11.過去の亡霊
春風が和らぐ穏やかな午後。フィオナが体調を崩して三日目。熱も下がり、元気を取り戻しつつあるが、彼女が寝室で静養する間、エスティネル城には微妙な緊張が漂っていた。城全体が、いつもとは異なる重い空気に包まれているかのようだった。
――とくに、古くから屋敷に仕える使用人たちの間で。彼らは、レオナール辺境伯の過去を知る数少ない者たちだった。
「レオナール様。少し、よろしいでしょうか」
そう声をかけたのは、セシルではなく、珍しく副官のユルゲンだった。彼は、レオナールが執務室で書類を捌いている最中にもかかわらず、その場に現れた。無骨で無表情、普段は何事にも動じない彼が、今は真剣な眼差しでレオナールを見つめている。彼の顔には、普段の冷静さからは想像できないほどの、深い憂いが刻まれていた。
「……なんだい、ユルゲン? まだ政務で何か問題でもあったかい?」
レオナールは柔らかく微笑む。その笑顔には、いつもと変わらぬ「余裕」と「甘さ」が宿っていた。彼の琥珀の瞳は、まるで何事も起こっていないかのように穏やかだ。
「旦那様、俺たちは……」
ユルゲンが言いかけたところで、今度はキッチンから料理長マルコが、廊下からは庭師のルイスが、そしてメイド頭のカミラまでもが並んでやってきた。彼らは皆、古くからエスティネル家に仕え、レオナールの成長を見守ってきた者たちだ。その顔には、一様に厳しい表情が浮かんでいた。
「……旦那様。あの過ちは……もう二度と繰り返してはなりません」
カミラが言ったその言葉に、皆の視線が一斉にレオナールへ向く。その視線には、懇願と、そしてかすかな恐怖が混じり合っていた。彼らは、過去の「過ち」が繰り返されることを、心底恐れていたのだ。
レオナールは、その言葉にも動じることなく、微笑んだままだった。しかし、彼の瞳の奥には、一瞬、理解と、そして諦めのような感情が過った。
「……君たち、もしかして心配してくれてるの? 僕がまた、フィオナに夢中になりすぎてしまうんじゃないかって?」
レオナールの言葉は、あくまで優しかった。しかし、その問いかけは、彼が使用人たちの心を完璧に読み取っていることを示していた。
「当然です。フィオナ様がどれほど大切な存在であるか、私たちにはよく分かります。だからこそ、お願い申し上げます」
ユルゲンが、感情を抑えた声で答える。
「フィオナ様は、まだ何も知らない。だからこそ、気をつけていただきたいのです。あの頃のように、旦那様がご自身の感情に囚われて、全てを破滅させてしまうようなことだけは……」
マルコが、絞り出すように言った。彼の声は、過去の記憶に震えているようだった。
「ええ。あの頃の旦那様を、私はもう見たくありません。あの恐ろしい夜を……」
ルイスは、顔を青ざめさせながら、小さく呟いた。彼の言葉は、過去の出来事が、彼らの心に深く刻み込まれていることを示していた。
「……お願いです、レオナール様」
カミラの声は、淡々としていたが、どこか震えていた。彼女は、レオナールの最も近くに仕える者として、彼の「本性」を誰よりも深く知っていた。そして、その「本性」が、再び愛しい者を「壊す」のではないかと、心底恐れていたのだ。
レオナールは目を伏せ、窓の外――中庭に咲く白い花々を見つめる。春の陽光を受けて、花びらがキラキラと輝いている。その輝きは、彼の心の内にある闇とは対照的だった。そして、ふと目を細めた。その表情は、普段の甘く柔らかな笑みとは異なり、どこか冷徹で、そして全てを見透かしているかのようだった。
「……わかってるよ。……“今は”ね」
彼の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。その「今は」という言葉には、彼の心の奥底に潜む、ある種の諦めと、そして抑えきれない「衝動」が示唆されていた。
日が傾きかけた頃、彼はひとり執務室に戻り、窓辺に立った。夕日が差し込み、部屋の中をオレンジ色に染めていく。レオナールは、デスクに置かれた冷たい紅茶を口にしながら、ゆっくりと記憶の扉を開く――。
――5年前。
彼女の名前はイレーヌ・モントレイユ。真紅の瞳と青銀色の髪。物静かで、どこか影のある、神秘的で綺麗な令嬢だった。王都で「氷の姫君」と称され、その美しさは多くの貴族たちの憧れの的だった。レオナールは、彼女のその「壊れやすさ」に、初めから興味を抱いていた。
