓越しに静かに見下ろす男がひとり。レオナール・エスティネル。彼は、手にした紅茶の入ったカップを傾けながら、その視線の先にフィオナを捉えていた。
と、その瞬間、フィオナがまるで“意図的”にこちらを見た。彼女の視線が、レオナールのいる窓へと向けられる。ほんの一瞬、視線が交差した。そして、フィオナは静かに、しかし明確に、微笑んだ。
それは「可愛い妻」の笑顔ではなかった。挑発的で、したたかで、そしてどこか危険な香りのする笑み。まるで「このままじゃ終わらせないわ。あなたを、私の手のひらで転がしてあげる」と告げているようだった。
それを見た瞬間、レオナールの口元がふっと持ち上がった。彼の瞳の奥に、獲物を見つけた狩人のような、冷たい光が宿る。
(ああ、いい。彼女、ちゃんと知ったんだな。僕の過去を。僕がイレーヌに何をしたのか、そして、僕がどういう人間なのか……兄から手紙が届いたのだろう。それでも、逃げない。怯えて部屋に閉じこもることはあっても、最終的にはこうして僕の前に現れ、噛みついてくる。心理戦を仕掛けてくる。――そういう子、好きだな。他の誰とも違う。壊れそうで壊れない、その絶妙な均衡が、僕の心をこんなにも惹きつける)
レオナールは、まるで獣をからかうように、薄い紅茶に口をつけた。窓の外のフィオナがゆっくりと踵を返し、優雅に庭を歩き去っていくのを見送りながら、彼は満足げな笑みを深めた。
(怖がって、怯えて、それでも僕に立ち向かってくるフィオナは……今までの誰よりも、壊しがいがある。彼女の心を、どこまで僕の色に染め上げることができるのか。彼女のプライドを、どこまでへし折ることができるのか。楽しみだ)
レオナールにとって、フィオナの「抵抗」は、彼をより深く引きずり込む、甘美な誘惑でしかなかった。
「ふふ……お茶、いかがですか? 今日はラベンダーとミントをブレンドしましたの。心身ともに安らぎをもたらす、フィオナ特製のブレンドですわ」
午後のサロン。テーブルを挟み、フィオナは笑顔を浮かべてカップを差し出した。彼女の言葉には、レオナールの疲労を癒そうとする妻の愛情が満ちているように聞こえる。
「ありがとう。君のおかげで、どんな日でも心が安らぐよ。君が淹れてくれたお茶を飲むと、僕の心は不思議と穏やかになる」
レオナールはカップを受け取り、一口啜った。彼の表情は、心底から癒されているかのようだった。
「まあ。相変わらず、お上手ですわね。レオナール様は、そういう甘い言葉を、どれだけの女性に言ってきましたの?」
フィオナは、彼の言葉をかわすように、冗談めかして言った。しかし、その瞳は、彼の反応を注意深く観察している。
(この人の甘い笑顔……もう何十回、何百回見たかしら。けれど……そのどれが“本物”だったのか、いまだにわからない。彼の言葉も、表情も、あまりにも完璧すぎる)
日々続く、視線の探り合い。何気ない会話に紛れた「隠された本音」を読む戦い。フィオナは今、その真っ只中にいた。彼女は、レオナールの完璧な甘さに、疑念を抱かずにはいられなかった。
「今日の午後は、お出かけでもどう? 街に出て、美味しいものでも食べようか」
レオナールは、何気なく誘った。
「……お気遣い嬉しいですけれど、少し疲れが溜まってしまって。レオナール様も、無理はなさらないでくださいね」
フィオナは、彼の誘いをやんわりと断った。彼女の心には、まだ、あの夜の出来事が生々しく残っている。街で再び襲撃に遭い、彼の「狂気」を目の当たりにするのは、フィオナにとって避けたいことだった。
「そう……じゃあ今日は、僕が一日中君のそばにいる。君の疲れた心を、僕が癒してあげよう」
レオナールの言葉は、フィオナの心をさらに揺さぶった。彼の「甘やかし」は、もはや彼女の心を支配するための手段に他ならないように思えた。
「レオナール様?」
フィオナは、彼の言葉の真意を測りかねていた。
「君が疲れてるのに放っておけるわけないだろう? 傍にいて、君が安らぐまで、君を抱きしめてあげたいんだ。それも、僕の愛の形だから」
(……やっぱり、この人、チョロい。チョロい……はず……。私の言葉一つで、彼は全てを投げ出して、私に尽くしてくれる。なのに、なぜか胸がざわつくの。この甘さが、いつか私を窒息させるのではないかという恐怖が、消えない)
フィオナは、レオナールの甘さが深まるほどに、その裏に潜む「狂気」の深さを感じていた。
その夜。
フィオナはひとり、寝室のベッドに座っていた。頬杖をつき、鏡に映る自分の顔を見つめる。その表情は、日中の「あざと可愛い」笑顔とは全く異なり、疲労と、そして深い葛藤が浮かんでいた。
(おかしいわね。毎日、私が優位に立ってるはずなのに。言葉でも態度でも、「彼を振り回してる」はずなのに……。まるで、「転がされてる」のは私の方じゃない……? 私が彼を「支配」していると思っていたけれど、実は彼が、私をこの「ゲーム」の中に引きずり込んでいるだけなのでは?)
