16.消えない残像
「今日は……これを着てみましたの」
淡いローズピンクのドレスを身に纏い、フィオナは、レオナールの執務室の扉をそっと開いた。ドレスの胸元には可憐な刺繍が施され、髪には緩く巻かれた同色のリボンがあしらわれている。それは、彼女が「可愛い」を演出する時の、とっておきの装いだった。病み上がりの身体に、再び「小悪魔」の鎧を纏うように、フィオナは自信を取り戻そうとしていた。
「……っ、フィオナ。すごく似合ってるよ。まるで、摘みたての薔薇のようだ」
レオナールはすぐに椅子から立ち上がり、目を細めて笑う。その笑顔は、あの日以前と何も変わらない――優しく、蕩けるように甘い。彼の琥珀色の瞳には、ただフィオナへの深い愛情だけが満ちているように見えた。
(……おかしいわね。少しくらい「気まずさ」とか、「怯えさせた」という自覚があってもいいのに。私が彼を避けていた一週間のこと、まるでなかったかのように振る舞うなんて。なのにこの人……まるで、何もなかったみたいに、いつもの甘いレオナール様を演じている。あれは、本当に私の見間違いだったのかしら?)
フィオナの心には、拭いきれない疑念と、それゆえの苛立ちが募っていた。
「フィオナ。今日は何か予定があるの? こんなに美しい姿で、まさか僕以外の誰かに会うわけじゃないだろう?」
レオナールはフィオナのそばに歩み寄り、その手を取った。
「ふふっ。いいえ、ただ旦那様のお顔が見たくなって。私の大好きなレオナール様の顔が、執務室に閉じこもっているなんて、もったいないですもの」
そう言って、ひょいとレオナールのデスクに腰かける。彼女の行動は、レオナールへの「甘え」と、同時に彼を「試す」意図が込められていた。
「レオナール様って、ほんとうにお仕事ばかりね。もう少し私のことも構ってくださらないと、拗ねてしまいますわ。私がいなくても、あなたはきっと仕事を選ぶのでしょうね?」
フィオナは、わざとらしく口を尖らせて見せた。
「じゃあ、仕事をさぼろうか。今日の執務は全てセシルに任せて、今日は君とだけ過ごす日にしよう。君が望むなら、いつでもそうするよ」
レオナールは、迷うことなく即答した。彼の表情には、一切の躊躇がない。
「……チョロい」
フィオナは、思わず心の声が漏れてしまった。
「え? 今、何か言ったかい?」
レオナールは、優しく問いかける。
「いえ、“嬉しい”って言ったんです。私のために仕事を放棄してくれるなんて、本当に嬉しいですわ」
フィオナは、慌てて取り繕った。
(……ほんとうに、“チョロい”のかしら? それとも、私を安心させるために、ここまで完璧に演じているのか? あの夜の――あの血に染まった笑みは、幻だったの? 私の疲れた頭が見せた、ただの妄想? それとも、今この瞬間こそが、すべて“作られた顔”……? この甘さは、私を絡めとるための、巧妙な罠なの?)
フィオナの心は、レオナールの「甘さ」が深まるほどに、疑念の渦に引き込まれていった。彼の完璧な笑顔は、彼女にとって、一層の不安を煽るものとなっていたのだ。
その日は、ふたりで温室を散歩した。色とりどりの花々が咲き誇り、甘やかな香りが満ちる小道を、腕を組んで歩く。レオナールはフィオナの足元に気を配り、時折耳元で甘い言葉を囁いた。その言葉一つ一つが、彼女を心から愛していることを示しているかのようだった。
「フィオナって、本当に陽の光が似合うね。君がそこにいるだけで、花たちが嫉妬してるみたいだ。君の美しさの前では、どんな花も霞んでしまう」
レオナールは、フィオナの頬にそっと口付けた。
「まあ……そんなことを言っても、何も出ませんわよ? 私を甘やかしすぎて、あなたがダメになってしまいますわ」
フィオナは、彼の言葉をかわすように言った。
「でも、言わずにはいられない。可愛すぎるから。君の全てが、僕の心を奪ってしまうんだ」
(……完璧。完璧に、いつも通りの“甘いレオナール”。まるで、あの夜の出来事が、彼の記憶から消え去ったかのように……。あんな夜の後でも、微塵もその片鱗を見せないなんて。あの笑顔の裏に、別の顔が隠されているとしか思えない)
胸の中がざわざわと音を立てる。優しさに包まれているはずなのに、なぜか不安が募っていく。彼の甘さが、かえってフィオナの心を不安定にさせた。
(……私がおかしいの? 私の心が、あの夜の恐怖に囚われすぎて、この人の純粋な愛情を疑っているの? あの夜のことは、ほんとうに“私の勘違い”だったの? 私の目が、疲れて見せた幻覚? でも――)
忘れようとしても、思い出してしまう。返り血に染まった頬、狂気と歓喜が入り混じったような微笑み。あれを「見間違い」で済ませられるほど、フィオナは愚かではない。彼女の直感が、あの笑顔が「本物」であると告げていた。
(きっと……この人は、“隠している”。甘い笑顔の奥に、別の顔を――そして、その別の顔こそが、彼の「本性」なのだ)
フィオナは、レオナールが自分に「本性」を見せないことに、一種の焦りを感じ始めていた。彼を完全に「支配」するためには、その「本性」を暴き、それすらも手のひらで転がす必要があると、彼女は考えていたのだ。
