13.血塗られた笑顔と恐怖の萌芽
春の陽が心地よく差し込む昼下がり、レオナールとフィオナは、久々に街へと出かけていた。ひと月ぶりの遠出とあって、フィオナは朝から機嫌が良かった。色とりどりの店が並ぶ大通りは、人々の活気と商品が放つ賑やかさで満ち溢れている。
「見て、レオナール様。あのレースのハンカチ、とっても可愛いですわ。私、こういう繊細な刺繍には目がなくて」
フィオナは、ショーウィンドウに飾られた白いレースのハンカチを指差し、目を輝かせた。
「うん、フィオナに似合いそう。君の純粋な美しさを引き立ててくれるだろう。……全部包んでもらおうか。君が欲しいものは、全て手に入れてあげたいから」
レオナールは、フィオナの言葉に迷うことなく応じ、すぐに店員に声をかけた。彼の言葉には、彼女を甘やかすことを心から楽しんでいるような響きがあった。
「まあ、またそうやって……ふふっ、嬉しいですけど、そんなにたくさんあっても使い切れませんわ」
にこにこと笑い合いながら並んで歩くふたりは、道行く者たちの目を惹きつけていた。濃い赤褐色の髪に琥珀の瞳の美丈夫と、淡いピンクのドレスを身に纏った色白の小柄な令嬢。まるで童話の中から抜け出してきたかのような雰囲気に、誰もが目を細め、ささやき合った。
「本当に仲睦まじいですわね、エスティネルのご夫妻。見ているだけで心が和むわ」
「奥様、病み上がりと聞いたけれど……随分と可愛らしく元気そう。旦那様が献身的に看病したと噂だから、納得だわ」
「旦那様がメロメロなのも無理ないわね。あんなに愛されて、奥様はさぞ幸せでしょう」
周囲のそんな噂を、フィオナはしっかり耳に入れていた。彼女の口元には、満足げな笑みが浮かぶ。
(ふふ、羨ましがられるって気分がいいものですわ。私を甘やかしてくれる旦那様、きっと誰よりも幸せな夫ですわね。私の計画は、順調に進んでいるわ)
手を繋ぎ、買い物袋を持って、立ち寄った菓子店でマカロンを分け合って――まさに絵に描いたような、幸福なひとときだった。フィオナは、レオナールとのこの甘い関係が、自分の思い通りに進んでいることに、確かな手応えを感じていた。彼の「執着」は、彼女の「独占欲」を満たし、彼女を「安全」な場所に置いてくれると信じていたのだ。
帰り道、ふたりは専用の馬車で郊外を抜け、エスティネル城へと戻ろうとしていた。街の喧騒から離れ、馬車の窓の外には、夕陽に染まる森が広がっている。オレンジ色に輝く木々のシルエットが、幻想的な風景を作り出していた。
「今日はとっても楽しかったですわ、レオナール様。街の賑やかさも、あなたと一緒だと、いつもと違って見えました」
フィオナは、レオナールの肩にもたれかかり、心からの感謝を伝えた。
「僕も。君の笑顔がたくさん見られたから、それだけで十分だ。君が楽しんでくれたのなら、僕も嬉しいよ」
レオナールは、フィオナの髪を優しく撫でた。彼の声は、どこまでも甘く、穏やかだった。
「ふふっ、また来週もお買い物デート、お願いしても? 新しいマカロンも食べてみたいし、今度はあの大きな本屋さんにも寄りたいわ」
「もちろん。君が望むなら、毎日だって付き合うよ。君との時間が、僕にとって何よりも大切だから」
柔らかい会話が続く中、突然――。
馬車が激しく揺れ、車体が大きく傾いた。馬のいななきと共に、外から怒声と悲鳴が響く。まるで何かが衝突したかのような衝撃に、フィオナは思わず息を呑んだ。
「……ッ!? なにごと……!?」
フィオナが顔を上げると、レオナールの表情が、一瞬にして硬質なものに変わっていた。その瞳には、普段の甘さも微笑みも消え失せ、冷たい光が宿っている。
「フィオナ、伏せて。今すぐ馬車の床へ! 何があっても、顔を出すな」
