15.決意
七日ぶりに扉が開いた音が、屋敷に静かに響いた。それは、閉じこもっていたフィオナが、ついに部屋を出た合図だった。淡いピンクのドレスを身にまとい、その布地が擦れる音だけが、彼女の存在を主張する。フィオナは、何事もなかったかのような足取りで廊下に姿を現した。だがその胸の奥では、雷鳴のように鼓動が鳴り響いている。
(――大丈夫。私は“負けてない”。あの夜の恐怖に、心を支配させてたまるものか。私がレオナール様を手玉に取るんだから……何を怖がっているの、フィオナ。これまでの努力を、無駄にするわけにはいかない)
彼女の心には、恐怖と、そしてそれ以上の強固な決意が燃え上がっていた。真っ白な手袋を指先まで整え、上品な微笑みを浮かべる。この屋敷の者たちにとって“いつもの”フィオナを、何食わぬ顔で再現する。完璧な演技で、自身の動揺を隠し通そうとしていた。
「奥様……!」
最初に声をあげたのは、侍女のエメだった。彼女は、フィオナの姿を見るやいなや、顔をほころばせ、駆け寄る勢いでその白い手を取った。エメの瞳には、安堵の涙が滲んでいた。
「本当に……本当に良かった……っ! この一週間、奥様が心配で、わたし、夜も眠れませんでした……」
「ええ、心配かけてごめんなさいね、エメ。……でも、もう大丈夫。もう、何も怖くないわ」
そう言って笑うその顔に、エメはほっとしたように胸をなでおろす。彼女の心には、フィオナが無事であることへの純粋な喜びだけがあった。続いて、廊下の奥から早足で近づいてきた長身の男がいた。その顔には、一週間分の疲労と、しかしそれ以上の喜びが浮かんでいる。
「――フィオナ」
レオナールだった。彼の声は、安堵と、そして深い愛情に満ちていた。まるで夢にでも見るかのように彼女を見つめたあと、その琥珀色の目が歓喜で細められる。
「……会えて、嬉しい。君が僕の前に姿を見せてくれて、心から……本当に、嬉しい」
レオナールの言葉は、心底からのものだった。フィオナは一瞬、あの夜の“血の笑顔”が脳裏をよぎった。血に染まった頬と、冷たい眼差しのまま微笑む彼の姿が、鮮明に蘇る。その光景に、全身が粟立つような戦慄が走った。だがすぐに、心に硬い鍵をかけ、微笑む。
「心配かけました、レオナール様。……私、少し、考える時間が欲しかっただけなんです。あなたの愛の深さに、改めて向き合いたくて」
フィオナは、自身の恐怖を隠し、レオナールが喜ぶような言葉を選んだ。
「ううん。君が無事なら、それだけでいい。君が戻ってきてくれた。それだけで、僕の心は満たされる」
レオナールの声は、どこまでも優しかった。フィオナが歩み寄ると、レオナールは両腕を広げた。その中に飛び込めば、甘く、柔らかな香りが全身を包む。彼の温かい腕の中で、フィオナは再び、彼の「甘さ」と「重さ」を感じた。
(……怖い。あの血まみれの笑顔が、今も脳裏に焼き付いている。だけど、ここで怯えていたら、すべて“この人のもの”になってしまう。私が彼に「支配」されてしまう。私は――勝たなくちゃ。この「愛の遊戯」に、私が勝たなければ……!)