夕食の後、フィオナはいつになく積極的にレオナールに甘えた。彼女は、彼の「甘さ」と「狂気」の間に、どのような繋がりがあるのかを探ろうとしていた。
「レオナール様。お膝、貸してくださらない? あなたの膝枕が、恋しくて……」
フィオナは、甘えた声で誘った。
「もちろん。君が望むなら、いつでも貸すよ。僕の全てを君に捧げよう」
レオナールは柔らかく微笑みながら、自分の膝をぽんと叩いた。フィオナがその上に座り、身体を預ける。彼の指が、彼女の髪を優しく撫でていく。
「……心地良いですわ。レオナール様の腕の中にいると、どんな不安も消えてしまいそうです」
フィオナは、わざとらしく安堵の息を漏らした。
「うん、僕も。君がいてくれて、幸せだ。君が僕の隣にいるだけで、僕の心は満たされる」
「私も、そう思えたらいいのに。もっと、心からあなたを信頼できたら……」
フィオナは、彼の言葉を試すように、心の内を少しだけ漏らした。レオナールの指が一瞬止まり――すぐに動き出す。
「……何か、不安? 君の心が、何かに怯えているように見える」
レオナールは、フィオナの顔を覗き込んだ。彼の瞳は、真剣そのものだった。
「いえ。ただ、時々わからなくなるの。……あなたが、どうしてそこまで優しくしてくれるのか。私には、その理由が分からなくて……」
フィオナは、正直な感情を吐露した。
「好きだから、だよ。君を愛しているから、これ以上ないほど優しくなる。それ以外の理由はない」
レオナールは、迷うことなく答えた。
「本当に?」
「本当に。君を疑うことなど、僕にはできない」
その瞬間、フィオナは自分でも気づかぬうちに、息を呑んでいた。彼の言葉は、あまりにも完璧だった。完璧すぎて、逆に不気味に感じられたのだ。
(怖い……。彼の言葉は、嘘ではない。しかし、その「好き」の定義が、私とはあまりにも違うのではないか? 怖い、のに――優しすぎて、隙がない。どこまでが“ほんとう”で、どこからが“演技”なの? 私が彼の「狂気」を刺激しても、彼はそれを「愛」として受け止めてしまうのか? 私が嘘を仕掛けても、全部受け入れるくせに……私が本当に求めている答えを、彼は決して与えない)
フィオナは、レオナールが自分の「本性」を決して明かさないことに、焦燥感を覚えた。
「私が、あなたを騙していたとしても?」
フィオナは、さらに踏み込んだ。
「うん。構わない。君が僕を騙そうと、利用しようと、そんなこと、僕にとっては些細なことだ。君が僕のそばにいてくれるなら、それだけでいい」
レオナールの返答は、やはり甘く、そして恐ろしかった。
「私が、あなたを利用しようとしていたとしても?」
「それでも、君を手放すつもりはないよ。君がどんな姿であろうと、僕にとっての君は、唯一無二の存在だから」
(……答えになってない。彼は、私が何を聞いても、自分の都合のいいように解釈して、甘い言葉で返してくる。でも、そこがまた……。彼の「執着」の深さを物語っている。彼にとって、私は「利用」されても手放したくないほど、価値のある存在なのだと……)
フィオナは、レオナールの「甘さ」の奥に潜む「狂気」が、想像以上に深いものであることを悟った。そして、その「狂気」が、彼女の存在を深く求めていることをも。
夜。ベッドの上、レオナールはフィオナを抱きしめ、その髪に口付けを落としながら、柔らかく微笑む。キャンドルの淡い光が、二人の顔を優しく照らしていた。
「ねえ、フィオナ。……僕がどんな人でも、そばにいてくれる? 君が知る僕ではない、別の僕の顔を見たとしても……」
レオナールの声は、どこか試すような響きを含んでいた。彼は、フィオナが自分から離れていくことを恐れているかのようだった。
「……もちろん。だって、あなたは“チョロくて甘い旦那様”でしょう? 私を愛し、私に依存している、可愛い旦那様」
フィオナは、微笑んで答えた。彼女は、レオナールの言葉の裏にある「本性」を、まだ暴ききれていないことに、内心焦りを感じていた。
「うん、そうだよ。僕は、君にとって、永遠に「チョロくて甘い旦那様」でありたい」
レオナールの笑顔は、あまりにも完璧だった。
(――嘘。あなたは、決して「普通の優しい人」ではない。あの夜の「狂気」を、私は確かに見た。“そうじゃない顔”を、私は知ってるのに。どうして、あなたは「普通の優しい人」のままでいられるの? どうして、私に「本性」を見せないの? ……わからない。ほんとうにわからない。この人の「甘さ」と「狂気」の境界線が、どこにあるのか……)
フィオナはそっと瞳を閉じた。彼女の心は、レオナールの完璧な「甘さ」によって、かえって深い迷宮に迷い込んだかのようだった。
この胸のざわめきも、すべて夢なら良いのにと。彼女は、レオナールの「甘さ」と「狂気」の狭間で、新たな戦いを始めていた。彼を「支配」するのか、それとも彼に「支配」されるのか。その結末は、まだ見えない。




