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01.小悪魔の遊戯


 春まだ浅い王都。早朝の澄み切った空気が、白亜の離宮を清らかに包み込んでいた。庭園の桜の蕾は、陽光を浴びてほんのりと色づき始め、やがて来る満開の時を告げている。その光降り注ぐ一角で、フィオナ・シャルメリーズは「次期エスティネル辺境伯夫人」として、婚約調印式を迎えるべく準備を整えていた。


「フィオナ様、こちらの髪飾りは……」


 侍女のエメ・セラフィーナが、緊張した面持ちで幾つもの煌びやかな髪飾りを差し出す。フィオナは鏡に映る自分を見つめ、優雅に微笑んだ。ふわふわとしたミルキーピンクの長い髪は、生まれつきの柔らかな巻き髪で、毛先は陽の光を浴びて淡い白金に輝いている。小柄で色白な肌に、桜色のグラスアイのような瞳が、光の加減でほんのり赤みを帯びていた。


「そうね、今日は少し華やかにしましょうか。この真珠のティアラをお願い、エメ」


 フィオナが指差したのは、控えめながらも上品な輝きを放つティアラだった。エメは心得たようにそれを受け取り、フィオナの頭上にそっと乗せる。


「……フィオナ様は、何を召されても本当にお美しくなられます」


 エメの言葉は、偽りのない心からの称賛だった。黒髪のボブヘアにグリーンの瞳を持つ彼女は、フィオナより背が高く、その表情は常にフィオナを案じる母のようであった。


「ありがとう、エメ。でも、ちゃんと笑って?  今日は私の記念日なのよ」


 フィオナは鏡越しに、少し引きつったエメの頬を指でつついた。エメははにかんだように頷く。


「はい、フィオナ様。ですが……本当に良いのですか?  東部の、あの、辺境伯閣下と……」


 エメの視線には、明らかな不安が宿っていた。レオナール・エスティネル辺境伯に関する噂は、王都でも囁かれていた。冷酷無比な軍人、戦場で培われた獰猛な性格、そして過去には「愛する女性を精神的に壊した」という忌まわしい逸話も。


「ふふ。噂の“東の獅子”様?  私、まだ一言も交わしてないけれど……」


 フィオナの頬が、うっすらと紅に染まった。それは決して、世間一般の令嬢が抱くような恥じらいからではない。彼女の胸中でうごめくのは、得体の知れない獲物に対する、純粋な好奇心と狩人の本能だった。


(ねえ、どんな獣なのかしら。本当に手懐けられない猛獣なのか、それとも、骨のありそうな相手なのか――)


 小さな唇が、艶やかに笑みを描く。表向きには、儚げで可憐な伯爵令嬢。だが、内面は「愛され方」を熟知した、したたかな小悪魔。その瞳の奥には、これから始まる「人生最大の遊戯」への期待が、妖しくきらめいていた。




 調印式の場に、彼は遅れて現れた。レオナール・エスティネル。25歳。東部辺境を治める軍閥貴族。帝国との国境を守る防壁のような存在。その名を聞けば、誰もが厳めしい表情を想像するだろう。王都に滞在している間も、彼の評判は変わらなかった。質実剛健で、生真面目。おそらく、無骨な軍服を身につけ、感情の読めない顔で現れるに違いない。フィオナはそんな想像をしていた。


 ……の、はずだった。


「ははっ、お待たせ!  すまない、途中で馬が暴れてな……花を買って戻ったら、侍女たちに笑われてしまったよ!」


 朗らかな声が、王都の貴族たちが集う厳粛な謁見の間を震わせた。そこに現れた男の姿に、フィオナはぽかんと口を開けた。


 予想していた硬い表情とはかけ離れた、豪快な笑み。濃い金色の無造作な短髪は、陽光の下では輝いているように見える。琥珀の瞳は笑っていても、その奥には獣のような鋭さを湛えているが、その場にいる誰一人として、その危険な光に気づく者はいなかった。浅めの褐色の肌と、鍛え抜かれた引き締まった体躯。深紅の軍服のまま、片手には桜の花束を抱え、もう片方の手には――フィオナの名前が彫られた招待状の写しを握っている。


 周囲の貴族たちは、遅れてきた上にこの騒がしさに眉をひそめたが、レオナールは一切気にする様子もなく、まっすぐにフィオナの元へと歩み寄った。その一歩一歩が、大地を踏みしめるように力強い。


「フィオナ・シャルメリーズ嬢だね?  やっと会えた。レオナール・エスティネル、今日から君の旦那様だ」


 屈託のない笑顔と共に、さらりと差し出された大きな手。その気さくさは、王族も貴族も戸惑うほどで、周囲は静まり返った。フィオナは一拍遅れて、ゆるりと笑う。その笑みは、可憐な令嬢のそれでありながら、僅かに驚きと好奇の色を帯びていた。


「……ええ、光栄ですわ。レオナール様」


 差し出された手に、自分の小さな手を重ねる。指先が触れた瞬間、花の香りと、彼の体温がふわりと伝わってきた。それはまるで、春の陽だまりの中に飛び込んだかのような――柔らかく、温かく、油断させる笑み。


(……えっ、何この人……ちょろくない……?)


