14.甘さの裏側、育つ恐怖
屋敷へと戻る馬車の中、フィオナはほとんど何も口にしなかった。街での楽しいひとときの残像は、血に染まったレオナールの笑顔によって完全に掻き消されていた。彼女の顔色は悪く、唇は震え、手には冷たい汗がにじんでいる。隣に座るレオナールは、そんな彼女に何も聞かず、ただ静かに寄り添っていた。彼の視線は、フィオナの様子を注意深く観察しているかのようだった。
屋敷へ着くと、馬車が停止するやいなや、フィオナはレオナールの手を拒むように、自分から足早に馬車を降りた。
「……先に部屋へ戻ります。お疲れ様でした、レオナール様」
それだけ言って、フィオナは振り返ることもなく、出迎えに来ていた侍女エメを連れて足早に私室へと消えていった。その背中には、明らかな拒絶と、そして深い動揺が刻まれていた。
レオナールは、彼女の背を無言で見送る。その表情に、悲しみも焦燥もなかった。ただ、ほんの少しだけ――興味深そうな笑みが浮かんでいた。彼の瞳の奥には、新たな「獲物」を発見した狩人のような、冷たい光が宿っているかのようだった。
「……本当に、怖かったの。あの人、笑っていたのよ……人を殺した後に……血まみれで……」
その晩、ベッドに座ったままのフィオナがエメに告げたのは、抑えた、しかし震える声だった。彼女は、あの時の光景が脳裏に焼き付いて離れないようだった。
「血まみれで、優しくて、――でも、あの時だけは、違った。目が……まるで、何かを「愉しんでいる」かのように、笑ってたの」
エメはフィオナの髪を丁寧に梳きながら、心配そうに眉を寄せる。彼女もまた、レオナールの豹変ぶりに驚きを隠せずにいた。
「でも、旦那様って……辺境伯でいらっしゃいますし。エスティネル辺境伯領と言えば、“東の守護者”とまで呼ばれてるお方ですよ? 襲撃に遭うことも、戦うことも、慣れてるのは当然だと思います。それに、フィオナ様を守るためだったのでは? 旦那様は、フィオナ様を何よりも大切に思っていらっしゃいますもの」
エメの言葉は、レオナールの行動を正当化しようとするものだった。彼女は長年フィオナに仕えており、今日は同行しなかったため、レオナールの内奥にある「狂気」には気づいていなかった。
「……そうじゃないの、エメ。彼は“戦っていた”んじゃない。“愉しんでいた”のよ。まるで、自分の存在意義を見出したかのように……」
フィオナの瞳は、一点を見つめていた。その言葉の響きは、エメの心をざわつかせた。エメはその言葉に目を瞬かせたが、すぐに首をかしげた。彼女にとって、レオナールはあくまで優しく、穏やかで明るい主人でしかなかった。
「わたしには……わからないです。旦那様、普段はとても優しいお方ですし。フィオナ様のこと、心から大切にされてるのは、わたしが一番よく見ています」
「……わかってる、けど。怖かったの。あの笑顔が、どうしても忘れられない……」
フィオナは膝を抱え、シーツを強く握りしめた。彼女の脳裏には、血に染まったレオナールの顔と、その口元に浮かんだ甘い、しかし冷たい笑みが、繰り返し蘇っていた。
(あの瞬間――私の知っているレオナール様は、どこにもいなかった。まるで、皮を一枚剥いだかのような、全く別の顔だった。ふわりと微笑むその顔が、血を浴びて……まるで、血に酔いしれているかのように、陶酔しているようで……。この人は――「壊すこと」に、悦びを感じるの……? 私を甘やかし、依存させることで、私を「壊そう」としているの……?)