フィオナの瞳の奥で、決意の光が瞬いた。
執務室。午後の光が差し込む中、フィオナは机の傍でお茶を淹れていた。レオナールは、書類を捌きながらも、時折視線をフィオナに向け、その姿を愛おしそうに見つめていた。
「今日はレモンバームの香りにしました。疲労回復の効果があるそうですよ? ……レオナール様、お気に召すかしら?」
フィオナは、彼の疲労を気遣うように、しかしどこか試すような声で言った。
「君の淹れたお茶なら、どんな味でも世界一だよ。君の愛情が、全ての香りを凌駕する」
レオナールは、書類から目を離し、フィオナに優しい笑顔を向けた。
「ふふ、それじゃあ、次は“毒”でも仕込んでみましょうか? 私の愛情が詰まった、とっておきの毒を」
フィオナは、悪戯っぽく問いかけた。それは、彼がどこまで「受け入れる」のかを試すための、危険な冗談だった。
「……それでも君がくれるなら、喜んで飲むよ。君の毒なら、どんな苦しみも甘美に感じるだろうから」
一瞬、笑いながら返されたその言葉に、フィオナの指が止まる。彼女の心臓が、ドクン、と大きく鳴った。
(冗談。……よね? 彼は、私が何を言っても受け入れると、そう言ってくれているだけなのよね? でも、あの目は――まるで、本当に私が毒を盛ることを期待しているかのような、歪んだ光を宿していた……)
フィオナは、自身の冗談が、レオナールの狂気を刺激してしまったのではないかと、一瞬にして後悔した。気を取り直してカップを差し出すと、レオナールはそれを大切に両手で受け取る。
「君の笑顔、久しぶりに見た。この一週間、まるで世界が色を失ったかのようだった。……夢じゃないかと思うくらい、嬉しい」
レオナールは、ゆっくりと紅茶を一口啜った。その顔には、心からの安堵と幸福が浮かんでいる。
「夢じゃありませんよ。ほら、こうして私、目の前にいますもの。もうどこへも行きませんわ」
フィオナは、彼の言葉を肯定するように微笑んだ。
「うん……ねぇ、フィオナ。これからも、ずっとそばにいてくれる? 君がいないと、僕はどうなってしまうか分からないんだ」
レオナールの声は、甘く、そしてどこか切実な響きを持っていた。彼の「依存」の深さが、その言葉に凝縮されているかのようだった。
「……もちろん」
フィオナは微笑んで答えながら、視線をレオナールの目に釘付けにした。何を見ているのか、何を求めているのか――レオナールの「本性」を、彼女はまだ探り続けていた。彼の琥珀の瞳の奥に、あの夜見た「狂気」が、今も潜んでいるのではないかと。
その夜、ディナーは小さなサロンで用意された。料理長が腕によりをかけた豪華なコースと、メイドたちが用意した薄桃色の食器が並ぶ中、レオナールは終始上機嫌だった。彼の表情は、フィオナがそばにいることで、心底満たされているようだった。
「フィオナが隣にいるだけで、料理が美味しく感じるよ。まるで、君の甘さが全ての料理に移り香っているようだ」
レオナールは、フィオナの手を取り、優しく口付けた。
「それはどうかしら。だって、“味”を忘れるほど、私ばかり見つめてくださってますもの。お料理が可哀想ですわ」
フィオナは、可愛らしくも冷静に答えた。
「君が美しすぎるからだよ。君の存在が、僕の視界を全て埋め尽くしてしまうんだ」
「……まあ。旦那様ったら、お上手。そんなに褒めてくださると、調子に乗ってしまいますわ」
レオナールの甘い言葉に、フィオナも可愛らしく応じる。その場の雰囲気は、まるで完璧な夫婦のそれだった。だが――。
(こんな風に笑って、甘えて、取り繕っても……私の中の“恐怖”は消えない。彼の「甘さ」が深まるほど、その裏にある「狂気」が、私を蝕んでいくように感じる。この人の裏にある“なにか”が、いつこちらを引きずり込もうとするか分からない。私が彼の闇に飲み込まれる前に、私が彼を「支配」しなければ)
そう感じているからこそ、フィオナは自分のペースで彼を引き戻す必要があった。彼の「依存」を強め、自分なしではいられない状態にすることで、彼を「コントロール」しようとしていたのだ。
(“私の方が一枚上手”だと、思い知らせてあげないと。彼を完全に私の手のひらで転がして、彼の「狂気」を封じ込めるには、それしかない)
ワインを一口含み、わざとらしく目を細めてみせる。彼女の視線は、レオナールの顔に釘付けだった。