 フィオナの計算が、大きく狂い始めた。彼女の持つ「小悪魔」のスキルは、相手の隙を突き、手のひらで転がすことで発揮される。しかし、目の前の男は、あまりにも隙だらけに見えた。それは、計算し尽くされた罠か、あるいは、ただの無自覚な天然か。


 (でも、その笑顔の奥、まだ見せてないものがありそう)


 琥珀の瞳の奥に、一瞬見えた鋭い光。それは、まるで獲物を捉える獣の輝きだった。小さく、フィオナの唇がほころぶ。


 (ふふっ、これは遊び甲斐がありそうね)




 婚約調印はスムーズに進み、国王の祝福を受けたふたりは、同日中に簡易ながら挙式を済ませた。王都での結婚式は、通常であれば半年から一年かけて準備されるものだ。しかし、東部の国境は常に緊迫しており、辺境伯が王都に長く滞在することは許されない。これもまた、東部辺境伯との婚約が「面倒」と敬遠される理由の一つだった。


 飾り気の少ない儀式だったが、レオナールの朗らかで堂々とした態度は列席者を安心させ、フィオナの可憐な微笑は皆の目を引いた。彼女は自身の魅力を最大限に引き出し、周囲の貴族たちが抱く、レオナールへの警戒心を和らげるように振る舞った。二人の姿は、まるで絵画のように美しく、誰もが「これは幸福な結婚となるだろう」と信じた。


 式の後、ふたりはすぐに東部への旅に出た。王都からおよそ二週間。馬車に揺られ、道中はレオナールとの他愛のない会話が続いた。彼は政治の話は一切せず、辺境の自然や人々について、楽しげに語った。その飾らない言葉遣いと、時折見せる無邪気な笑顔に、フィオナは内心で舌を巻いた。


 (本当に、この人が“東の獅子”……?  私の調べた情報と、全く違うじゃない。もしかして、わざと私を油断させているのかしら?)


 警戒と興味が入り混じった目で、フィオナはレオナールを見つめた。しかし、彼がその視線に気づくことはなかった。あるいは、気づかぬふりをしているのかもしれない。


 旅路の途中、フィオナはエメがいつもより口数が少ないことに気づいた。


「エメ、どうしたの?  少し顔色が悪いわよ」


 エメは俯きがちに答えた。


「いえ……わたくし、あの、馬車に弱くて……」


 エメは何か思うところがあるらしく、俯きながらも、レオナールとフィオナの会話を耳で拾っている。そんなこととはつゆ知らず、フィオナはエメに微笑んだ。


「ごめんね、エメ。もう少しの辛抱よ」


 フィオナは優しくエメの手に触れた。エメはフィオナの「小悪魔」な一面も知っている。だが、そんなフィオナが、レオナールによって傷つけられることを何よりも恐れているのだ。




 そして、ついに東部辺境伯領、エスティネルの城館が見えたとき、エメは絶句した。


「……お、思っていたより……すごいですわね」


 彼女が想像していたのは、王都の貴族の館のような、優雅で美しい城だった。しかし、目の前にそびえ立つのは、まるで戦いのために築かれたような、巨大な石造りの城だった。分厚い壁、無骨な石積み、高くそびえる塔は、まさに「防壁」そのもの。その威容は、辺境伯領が常に戦の危機に晒されていることを物語っていた。しかし、同時に、その周囲には手入れの行き届いた庭が広がり、色とりどりの花々が咲き誇っていた。荒々しさの中に、確かに人の温かさが宿っている。


 レオナールは馬車から降りると、慣れた手つきでフィオナの馬車の扉を開けた。陽光を受けた琥珀色の瞳がまっすぐにフィオナを見つめる。


「ようこそ、エスティネルへ。フィオナ」


 その声には、故郷へと帰ってきた男の喜びと、大切な者を迎え入れたことへの満足感が滲んでいた。


「まずは城をご案内しよう。荷物はすぐに執事が運ぶ。あ、それから紹介も兼ねて、皆を集めてあるんだ」


 レオナールが朗らかに笑うと、フィオナは「まあ」と唇を丸くした。


 (ちゃんと“花嫁迎え入れモード”じゃない。意外と律儀なのね)


 彼の態度からは、過去の悪評を裏付けるような冷酷さは微塵も感じられない。むしろ、王都で出会ったどの貴族よりも、人懐っこく、気配りができる男に見えた。それは、フィオナの「小悪魔」の本能を刺激する。


 そのまま、大広間へ通されると、すでに使用人たちが整列していた。その数は百を超え、エスティネル辺境伯家の規模を物語っていた。彼らの視線が、一斉にフィオナに注がれる。好奇心、期待、そして、わずかな警戒心。フィオナは、そのすべてを受け止めるように、優雅に微笑んだ。レオナールが彼ら一人ひとりを、愛着を込めて紹介していく。


