15.甘やかしの罠
春の陽が差し込む穏やかな朝。エスティネル城の広い寝室で、フィオナは、ふわりとベッドから身を起こした。もう熱は完全に引き、喉の違和感も消えている。昨夜から清々しいほどに体が軽く、すっきりとした目覚めに、白い寝間着の袖をきゅっと握りしめた。
「ふふ……今日からまた、“可愛い私”を再開ですわね」
鏡の前で髪を丁寧に梳きながら、小さく笑う。ブロンドの髪は陽光を受けてきらめき、その顔には、いつもの自信に満ちた笑みが浮かんでいた。ベッド脇には、寝ている間に新しく生けられたピンクのスイートピーが、甘やかな香りを漂わせている。
(レオナール様、相変わらず手が早いこと。私が起きたら、まず目に入るようにと、きっと夜中に準備したのでしょうね)
フィオナは、彼の献身的な「愛」を、すでに手中に収めていると確信していた。あの人は、きっと今日も甘やかすつもりでそばにいる。けれど――今日は、フィオナの方から攻める番だった。
(今度は“私から”仕掛けてみましょう? どこまで私に依存しているのか……。可愛い奥様が、旦那様を甘やかしてあげますわ。彼の「執着」の深さを測る絶好の機会だもの)
フィオナの心には、新たな「遊戯」への期待感が募っていた。
朝食の席に現れたフィオナは、淡いピンクのワンピースドレスに身を包み、頬にはほんのりと血色が戻っていた。その姿は、まるで病み上がりとは思えないほどに生気にあふれ、いつもの「あざと可愛さ」が全開だ。
「おはよう、レオナール様」
フィオナがにこやかに挨拶すると、レオナールは驚いたように顔を上げた。彼の琥珀の瞳には、まだ心配の色が残っている。
「おはよう、フィオナ。もう大丈夫? まだ顔色が優れないように見えるけれど、無理はしていないかい?」
レオナールは、椅子から立ち上がり、フィオナの額に手を伸ばそうとした。
「ええ、おかげさまで。もうピンピンしてますわ。……あら? そんな心配そうな顔、私にだけ見せてくれるの? まるで、私がいなければ世界が終わるかのような……」
フィオナが小首を傾げて微笑むと、レオナールはすぐに顔をほころばせた。彼の表情は、フィオナの言葉一つで、いとも簡単に変化する。
「君にしか見せないよ。君が苦しんでいる姿は、僕にとって何よりも辛いんだから。……本当に良かった。もう少し熱が続いてたら、僕の方が寝込んでたかもしれない」
レオナールは、フィオナの手を優しく握りしめた。その声には、安堵と、フィオナへの深い愛情が滲み出ていた。
「ふふっ、レオナール様ったら。そんなに私に弱いんですの? 私がいなければ、本当に何もできないみたいね」
フィオナは、紅茶を口にしながら、しれっと切り出した。彼女は、レオナールの言葉を、自分が彼を「支配」している証拠だと捉えていた。
「今日は一日、私が旦那様のお世話をしますの。体調が万全に戻った奥様が、旦那様を甘やかして差し上げる計画ですわ。甘えたいときは遠慮なく言ってくださいね? どんなことでも、奥様が叶えて差し上げますから」
フィオナの言葉に、レオナールは目を丸くした。彼の顔には、驚きと、そして純粋な戸惑いが浮かんでいる。
「……え? 君が僕を甘やかす……? いつもは僕が君を甘やかす側なのに」
「異議は?」
フィオナが、悪戯っぽく問いかける。その瞳には、すでに「勝利」の確信が宿っていた。
「異議なんてあるわけないよ。……そんなの、嬉しいに決まってるじゃないか。君に甘やかされるなんて、夢にも思わなかったから」
レオナールの声は、喜びで弾んでいた。彼は、フィオナの提案を、何の疑いもなく受け入れた。
午前の執務中、レオナールの隣にはぴったりとフィオナが座っていた。普段はセシルが座る位置だ。彼女は、書類を運んだり、ペンを拾ったりと、甲斐甲斐しくレオナールの手伝いをするふりをしていた。しかし、その行動の全ては、彼の注意を自分に引きつけ、彼の「依存」を深めるための策略だった。
「書類、お持ちしましょうか? ふふっ、旦那様が“お疲れ顔”してたので、奥様がサポートして差し上げます。無理は禁物ですわよ?」
フィオナは、レオナールの頬にそっと触れ、甘い声で囁いた。
「ありがとう。……ねえ、もしかして甘やかし過ぎじゃない? こんなに甘やかされたら、僕がダメになってしまうんじゃないかと心配になるよ」
レオナールは、そう言いながらも、その表情は心底嬉しそうだった。
「甘やかされるのも、悪くないでしょう? 私に甘やかされるのは、特別なのよ?」
フィオナは、彼の言葉を肯定するように微笑んだ。
「うん、確かに。……甘えられるのもいいけど、甘えるのも悪くないね。むしろ、こんなに心地よいものだとは思わなかった」
その言葉に、フィオナはぴくりと反応する。レオナールが、珍しく「委ねる側」に回っている――その姿に、彼女の胸が高鳴った。彼の言葉は、フィオナの策略が、着実に成功していることを示していた。