「あなたといると、息が詰まるの。私の全てが、あなたに吸い取られていくようで……」
そう言って、彼女は何度もレオナールから逃げようとした。離縁を申し出たり、城から姿を消したりと、様々な手段で彼から逃れようとした。けれど――。
「いいよ、逃げても。どこへ行こうと、必ず見つけて、連れ戻してあげるから。君は僕のものだ、イレーヌ」
レオナールは、優しく、丁寧に、そして情熱的に、イレーヌを愛し続けた。どんな不安も、どんな拒絶も、全て抱きしめて壊すように。彼は、イレーヌの心の脆さを熟知しており、その脆弱性を巧みに利用した。彼の愛情は、まるで毒のように、ゆっくりとイレーヌの心を蝕んでいったのだ。
気づけば、イレーヌの目から光が失われていた。彼女は、もはや抵抗することをやめ、ただ虚ろな瞳でレオナールを見つめるだけの存在となっていた。彼女の心は、完全にレオナールの「執着」によって破壊されていた。
最後に彼女が囁いたのは、ほとんど聞き取れないほどの声だった。
「どうして……殺さなかったの? こんな風に、何も感じない人形にするくらいなら……」
その問いに、レオナールは笑った。彼の笑顔は、どこまでも優しく、そして同時に、恐ろしいほどに冷酷だった。
「壊れる寸前の君が……いちばん、綺麗だったからだよ。完璧に壊してしまうのは、つまらないだろう? 君のその絶望に染まった瞳が、僕をこんなにも満たしてくれたんだから」
彼の言葉は、イレーヌの魂を完全に粉砕した。彼女は、レオナールの「愛」が、自分を「破壊」するための手段でしかなかったことを、その瞬間に悟ったのだ。
過去の残像が消える。レオナールは、冷たい紅茶を一気に飲み干した。その顔には、過去の記憶に対する後悔の色は微塵もなく、ただ、過去を振り返るような、どこか懐かしむような表情が浮かんでいた。
今、彼の目の前には、また新たな「可愛いもの」がある。フィオナ。小さくて、賢くて、愛らしくて。嘘をつくのが上手で、上目遣いで甘えて、掌の上で転がしているつもりで――。
(でもね、うさぎちゃん。僕が転がされてると思ってるその笑顔が、一番そそるんだ。壊れそうで壊れない、絶妙なバランス。イレーヌの最後と似てる。……だけど、まだ“あそこ”には届かない。……うさぎちゃんは、どこまでいくのかな? 君は、イレーヌのように簡単に壊れてしまわない。それが、僕をこんなにも惹きつける理由なんだ)
レオナールの頬が、柔らかくほころぶ。彼の瞳の奥には、フィオナへの深く、そして危険な「執着」が揺らめいていた。彼にとって「甘える女」は、愛すべき存在であり、「壊れる寸前」こそ、最も美しい花なのだ。
彼は、フィオナがヴァイオレットやイレーヌとは違うことを知っていた。彼女は、彼の「甘さ」を利用し、彼を「支配」しようとしている。そのゲームのような駆け引きこそが、レオナールを魅了してやまなかった。
夜、フィオナが目を覚ますと、ベッドの傍らに彼がいた。部屋の明かりは落とされ、月明かりだけが、レオナールの顔を淡く照らしていた。
「……レオナール様?」
フィオナは、まだ熱が残る体で、か細い声で呼びかけた。
「起こしちゃった? ごめんね。君の寝顔を見ていたら、つい見惚れてしまって……」
レオナールは、フィオナの髪を優しく撫でた。
「いいえ……そばにいてくださって……うれしいです」
眠気混じりに、フィオナは微笑む。彼の存在が、彼女の心を安らぎで満たした。
「フィオナ」
「はい……?」
レオナールは、その頬にそっと口付けた。続けて唇にも、額にも、まるで確かめるように。彼のキスは、優しく、そして深い愛情を含んでいた。そして、彼女の耳元に囁く。その声は、甘く、そしてまるで呪文のようだった。
「……君しか要らないよ、フィオナ。君の全てが、僕の生きる意味だ。君なしでは、僕は何も感じられない」
フィオナは、その言葉を熱の残る耳で聞きながら、また深く眠っていった。彼の声は、彼女の心に安らぎを与え、深い眠りへと誘った。
――その瞼の裏に、彼の「微笑みの深さ」までは、まだ映っていない。彼の「愛」と「執着」の裏側に潜む「狂気」の淵を、フィオナはまだ知らなかった。しかし、その「狂気」こそが、彼女を真に「支配」しようとするレオナールの本性だった。




