10.病に揺れる執着、甘い献身
春風が和らぐ穏やかな午後、エスティネル城に異変が起きた。いつもの活気ある喧騒が影を潜め、城全体がどこか静まり返った雰囲気に包まれている。――フィオナが、体調を崩したのだ。
「熱は……三八度五分。咳はそれほどでもないが、鼻声だな」
執務室で書類と格闘していたレオナールは、報告に来た侍女エメの言葉を聞くなり、椅子を蹴るようにして勢いよく立ち上がった。彼の表情は、一瞬にして凍りつき、普段の穏やかな笑みは消え失せていた。
「執務、全部キャンセル。セシル、あとは任せた。緊急の要件以外は、全て明日に回せ」
レオナールの声には、一切の躊躇がなかった。彼にとって、フィオナの体調不良は、政務の何よりも優先されるべき「緊急事態」だった。
「……慣れてますのでどうぞ」
政務官セシルは、深く息をつき、黙って頷いた。彼の顔には、呆れと、しかしどこか諦めにも似た表情が浮かんでいた。レオナールがフィオナに深く傾倒していることは、城の使用人たちの間では周知の事実となっていた。そして、フィオナが少しでも体調を崩せば、レオナールが全ての仕事を投げ出して駆けつけることも、既に「日常」と化していた。
それからほんの数分後――。
「フィオナ、来たよ。大丈夫?」
彼女の寝室の扉が、勢いよく開かれた。その声には、焦燥と、深い心配の色が滲んでいる。レオナールは、既に部屋の中に駆け込んでいた。
「……レオナール様……?」
額に冷えたタオルをのせ、寝台に伏せるフィオナが、重たい瞼をゆっくりと開け、目を細める。彼女の呼吸は浅く、普段の生き生きとした輝きは影を潜めていた。その姿は、まるで雫を帯びた小動物のように儚く、色白の肌はほんのり上気して、微熱に浮かされていることがわかる。
「ごめんね、苦しいよね。すぐに楽にしてあげる。どこが辛いんだい? 喉かな? 頭が痛い?」
レオナールはベッド脇の椅子に腰掛けるなり、彼女の手をそっと握った。その手は、冷や汗で少し湿っていた。彼の瞳には、フィオナの苦しみに心を痛める、純粋な悲しみが浮かんでいる。フィオナは、その様子を、朧げな意識の中で見上げた。
「……レオナール様、私……ちょっと風邪ひいただけですのに……こんなに心配してくださるなんて……」
鼻声で、か細い声が漏れる。しかし、その瞳の奥には、どこか満足げな光が宿っていた。
「うん。でも君が苦しいなら、それだけで僕も苦しいんだよ。君が少しでも辛いと、僕の心臓が締め付けられるように感じるんだ」
レオナールは、フィオナの手を両手で包み込み、その頬にそっと押し当てた。彼の瞳は、フィオナの顔を離れることなく見つめている。
「ふふ……やっぱりチョロいですわ……どこまでも、私のことばかり……」
鼻声のまま、フィオナはほつれるように微笑んだ。その顔には、微熱による赤みが差しているが、それでも彼女は、この状況を最大限に利用しようとしていた。
(これだから、愛されるのはやめられないのよね。病気になるだけで、こんなにも優しくされるなんて……。ほんとうに、手のひらの上で転がしがいがある人。私がいなければ、何もできないってくらいに、もっと私に溺れてしまえばいい)
フィオナは、微熱に浮かされながらも、心の中で小さく笑っていた。彼女の「小悪魔」の本能は、体調が悪い時ですら、レオナールを操るための機会を逃さなかった。
その日、レオナールは一歩も部屋を離れなかった。彼の献身ぶりは、城の使用人たちを驚かせた。通常、貴族の夫が妻の看病を直接行うことは稀であり、全て侍女や医者に任せるのが一般的だ。しかし、レオナールは違った。
フィオナの額を拭き、蜂蜜入りの白湯を飲ませ、枕の位置を直し、薄い毛布の角を整え、指先まで冷たくないか何度も確かめた。彼の動きは、細やかで、そしてどこか慣れているようだった。その顔には、一瞬の疲れも見せず、ただひたすらにフィオナの安寧を願う、純粋な愛情が満ちていた。
「フィオナ、汗かいてきたね。そろそろ着替えようか。体が冷えてしまう」
レオナールが、フィオナの服に手を伸ばそうとすると、フィオナは慌ててそれを止めた。
「だ、大丈夫ですわよ……エメを呼んで……そんな、レオナール様に……」
顔を赤らめ、目を泳がせるフィオナ。彼女にとって、夫とはいえ、着替えを手伝われるのは羞恥以外の何物でもなかった。
