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政略結婚なのに、陽キャ辺境伯の溺愛が子ウサギ系令嬢を、狂気で満たす甘い檻に閉じ込めた  作者: 宮野夏樹
第1章 盤上遊戯が溺愛に変わるまで

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17.明かされる過去


 午前の陽光が差し込む書斎。窓から射し込む柔らかな光が、フィオナ・エスティネルの手元に置かれた一通の封書を、白く輝かせた。白銀の蝋印には、見慣れたブランシュ家の紋章が誇らしげに刻まれている。それだけで、差出人が彼女の兄、ルネであることは明らかだった。


「……お兄様から?」


 フィオナの胸に、言いようのない胸騒ぎがした。特別な理由はない。ただ、漠然とした不安が、彼女の直感に警鐘を鳴らしていた。まるで、これから開かれる手紙が、彼女の平穏な日常に亀裂を入れるとでも言うかのように。


 フィオナは静かに封を切り、手紙を広げた。兄の几帳面で整然とした筆跡が、紙の上に並んでいる。その文字は、普段のルネの冷静さを物語っていたが、内容はフィオナの心を激しく揺さぶることになる。


『フィオナへ

 まず、体調を崩していたと聞いた。お前のことだ、無理をして笑っているのではないかと心配している。侍女のエメを通じて、お前が部屋に閉じこもっていたとも耳にした。何かあったのなら、すぐに私に伝えるのだ。

 本題に入る。……エスティネル辺境伯、レオナールについてだ。

 かつて、彼には婚約が内定していた令嬢がいた。お前も覚えているだろう、イレーヌ・モントレイユ。彼女は、王都でも指折りの美貌と才知を兼ね備えた女性として知られていた。その婚約が五年前に突然破談となり、その後彼女は精神を病み、一年近く療養院に籠もっていたという。その間のイレーヌ嬢の様子は、関係者にとって非常に痛ましいものだったと聞いている。

 回復後は別の男と結婚し、現在は子をもうけ、普通の生活を送っている。伯爵家の令嬢として、平穏な家庭を築いていることは喜ばしいことだ。だが、彼女は“あの頃の記憶”を一切持っていない。まるで、人生のある一点から先の記憶が、ごっそり抜け落ちてしまったかのようだ。

 どういう意味か、聡明なお前なら察しはつくだろう。

 ……その男と長く関わるべきではない。

 フィオナ、お前の身が心配だ。兄として、お前が同じ道を辿ることを恐れている。

 すぐに離縁し、家へ戻れ。

 兄としての忠告だ。これは命令ではない。お前の意思を尊重したい。

 だが、お前がこのまま“壊される”未来だけは、私には耐え難い。

  ルネ・ブランシュ』


 手紙の最後の行が、フィオナの手の中で震えた。彼女の指先が、紙を掴む力が強くなる。ルネが「命令ではない」と前置きしながらも、その言葉の切迫感が、フィオナの胸を締め付けた。


「………お兄様」


 フィオナは、静かに呟いた。あの夜、レオナールが血を浴びて笑った顔。城の使用人たちの微かな怯え。レオナールがフィオナだけに囁く「君しかいない」という甘すぎる言葉の奥に見え隠れする、底知れない執着。そして何より――彼自身が語った「壊しがいがないから、選ばなかった」という、過去の女への冷酷な言葉。


(全部、繋がった。点と点が線になった。あの夜見た光景は、幻でも見間違いでもなかった。そして、使用人たちの怯えの理由も……。レオナール様は、“愛しすぎて壊した”んだわ。イレーヌ・モントレイユという令嬢を。彼の「愛」が、彼女の「心」を破壊した。そして、その結果が「記憶喪失」……。イレーヌという令嬢は、レオナール様に“愛されて”記憶を失った。記憶を……失うほどに、彼は彼女を追い詰めたのだわ……)


