第二夜 夢に遊べと病は誘う(4)
カナンの右手の接点から黒い陽炎のような波紋が生まれ、アスファルトを飲み込みように広がっていく。
暗黒の波動は、怨嗟の叫びの如き異音を上げた。力天使が、その流動する闇から逃れて空中に浮かんだ。天使が、左手を天に掲げ、右手で地を指し示す。声が響いた。
「我が裡の虎――尾を噛む蛇――地を這う鳳」
力天使の三重詠唱による魔法の連鎖発動を確認して、カナンは、口の端に笑みを浮かべた。カナンの生み出した闇の泉の深淵から、咆哮が聞こえた。
力天使の胸元に光の紋様が浮かび、左手の先から一条の雷光が蛇行しながらカナンに飛来し、右手の指先に生じた紅蓮の火球は、翼を広げた大鳥の如き威容を見せつけて、落ちる。闇の波紋へ。
カナンは、右腕を頭上に振り上げた。生き物のように腕に絡みついた闇が、雨に染まる空間を侵蝕するかのように虚空に散らばる。
天使の雷は、急角度の蛇行を繰り返しながらカナンを襲ったが、闇の粒子によって築かれた防壁に阻まれた。雷はのたうつように暴れ回り、やがて闇の泉に囚われて消えた。
そのままカナンは、右手の人差し指を力天使に向けた。獰猛な獣の雄叫びが轟く。
闇の泉が中心から大きく盛り上がり、なにか巨大なものが姿を見せようとする。無数の闇の粒子が飛沫となって舞い踊って、それの現出を祝福する。
それは、漆黒の巨獣――
「素晴らしい術式ですね」
力天使の他人事のような感想の間にも、黒き怪物が闇の中からその全容を明らかにしていく。獅子のような頭部、鬣はどす黒い血の色、一対の巨大な角はねじれ曲がっていた。
頑強な牙の並ぶ口は大きく、液体のような闇が滴り落ちた。黒、としか言い様のない巨体は、筋骨隆々たる上体は人間の男のそれである。
全身漆黒の体毛に覆われているようでもあり、流動する闇のようでもあった。
巨獣は、突っこんできた大火球を右拳の一撃で粉砕し、上昇を続ける力天使に追いすがるかのように、その巨体をさらに膨張させていく。
「疑似召喚術式の構成の美しさには誰だって息を飲むさ」
自画自賛して、カナンは、ビルに比肩するほどに巨大化した怪獣の背中を駆け上りながら、新たな魔法の術式を構成していた。
巨獣は既に、カナンの支配から放たれた。無論、魔法によって生み出された化け物は、術式に組み込まれた命令のみを実行するだけだ。
つまりは、力天使の粉砕。
巨獣が、馬鹿でかいうなり声とともに繰り出した拳打のラッシュは、しかし、力天使の胸元に展開していた光の紋様に遮られた。それでも、化け物は攻勢を緩めない。
「いやー絶景かな絶景かな」
カナンは、ようやく化け物の頭頂部に辿り着き、見晴らしのよさに軽く眩暈を覚えた。巨獣の身体は、既に並び立つビル群を追い抜いている。
といっても、巨獣の体がビルを圧迫して傷つけるようなことはなかった。ビルの壁や窓に触れた部分は、無数の粒子となって分散していた。
都市内の建物を傷つけてはならない。
それも、カナンが魔法に組み込んだ命令のひとつだった。
「さて」
カナンは、視線を前方に定めた。
栗色の髪の力天使が、空中を漂っていた。巨獣の猛攻をものともせずに。
「嘆かわしいことですが、わたしにあなたを殺す力はない」
唐突に、力天使。心から嘆き悲しんでいるような口ぶりだった。天使が左右に伸ばした両手の内に、白い炎が灯る。炎は、暗い曇天を焼くように燃え上がった。
「《悪魔》を屠るほどの力が、この世にどれだけあるというのでしょう」
力天使の両腕がしなやかな軌跡を描き、純白の炎が膨張した。力天使の支配から解き放たれた魔法の炎は、降りしきる冷雨をも喰らいながらカナンへと飛来する。
カナンは、翔んだ。前方へ。力天使に向かってまっしぐらに。
ふたつの炎は、それぞれ別の軌道を辿る。ひとつはカナンを目標として急速旋回し、ひとつは巨獣の顔面に突き刺さって爆裂した。
巨獣の悲鳴が、《封印都市》の上空に響き渡る。
「ですが、あなたは敗れ去る」
カナンは、中空で後ろを振り返った。白炎が、猛然と迫ってきていた。
その向こう側で、漆黒の巨躯が崩壊を始めていた。天使の魔法の威力に耐えきれなかったのだ。
「呪縛の幽姫よ」
カナンは、左手を投げるように繰り出しながら、魔法を発動した。左手の先の空間がぐにゃりと歪み、粗雑な不協和音が奏でられる。
白き炎が、その空間の歪みにぶつかると、凄まじい金切り声とともに無数の黒い荊のようなものが、その歪みの中から現れた。白炎を捕らえ、そのまま押し包んでいく。
カナンは、その魔法同士の衝突を見届けずに、天使へと向き直った――
「!?」
カナンが驚愕したのは、すぐ目の前に天使の顔が在ったからだ。
(なにやってんだ! 俺は!)