「いいよ。君のことは、僕が全部するから。エメを呼んだら、僕の役目がなくなってしまうだろう?」
レオナールは、フィオナの言葉を遮るように、しかし優しい声で言った。彼の瞳には、フィオナを独占したいという、隠しきれない独占欲が宿っていた。
「れ、レオナール様っ……そ、それはちょっと――」
フィオナは、半ば悲鳴のような声を上げた。彼の優しさが、同時に「重さ」となってフィオナにのしかかる。
「着替えさせるのも拭くのも僕の喜びだからね。君の柔らかな肌に触れられるなら、それだけで僕は満たされる。どうか、僕に君の全てを預けてほしい」
レオナールは気にする様子もなく、微笑を浮かべ続ける。その言葉には、フィオナへの深い執着が明確に現れていた。彼は、フィオナが自分に「頼る」ことを、心から望んでいたのだ。
「……うう……どこまでもチョロくて、重いですわ……でも、それがいい……」
フィオナは、抵抗する気力もなく、彼のなすがままになった。微熱に浮かされながらも、彼女は、この状況が自身の「愛され作戦」にとって、いかに有利であるかを冷静に判断していた。
(ほんとうにチョロい。どこまでいっても私に夢中で、ちょっと調子が悪いだけでこれ……。こんなに甘やかされて、依存されて、私はきっと最強のお嫁さんですわね。こんなに私を求めてくれるなら、どんな彼の狂気も受け止められる)
フィオナは、微熱に浮かされながらも、心の中で小さく笑っていた。彼女は、レオナールの「重さ」を、愛情の証として受け止めていた。それは、彼女の「独占欲」と、レオナールの「執着」が、奇妙な形で共鳴しているかのようだった。
夕刻。薬のせいもあり、フィオナは深い眠りに落ちていた。彼女の呼吸は穏やかで、熱も少し下がったようだった。
その寝息が、規則的になっていくのを確認してから、レオナールは静かに顔を近づける。彼の瞳は、眠るフィオナを、まるで世界で最も貴重な宝物であるかのように見つめていた。
白く柔らかな頬、伏せられた長い睫毛、ほんのり赤く熱を帯びた唇――それらを、壊れ物に触れるように、しかし貪るように見つめながら。
「……可愛い」
ぽつりと漏れた声には、感情が詰まっていた。それは、愛おしさ、所有欲、そして隠しきれない狂気が混じり合った、複雑な感情の表れだった。
そのまま、フィオナの額に、頬に、そっと唇で触れる。彼のキスは、優しく、しかし確かな熱を帯びていた。
そして最後に、柔らかな唇に――短く、淡く、静かに口付けた。それは、まるで彼の心臓の音を吸い取るかのような、深い口付けだった。
「……君しか要らない」
熱にうなされながらも、フィオナは気づかない。彼がその言葉を、どれほど「本気」で呟いたのかを。彼の「君しか要らない」という言葉は、フィオナの存在が、彼の世界を構成する唯一の要素であることを意味していた。それは、彼女への限りない愛情であると同時に、彼女を永遠に手放さないという、恐ろしいまでの「所有欲」の表れでもあった。
愛らしい妻を見つめるその目には、熱と甘さと、そしてほんのわずかな、しかし深い狂気が、静かに揺れていた。彼の「執着」は、フィオナが病に臥せったことで、さらにその深さを増していたのだ。
翌朝。目覚めたフィオナの枕元には、たくさんの花束と、一通の手書きの手紙が置かれていた。花は、彼女が好きな薄紅のバラと、純白のユリ。その手紙は、レオナールの几帳面な筆跡で綴られていた。
『フィオナへ。
君がいない夜は、呼吸の仕方すら分からないほどに苦しい。君が眠っている間も、僕は君のことが頭から離れなかった。早く元気になって、僕を困らせてほしい。そして、また僕を甘やかしてほしい。君の甘い笑顔が、僕の生きる糧だ。
――レオナールより、心からの愛を込めて』
「……やっぱり重い。こんな手紙まで用意するなんて……」
そう呟いた彼女は、手紙を胸元にしまってにっこり微笑んだ。彼女の顔色は、昨日よりもずっと良くなっていた。
(でも、それがいいのよ。これくらい重い方が、私だけを見てくれるもの)
フィオナは、レオナールの「重さ」を、彼の愛情の証として受け止めていた。そして、その「重さ」が、彼女の望む「独占」を保証するものであると信じていた。彼女の「小悪魔」としての本能は、レオナールの狂気すらも、自身の支配下に置けるものだと確信していた。この甘い関係の先にあるものが、どのような結末を迎えるのか、フィオナはまだ知る由もなかった。