 フィオナは唇を噛んだ。指先は白くなり、手紙が小さく震える。彼女の心には、恐怖がじわりと広がっていく。兄の忠告は理にかなっている。逃げなければならない。このままでは、自分も同じ運命を辿るかもしれない。だが――。


「……ふふっ」


 気がつけば、フィオナは笑っていた。その笑みは、恐怖を押し殺したような、あるいは恐怖を乗り越えたような、複雑な感情を宿していた。


「離縁して帰れ……?  兄上、私を誰だと思っているの?  私は、ブランシュ伯爵家のフィオナよ。そして、エスティネル辺境伯夫人だわ」


(「手玉に取る」って決めたのは、私。この「愛の遊戯」を仕掛けたのは、私の方だ。怖い? ええ、怖いわ。心臓が今にも破裂しそうなくらいに。でも、それ以上に――この人を私の足元に跪かせる快感に、私はもう魅せられてしまっている。彼の狂気すらも、私の手で操れると信じたい。レオナール様。あなたが“壊した”令嬢と、私を一緒にしないでほしいわ。私は“壊される側”じゃない。“あなたを壊す側”なのだから。私は、あなたの「狂気」を、私の「愛」で包み込み、あなたを完全に「支配」してみせる)


 フィオナの瞳には、覚悟の光が宿っていた。彼女は、レオナールの危険な本性を知った上で、それでも彼を「征服」することを決意したのだ。




 その日の昼食は、久しぶりにダイニングで取られた。一週間の引きこもり生活の後、フィオナは再びレオナールとの食事の場に現れたのだ。レオナールは相変わらず優しく、席に座るフィオナのナプキンを整え、手料理の取り分けまでしてくれる。彼の顔には、フィオナが戻ってきたことへの純粋な喜びが満ちていた。


「フィオナ。今日はデザートに君の好きなローズのゼリーを用意したよ。君の好物を全て覚えておきたいんだ」


 レオナールは、フィオナの皿にゼリーを盛り付けながら、甘い声で言った。


「まあ、嬉しい……。でも、“好きなもの”を全部知ってるなんて、少し怖いですわね。まるで、私の全てを把握しようとしているかのようで」


 フィオナは、彼の言葉を試すように問いかけた。彼女の心には、ルネの手紙の内容が重くのしかかっていた。


「怖がらせたくはないよ。ただ、君の好きなものを全部覚えておきたいだけだ。君が喜ぶ顔が見たいから」


 レオナールは、穏やかに微笑んだ。


「それって、“全部手に入れたい”ってこと?  私の好きなものも、私の心も、私の全てを、あなたのものにしたいという意味?」


 フィオナは、さらに踏み込んだ。レオナールは一瞬だけ目を伏せ、すぐに笑った。その笑みは、まるで本心を隠しているかのようだった。


「……違うかな。“全部あげたい”の方だよ、きっと。僕の全てを、君に捧げたいと願っているだけだ」


(――違う。絶対に違う。その目は、「奪い尽くしたい」目だった。彼の言葉は、彼の「所有欲」を隠すための嘘だわ)


 フィオナは、レオナールの言葉の裏にある本性を見抜いていた。




 午後、書庫の一角で紅茶を飲んでいたフィオナは、わざとらしくレオナールに近づいた。彼は、難解な書物を読みふけっていた。フィオナは、兄の手紙の内容を直接彼にぶつけてみることにした。