(……この人、やっぱり私にすごく依存してる。私の甘やかしが、彼にとってこんなにも心地よいものだなんて。“甘やかされるのが気持ちいい”って、すっかり刷り込まれてるわね。これなら、私の思うがままだわ)
ぞくり。心の奥が、くすぐられるような快感で満たされていく。それは、彼を「支配」しているという、確かな手応えだった。
「レオナール様、目を閉じてください」
フィオナは、悪戯っぽい声で命じた。
「……目?」
レオナールは、少し戸惑いながらも、素直に瞼を閉じた。彼の瞳が閉じられると、フィオナは椅子に立ち上がり、そっとその額に口付けを落とした。
「……ご褒美ですわ。今日も頑張ってる旦那様へ。奥様からの特別な愛情表現よ」
「……うん、これは、たまらないな。君のキスは、どんな疲労も吹き飛ばしてくれる」
頬を染めて微笑むレオナールに、フィオナは満足そうに目を細めた。彼の額に触れた唇の感触が、フィオナの心をさらに満たす。
(ふふっ、チョロい。どんどん、私なしじゃ無理になっていく。私の甘さに、どんどん溺れていくのね)
午後、軽食の時間。執務室とは別の、より広々としたサロンで、二人は向き合っていた。
「レオナール様、お膝枕して差し上げましょうか? 疲れたでしょう、少し休んでくださいな」
フィオナは、ソファを指差して、優しく誘った。
「いいの? フィオナの膝、僕の頭で重くならない? 君の可愛らしい膝に、こんな大きな頭を乗せるのは気が引けるな」
レオナールは、まだ遠慮しているようだった。
「ちょっとくらい重くても、愛ですわ。レオナール様への私の愛の重さ、ですもの。さ、どうぞ」
言われるままに、彼はソファに寝転び、彼女の膝に頭を乗せた。フィオナの膝は、思ったよりも柔らかく、心地よい温かさがあった。上から覗き込むフィオナの顔は、優しく、そして確信に満ちている。
「ほら、撫でてあげます。……よしよし、よしよし。いい子ね、私の可愛い旦那様」
フィオナは、まるで子供をあやすかのように、レオナールの髪を優しく撫でた。
「……君、子どもをあやすような声だね。僕、そんなに幼く見えるかい?」
レオナールが笑いながら目を閉じると、フィオナはそっと指を髪に滑らせた。彼の髪は、柔らかく、指に心地よい感触を残した。
(今、私の声と手がないと落ち着かないんでしょう? いいのよ。もっと、もっと“私”に染まって。私の甘さに、深く、深く沈んでいけばいい)
フィオナの心は、彼を完全に手中に収めているという喜びで満たされていた。彼女は、レオナールの「依存」を、自分の「勝利」だと考えていた。
夜。ふたりの寝室。ベッドサイドには、キャンドルの淡い光が揺れ、部屋全体を幻想的な雰囲気に包んでいた。
「レオナール様。今日一日、どうでした? 奥様のお世話は、ご満足いただけましたか?」
フィオナは、レオナールを胸に抱いたまま、優しく問いかけた。
「……最高だったよ、フィオナ。君が僕を甘やかしてくれるなんて、こんなに幸福なことはない。君がそばにいるだけで、全部どうでもよくなる。仕事も、過去も、未来も……君だけがいればいい」
レオナールは、フィオナの髪に顔を埋め、静かに笑う。その声には、深い満足と、そしてどこか危険な響きが混じり合っていた。
「まぁ……そんな風に言ってもらえるなんて、光栄ですわね。あなたの全てを、私が独占している気分ですわ」
フィオナは微笑む。しかしその目の奥では、きらりと光るものがあった。彼女の心は、レオナールの言葉によって、さらなる「支配」への欲求を掻き立てられていた。
(「全部どうでもいい」って。……そのうち、私がいなくなることさえ、怖くなるわよ。そこまで来たら、ようやく“完全勝利”ね。あなたはもう、私なしでは生きていけない「私のもの」になる)
フィオナは、レオナールの依存が深まるほど、自分の「安全」が保証されると信じていた。彼の「狂気」が、自分に向かうことのないように。
「フィオナ」
「はい?」
「もうちょっとだけ、甘えてもいい? 君の温かい腕の中で、ずっと眠っていたいんだ」
「ええ。今夜はずっと、甘え放題ですわよ。……私の可愛い旦那様。さあ、私に身を委ねて?」
その言葉に、レオナールは満足そうに目を細め、彼女の髪に指を絡める。彼の顔には、心からの幸福が浮かんでいた。
その姿は、まるでとろけそうに幸福で――それを見つめるフィオナの胸に、またひとつ、熱が走った。ぞくり、と。
(もっと欲しがって。もっと私だけを見て。私がいなくちゃ、生きていけないくらいに、私に執着して。そうすれば、あなたは完全に私のものになる)
フィオナの「甘やかし」は、レオナールの心を深く浸食していく。しかし、どちらが真に相手を「支配」しているのか、この時点ではまだ分からなかった。この甘美な「遊戯」の結末は、まだ誰にも予測できなかった。