レオナールの声は、これまでに聞いたことのない低く鋭いものだった。彼の言葉は、命令そのものであり、一切の反論を許さない響きがあった。
「だ、大丈夫なんですの……?」
フィオナは、突然の事態に混乱し、震える声で尋ねた。彼のあまりの変化に、恐怖が芽生え始めていた。
「僕が戻るまで、絶対に外に出るな。目を閉じて、耳を塞いで、震えててもいい。……僕が帰るまで、耐えてくれ。君は、必ず僕が守るから」
それだけ言い残すと、レオナールは馬車の扉を開け、外へ飛び出していった。彼の背中は、あっという間に闇の中に消えていく。
数秒後、外からは鋭い剣戟の音と、男たちの叫び声が木霊した。それは、ただ事ではない、明確な殺意のこもった音だった。
「いやっ……っ」
フィオナは言われた通りに体を丸め、馬車の床にうずくまる。布張りの座席の陰に身を潜め、両手で耳を塞いだ。しかし、その布越しにも、血生臭い戦闘の音が、はっきりと聞こえてくる。
「うぐっ――ぎゃああっ!!」
「ひ、人間じゃねぇ……っ、こいつ……!」
「逃げ――ぎゃああッ!」
男たちの悲鳴が、次々と響き渡る。足音、剣の振るう音、肉を裂くような、鈍く嫌な音。それらのすべてが、狂気の舞踏曲のように響いていた。フィオナは、その音のあまりの生々しさに、全身が震えるのを止められなかった。
(何が……何が起きてるの……!? レオナール様は、きっと私を守ってくれてる……でも、こんな――こんな恐ろしいことができる人だったなんて……)
呼吸が浅くなり、喉が痛む。視界は揺れ、恐怖が骨の芯にまで染み込んでいく。フィオナの脳裏には、レオナールの笑顔と、そして今聞こえてくる血生臭い音が、交互にフラッシュバックしていた。彼が、こんなにも「恐ろしい」存在であったことを、彼女は初めて知ったのだ。
どれほどの時間が過ぎたのか。フィオナには、それが数分だったのか、それとも永遠にも等しい時間だったのか、判断できなかった。やがて、外が静かになった。剣戟の音も、男たちの悲鳴も、何もかもが止まっている。静寂が、かえってフィオナの恐怖を煽った。
やがて、馬車の扉が、きぃ、と音を立てて開く。その音が、フィオナには、まるで死の宣告のように響いた。
「フィオナ」
その声に、フィオナは恐る恐る顔を上げた。
「もう安心だよ。もう誰もいない。君は無事だ」
レオナールが、扉の向こうに立っていた。夕陽を背負った彼のシルエットは、いつもよりも大きく、そして異様に映った。
――その顔に、返り血を浴びながら。
彼の顔には、まるで絵の具を散らしたかのように、赤黒い血が飛び散っていた。頬を斜めに流れる血が、浅めの褐色の肌の上で鮮やかに染まっている。しかし、その口元には、いつものような、優しい笑みが浮かんでいた。その笑顔と、顔についた血の対比が、フィオナの心を強く揺さぶった。
「もう誰もいない。君は無事だよ、フィオナ。……怖かった?」
血に染まった手を伸ばしてくるその姿に、フィオナの呼吸が止まった。彼女の目は、レオナールの顔についた血と、その明るく優しげな笑顔の間を、行ったり来たりしていた。
(この人――人を殺したのに、笑ってる……。まるで、何でもないことのように……。……おかしい……怖い)
その瞬間、彼女の背筋にぞわりと這い上がるような戦慄が走った。これまで彼の「執着」を「愛」として受け止め、自身の「支配」のために利用してきたフィオナの心に、小さな、だが確かな「恐怖」が芽生えたのだった。レオナールの「狂気」の片鱗を垣間見たフィオナは、これまで築き上げてきた関係の「甘さ」の裏に潜む、深い闇に気づき始めていた。
彼が、愛する者のためなら、どんな「血」も流すことを厭わない、そしてそれに何の躊躇も感じない「サディスティック」一面を持っていることを、フィオナは初めて知ったのだった。