「まず、副官のユルゲン。俺が戦場に出るときの右腕だ」


 短く刈り上げられた銀髪にグレイの瞳を持つ長身の男が、無表情に一礼する。片眼鏡をかけた顔は、感情を一切表に出さない。


「ユルゲン・ヴェスタと申します。以後、御身を守ることが主の命ですので、どうぞご遠慮なく」


 淡々とした言葉の中に、揺るぎない忠誠心を感じさせる。無自覚にモテるというのも頷ける、一種のクールな魅力があった。


「こっちは政務官のセシル。書類と交渉の鬼だ」


 赤毛にグレイの瞳、整った顔立ちの優男風の青年が、にこやかに微笑んだ。


「レディに鬼とは……レオナール様、表現が雑です。セシル・ロシュと申します。奥方には知性が似合いますね」


 優雅に片膝をつき、フィオナの手を取り、恭しく甲に口付けを落とす。その丁寧で柔和な態度の奥に、何か底知れない策略家の顔を覗かせているようにも見えた。フィオナは一瞬、彼の瞳の奥に探るような光を感じたが、すぐにそれは消えた。続いて、使用人たちの紹介が続いた。


「料理長のマルコは、君の胃袋を掴みにかかるはずだ。覚悟して」


 でっぷり体型の口髭おじさんが、人懐っこく笑う。


「奥方様にぴったりの苺ムース、研究済みでございます!  明日の朝食にはぜひ!」


 陽気でおしゃべりな職人といった風情で、早くもフィオナの食欲を刺激する言葉を投げかける。


「メイド頭のカミラは、俺より怖いぞ」


 長い髪をまとめており、眼鏡をかけたふくよかな女性が、にこやかにフィオナの手を取る。


「まあ、失礼な……フィオナ様、なんでも遠慮なくお申し付けくださいましねぇ。わたくしどもが、奥方様の生活を快適にするよう、精一杯努めさせていただきます」


 世話焼きで口うるさい、まさに肝っ玉お母さんといった雰囲気だ。


「庭師のルイスは……ああ、寡黙だけど、花の話なら一晩中聞ける男だよ」


 浅黒い肌に金髪の長髪を一つに結び、野性味がある風体の男が、軽く会釈だけしてくる。動植物にやたら優しいというが、その表情は読めない。かつて戦争孤児だった彼を、レオナールが拾ったと聞いている。


 彼らの視線は皆、フィオナを「大切に扱うべき新しい主」として見ていた。王都の貴族社会では、新しく嫁いできた女性は、その出自や家柄、あるいは夫からの寵愛の度合いによって、使用人から露骨な軽蔑を受けることも少なくなかった。しかし、ここエスティネルでは、全員が温かく、そして純粋な歓迎の意を示している。それを感じた瞬間、フィオナの中にあった僅かな緊張が、ほんの少し和らぐのを感じた。


 (……意外と、ここ、居心地が良いかもしれない)


 けれど、それと同時に、彼女の小悪魔な本能がむくりと顔を出した。


 (……皆、レオナール様に懐いてるのね。でも、私の方が“上”だって、すぐにわかるわ)


 可憐な笑顔の裏で、彼女の瞳が妖しく光る。この城の空気、この人々の信頼。それら全てを、自分の掌中に収めて見せるとでも言うように。




 その夜、迎え入れられた寝室は、予想以上に広く豪奢だった。天蓋付きの大きなベッド、豪華な調度品の数々、そして壁には辺境の雄大な自然を描いた絵画が飾られている。王都の離宮のそれよりも、ずっと生活感があり、温かい空気が流れていた。


「夫婦の部屋ってことで、準備させたけど……無理に一緒じゃなくてもいい。怖がらせたくないからね」


 レオナールはそう言って、あっさりと隣の部屋へ下がろうとした。彼の部屋は、フィオナの寝室と扉一つで繋がっている。


 (……へえ)


 フィオナは、興味深そうにその背中を見送った。


 (この人、見た目は猛獣系だけど、中身は案外“チョロい”わね)


 王都の貴族男性であれば、初夜の権利を主張したり、あるいはもっと直接的な行動に出るだろう。しかし、レオナールはあっさりと身を引き、フィオナの意思を尊重した。それは、彼女の「小悪魔」の計算を再び狂わせるものだった。彼は、彼女がこれまで出会ったどんな男とも違う。その予測不能な行動が、フィオナの好奇心を掻き立ててやまない。


 ぽふ、と柔らかいベッドに腰を下ろし、フィオナはほのかに笑った。


 (うん。手玉に取ってあげましょうか。私の愛し方で)


 その笑顔は、誰も知らない、狩人のような微笑だった。この新しい舞台で、彼女の“遊戯”は、まだ始まったばかりなのだから。

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