フィオナの心に、これまで感じたことのない、底知れない恐怖が芽生え始めていた。彼女が「掌の上で転がしている」と信じていたレオナールが、実は彼女の想像をはるかに超える存在であることに、気づき始めていたのだ。
それから数日、フィオナは部屋から出なくなった。熱があるわけでもなく、体調が悪いふりをしているわけでもない。ただ、レオナールと顔を合わせたくなかった。彼の顔を見るたびに、あの血に染まった笑顔がフラッシュバックし、全身が震えるのを止められなかった。
レオナールも、無理に扉を開けるような真似はしなかった。彼は、フィオナが自ら出てくるのを待っているかのようだった。けれど毎日、必ず部屋の前に現れては――。
「フィオナ、お昼だよ。今日は君の好きなラベンダーの香り付きパンケーキを作ってもらったんだ。冷めないうちに食べてほしいな」
「ちょっとだけでいいから、声が聞きたいな。君の可愛い声を聞かせてもらえるだけで、僕の心は満たされるんだ」
「君が元気になるまで、何度でも来るから。……ずっと待ってるよ、フィオナ。君が僕を必要とするまで、僕は決して離れないから」
そう囁く声が、扉越しに優しく響く。彼の声は、まるで呪文のように、フィオナの心に絡みついてきた。扉の向こうから香ってくるのは、彼女の好きな紅茶の匂い。扉の下から差し入れられるのは手紙と菓子、扉の外には柔らかなぬいぐるみ。その全てが、過剰なほどに「甘やかし」で構成されていた。
フィオナは、それをただ見つめるだけで、手には取らなかった。彼女の心は、レオナールの優しさと、その裏に潜む「狂気」との間で揺れ動いていた。
(優しい。とても優しい。でも……優しすぎるのが、怖い。まるで、私を檻の中に閉じ込めるかのような優しさ。この人、私にすべてを捧げてるみたいに見えるけど――その裏で、何を考えてるのか、もうわからない。もしかしたら、私が彼に「依存」するのを待っているのかもしれない。そして、依存した私を「壊す」ことを「愉しむ」ために……)
フィオナの心に、一筋の冷たい風が吹き抜けた。
「フィオナ様、そろそろ……旦那様にお会いになっては? このままでは、旦那様が本当にお倒れになってしまいますわ」
五日目の夜、我慢しきれなくなったエメが、膝を折って訴えるように言った。彼女は、レオナールがフィオナの部屋の前で夜通し過ごしていることを知っていた。
「旦那様、毎晩、寝ずに扉の前でうたた寝して……起きてはまた、差し入れを置いて……。正直、お可哀想ですわ。あんなにもフィオナ様を愛していらっしゃるのに」
エメの言葉は、レオナールへの純粋な同情に満ちていた。
「……それは、あなたが“知らない”からよ、エメ。あの人の、本当の顔を……」
フィオナの瞳が、夜の闇の中できらりと光る。その光は、恐怖と、そしてわずかな覚悟の色を帯びていた。
「え……?」
エメは、フィオナの言葉に戸惑いを隠せない。
「……あの人、“壊すこと”が好きな人よ。あの夜、目の前で殺して、血を浴びて、笑っていたの。……まるで、恋人に再会したような、幸福な顔で。あの笑顔は、私に向けられる「愛の笑顔」とは全く違っていたわ」
フィオナは、あの時のレオナールの表情を鮮明に思い出し、声が震えた。
エメは、かすかに息を呑んだ。フィオナの言葉は、彼女の知るレオナール像とはあまりにもかけ離れていた。
「……フィオナ様……それは……きっと……旦那様も、ご自身では気づいていらっしゃらないのかもしれません……」
「何?」
「……いえ……でも、もしかしたら旦那様、ほんとうに“無意識”にそうされてるのかも、しれません……。感情が昂ると、ああいう表情になるのかもしれません」
エメは、レオナールを擁護するように言った。彼女は、彼の「狂気」を信じられなかったのだ。
フィオナは何も言わなかった。エメの言葉は、彼女の心を揺るがすには至らなかった。代わりに、静かにベッドのカーテンを引いた。闇の中で、フィオナは一人、レオナールの本性について深く考え込んだ。
夜。また、扉の向こうから甘い声がした。それは、フィオナの耳には、優しさの裏に潜む「執着」と「支配」の響きとして聞こえていた。
「フィオナ。君がいない夜は、つまらないよ。呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだ。……ねえ、どうして出てきてくれないの? 僕が何か、君を怖がらせてしまったかい?」
「会いたいよ。君の声、君の笑顔、君のぬくもりが恋しいんだ。君の隣にいることが、僕にとっての唯一の幸せなのに」
「僕は、君のためにどれだけでも優しくなれる。君が望むなら、世界の形すら変えてみせるよ。君がこの部屋から出てきてくれるのなら、どんな犠牲も厭わない」
フィオナは、ベッドの中で静かに目を閉じた。彼の言葉が、耳元でこだまする。
(「優しい言葉」が、ここまで怖いなんて思わなかった。彼の優しさは、私を絡めとる鎖のよう。この人が笑うたび、私の中の「恐怖」が、育っていく。でも……)
扉の下から差し入れられた、柔らかなぬいぐるみを見つめながら、フィオナは思った。
(でも――だからこそ、私はまだ逃げない。この恐怖を乗り越えなければ、私は彼に「勝てない」。そして、私を「支配」しようとする彼から、永遠に逃れられない。「勝った」まま、終わるために。彼を完全に「支配」するために。私の「小悪魔」の力が、本当にどこまで通用するのかを試すために)
フィオナの心には、恐怖と、そしてレオナールへの「支配欲」が、複雑に絡み合っていた。この「遊戯」の終着点に何が待っているのか、彼女にはまだ見えていなかった。