「ねえ、レオナール様。……先日、とても奇妙な夢を見たんです」
フィオナは、真剣な面持ちで切り出した。
「夢? どんな夢だったんだい? 君が悪夢にうなされるのは、僕も辛いから教えてほしい」
レオナールは、フィオナの言葉に真剣に耳を傾けた。
「ええ。あなたが、私以外の誰かに“君しかいない”と囁いている夢でしたの。その女性は、見たこともないほどに絶望した顔をしていて……」
フィオナは、レオナールの反応を注意深く観察した。彼の表情が、一瞬、ぴくりと固まるのが見えた。
「……それは、悪夢だね。僕が君以外にそんな言葉をかけるはずがないだろう?」
レオナールは、すぐに柔らかい笑顔に戻った。しかし、その声には、わずかな動揺が感じられた。
「ふふっ、私もそう思いました。……でも、なぜか目が覚めた時、とても……泣きたい気分でしたの。あなたが本当に、私ではない誰かに、あんな言葉をかけているのではないかと……」
フィオナは、涙ぐむような素振りを見せた。彼女は、レオナールの罪悪感と、そして「独占欲」を刺激しようとしていた。
「フィオナ……?」
レオナールの笑顔が、一瞬、固まる。彼の瞳の奥に、複雑な感情が渦巻いているのが見えた。だがすぐに柔らかくほぐれた。
「じゃあ、証明しようか? 君の夢が、決して現実にはならないと。この世で一番君だけを愛しているってこと。……どうすれば信じてくれる? 君が望むなら、どんなことでもするよ」
レオナールの声は、熱を帯びていた。彼の言葉は、フィオナの「独占欲」を満たすかのように響いた。その言葉に、フィオナは微笑んだ。それは、自身の策略が成功したことを示す、満足げな笑みだった。
けれどその心の奥では――。
(言わせた……けど、何一つ安心できない。彼の言葉は、彼の「狂気」を隠すための仮面かもしれない。この人は、「嘘」を見抜いても、笑って流す。まるで――本当に「壊してもいい」と思っているから、何でも優しく受け入れられるのかもしれない。私の「毒」すらも、喜んで受け入れると言ったように……)
フィオナの心には、レオナールの「甘さ」と「狂気」の間に潜む、深い矛盾が渦巻いていた。
就寝前。フィオナが寝室へ戻ると、レオナールはその扉の前で待っていた。彼の顔には、フィオナへの深い愛情と、そして一日を共に過ごせたことへの感謝が満ちていた。
「……フィオナ、ありがとう。戻ってきてくれて。君が部屋から出てきてくれて、本当に……本当に嬉しかった」
「レオナール様」
彼女はゆっくりと歩み寄り、抱きしめられるのを許した。レオナールの腕が、フィオナを優しく包み込む。
その胸の中は、暖かくて、優しい。彼の体温が、フィオナの心を安らぎで満たそうとする。けれど――今はそれすら、どこか「檻」のように感じる。彼の甘さが、彼女を閉じ込めるための罠のように思えた。
「……また、明日も同じように甘えてもいい? 今日みたいに、ずっと君のそばにいてもいい?」
レオナールの声は、まるで子供のように甘えを含んでいた。
「ふふっ。今夜は特別に、私から甘えてさしあげますわ。私の可愛い旦那様」
フィオナは、彼の髪を優しく撫でた。
「じゃあ……それは明日も、明後日もお願いしちゃおうかな。君が僕を甘やかしてくれるなら、ずっと甘えていたい」
「ええ、私が許す限り、ずっとね? 私があなたを必要とする限り、ずっとそばにいて差し上げますわ」
ふたりは微笑みを交わし、夜が静かに深まっていく。ベッドに横たわり、レオナールはフィオナを抱きしめ、その柔らかな髪に顔を埋めた。彼の顔は、心からの幸福で満たされている。
だが、その笑顔の下で――。フィオナの目は鋭く、静かにレオナールを観察していた。彼の「甘さ」の裏に潜む「狂気」を、決して見逃さないように。
(勝負はまだ、始まったばかり。あの夜の恐怖は、私の心に深く刻まれた。しかし、それが私を強くする。この人の“甘さ”が、どこまで“演技”で、どこまで“狂気”なのか。そのすべてを暴いて、掌の上で転がしてあげるわ――レオナール様。あなたを完全に私の「もの」にするために)
フィオナの心には、レオナールの「支配」を打ち破り、彼を完全に自分の「所有物」としようとする、冷たい決意が燃え上がっていた。この甘美な「遊戯」は、まだ終わらない。