「ねえ、レオナール様。イレーヌ・モントレイユって、ご存知かしら?  確か、あなたの昔の婚約者だと伺いましたが」


 レオナールは書物から顔を上げ、しばらく沈黙した。彼の表情は、一瞬にして硬くなった。琥珀色の瞳の奥に、何か複雑な感情が渦巻いているのが見えた。


「……昔、婚約の話があった人だよ。だが、結局ご縁がなかった。それだけのことだ」


 レオナールは、平然とした顔で答えた。彼の声には、動揺の色は一切感じられなかった。


「そう。ご縁がなかった、だけ?  彼女が、あなたの「愛」によって壊されたという噂は、本当ではないの?」


 フィオナは、彼の目を見つめ、挑むように問いかけた。


「うん。君が知るような、ドラマティックな話は何もなかったよ」


 レオナールは、平然と嘘をついた。彼の瞳の奥で、何かが微かに揺らめいたが、すぐに消えた。


(平然と……嘘をつけるのね。この人、私が「何を知ってるか」探っている。私の動揺を誘い、私の情報を引き出そうとしている。でも、私の方が一枚上。今の私は、あなたの“演技”にも負けない。あなたの偽りの「甘さ」に、もう惑わされないわ)


 フィオナは、彼の完璧な嘘に、恐怖を覚えるよりも、むしろ興奮を覚えていた。これは、彼女にとって新たな「ゲーム」の始まりだった。


「じゃあ、私のことも……いつか“ご縁がなかった”って記憶を失わせるつもり?  私もイレーヌ・モントレイユと同じように、あなたの「愛」で壊されてしまうの?」


 フィオナは、さらに核心に迫った。レオナールは目を細めた。彼の瞳に、かすかな「狂気」の光が宿ったように見えた。


「そんなこと……絶対にない。君は、僕がこの世で最も愛する女性だ。君を壊すことなど、僕にはできない」


 その言葉が、なぜか「約束」のように聞こえなかった。「警告」――いや、「呪い」のように。彼の言葉は、「壊さない」というよりも、「壊させない」という、恐ろしいまでの「所有欲」を含んでいるかのようだった。




 夕方、フィオナは温室でエメと並んで座っていた。温室のガラス越しに、夕陽が差し込み、二人の姿をオレンジ色に染めている。


「エメ……もし、私が全部忘れてしまっても、私のこと……覚えていてくれる?  私が私でなくなってしまっても、私のことを忘れないでいてほしいの」


 フィオナは、心臓の奥で密かに抱いている恐怖を、エメに打ち明けた。


「えっ?  奥様、何を仰っているのですか?  忘れる……って?」


 エメは困惑したように首を傾げた。彼女には、フィオナの言葉の真意が理解できなかった。


「ふふ、なんでもないの。ただ、ふと思っただけ。あなたには、ずっと私のそばにいてほしいとね」


 フィオナは、はぐらかすように笑った。彼女の心には、レオナールの「狂気」を前にしても、決して屈しないという強い決意があった。


(私は壊されない。壊させない。レオナール様が私を「壊そう」とするのなら、私はその「狂気」を受け止めて、彼を完全に「支配」してみせる。この人の狂気も執着も、全部、抱えて勝ってみせる。壊されて記憶を失って終わるような、そんな“お人形”とは違うの。私は、イレーヌ・モントレイユとは違う。レオナール様。あなたが私を壊そうとする前に――私が、あなたを“愛で縛ってあげる”。あなたの「狂気」すらも、私の「愛」の内に閉じ込めてみせるわ。それが、私の勝ち方よ。彼の「狂気」を私の「甘さ」で塗りつぶし、彼を永遠に私の「もの」にする)


 フィオナの瞳には、レオナールへの深い「執着」と、彼を「征服」しようとする強い「意志」が燃え上がっていた。




 夜。レオナールの腕の中で眠るふりをしながら、フィオナは静かに目を閉じた。彼の心臓の音が、すぐそばで聞こえる。その音は、まるで彼女の心臓の音と共鳴しているかのようだった。心臓は高鳴っている。だが、それは、もはや怖れではない。


 それは――獲物を仕留める時の、高揚。危険なゲームに足を踏み入れた者だけが味わえる、甘美な興奮。

 フィオナは、レオナールの「狂気」に立ち向かうことを決意した。そして、彼を完全に自分の「所有物」とすることで、この危険な「愛の遊戯」に終止符を打とうとしていた。この二人の戦いは、まだ始まったばかりだ。

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