フィオナは、自分の心を深く覗き込んだ。そして、皮肉と疲れがにじむ、本音の笑みがこぼれた。
(お兄様は「逃げろ」と言った。賢い判断だ。あの手紙を受け取った時、私も一瞬、そうすべきだと思ったわ。けれど私は、「勝つ」って決めた。今さら怯えて逃げたら、私の美学が許さない。私のプライドが、それを許さない。彼の「狂気」から逃げたところで、私は一生、彼の影に怯えることになる。怖くても、不安でも、私が「主導権を握ってる」って証明するの。彼の「狂気」すらも、私の「愛」の力で乗り越えられると、証明するのよ)
部屋の扉の向こうから、静かなノック音が響く。
「フィオナ? 少しだけ、顔を見せてくれないか? 君の美しい顔を見ないと、僕は眠れそうにないんだ」
レオナールの声。今日も変わらず、柔らかく、穏やかな声。しかし、フィオナには、その声が、彼女を閉じ込めるための鎖のように聞こえた。
「今日は……もう休みますわ。レオナール様も、あまり無理をなさらないで」
フィオナは、扉越しに冷たく応じた。彼女は、彼がどれだけ「甘さ」を見せても、その裏にある「狂気」を決して忘れてはいなかった。
「そっか。じゃあ……これ、君が好きそうな本。扉の前に置いておくよ。もしよかったら、読んでみてほしい。君の心を、少しでも癒せるなら……」
去っていく足音。扉越しに微かに感じた気配も、すぐに遠のいてゆく。フィオナは、扉の下から差し入れられた本を、じっと見つめていた。
(あの声すら、信じられない。あの優しさも、この本も、全てが私を「安心」させるための罠かもしれない。でも……あの優しさが、本物だったら? もし、あの血に染まった笑顔の方が“仮面”で、今見せているこの「甘さ」こそが、彼の本当の姿だったら……?)
フィオナは、首を横に振る。そんな可能性を信じることは、彼女にとってあまりにも危険すぎた。
(違う。あれは、確かに“悦び”の顔だった。私はそれをこの目で見た。彼は「壊すこと」に、心の底から歓喜していた。それを忘れたら、私は彼の「愛」という名の毒に、完全に侵されてしまう。忘れないで。私は、壊される人形じゃない。「主導権」は、私のもの――)
翌朝、フィオナはレオナールのいる執務室へと足を運んだ。彼女の心には、一晩考え抜いた末の、確固たる決意が宿っていた。
ノックの音に応じて扉が開く。レオナールは穏やかな微笑を浮かべたまま、書類を机に置き、椅子を立ち上がった。彼の表情は、フィオナの訪問を心から歓迎しているかのようだった。
「おはよう、フィオナ。来てくれて嬉しいよ。今日は、もう君に会えないんじゃないかと、少しだけ不安だったんだ」
レオナールの言葉は、甘く、そしてどこか寂しげだった。
「少しだけ、お顔が見たくなったの。あなたがいなくて、寂しかったから……」
フィオナは、彼の元へと歩み寄り、その胸にそっと身を寄せる。彼女の行動は、レオナールの心に安らぎをもたらす。レオナールが腕を回し、フィオナを優しく抱きしめる。
「フィオナ。……今日も美しいね。君の存在が、僕の生きる意味だ」
「ふふ……そんな言葉、毎日言われてると飽きてしまいますわ。もっと違う言葉で、私を褒めてみて?」
「それでも、言わずにいられないんだよ。君を褒める言葉は、僕の心から自然と溢れてくるんだ」
レオナールの言葉は、どこまでも甘美だった。しかし、その甘さこそが、フィオナの心に警鐘を鳴らし続けていた。
(この甘さに酔ってはいけない。この甘さが、私を蝕む毒かもしれない。この腕の中で安心したら、私はきっと負ける。彼の「甘さ」と「狂気」の狭間で、私は自分自身を見失ってしまう。怖くても、苦しくても、私は……勝つ。このゲームの勝者は、この私よ)
彼の胸元にそっと顔を埋めながら、フィオナの目がわずかに鋭さを取り戻していく。彼女は、レオナールの心を探るための、新たな「遊戯」を始めていた。そして、その「遊戯」の終着点で、どちらが「壊れる」のかは、まだ誰にも分からなかった。