カナンはただ、力天使の接近に毛ほども気づかなかった己の不甲斐なさを呪った。
「あなたを滅ぼすのは、夢の力」
吐息すら触れ合うほどの距離だった。
力天使の両手が、カナンの顔を包み込む。慈しむように優しく、儚くも愛しそうに。
マスクのような黒い帯で隠された天使の眼は、どんな表情をしているのだろう。ふと、カナンはそんなことを想った。
「夢の一時、その果ての果てまで、楽しみましょう」
力天使の唇が、カナンの口を塞いだ。
芳しい花の薫りがした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
開け放たれた窓から入り込む風とともに、鼻腔をくすぐるのは甘い花の薫りだった。
極至近距離に、サラ・ブレッドの紅潮した顔があった。目を閉じている。カナンは、睫が綺麗だと思った。
柔らかな感触を唇に認めて、カナンは、自分がサラと口付けている最中だったことを思い出した。
彼女のか細い肩を抱き、愛情を確かめ合うように、ただ唇を重ねている。
それ以上は必要なかった。
それだけで、ふたりの心は満たされた。
ふたりは唇を離すと、至福の表情を浮かべて、しばらくの間見つめ合っていた。
いつものように。
「見―ちゃった❤」
「こんなところで堂々とキスしちゃうなんて、さっすがだね兄貴♪」
『!?』
カナンとサラは、驚きと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、同時に声がした方向に目を向けた。慌てて体を離して、何事もなかったかのような顔をしてみせる。何もかも遅すぎたが。
誰もいないはずの放課後の教室。窓はなぜか全開で、空色のカーテンが緩やかにはためいていた。窓の向こうに広がるのは、学校の校庭であり、広い運動場であった。夕闇が迫る校庭に人影は見えない。
というより、校舎の三階にある教室の真ん中にいるカナンからは、校庭の仔細な様子など把握できるはずもなかった。
壁一面の黒板には、でかでかと「不純異性交遊禁止!」とチョークで書き殴られていた。日付は十月一日。だれもが楽しみに待ち焦がれる市民の日は、明後日だ。
そういえば、今日はその日のパレードについて話をしたくて、サラの教室にまで来たのだと、カナンは思い出した。
そして、クオンとエリザ・ベスがいた。クオンは、大きな教壇に腰を下ろして、足をぶらぶらさせながらこちらを見ていた。エリザは、クオンを背後から抱き締めるような格好で、こちらを見ていた。
ふたりとも、満面の笑顔である。
「実にいい天気ですね」
とは、サラ。どこか気恥ずかしそうに、ふたりから目を逸らしていた。
エリザが、からかうように笑う。
「もう天気がどうのって時間じゃないでしょ」
「じゃあ、明日も晴れるといいですね」
「なにが「じゃあ」なの? もはや話題逸らしたってしょうがないわよ?」
「え、えーと……」
エリザの笑顔の迫力に敗北したのか、サラが、どうしようもなさげにカナンを見てきた。
カナンは、やや間を置いてから、一言だけ告げた。
「ま、そういうことだ」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
リリス=ラグナガーデンにとってそれは、予期していた事態ではあった。
「あの間抜け……!」
舌打ちをしながらも、彼女は、全周囲への注意を怠らなかった。姿を消した力天使の攻撃が、どこから来るのかわかったものじゃない。
《封印都市》ガルナバの沈黙した高層ビル群のど真ん中。
そのビル群は、リリスたちにとっても、力天使にとっても、厄介な障害物にほかならなかった。
建物を壊してはならないという暗黙の了解が、ある。
建物の中に、ガルナバの市民が眠っているはずだ。
夢を見ているのだ。
彼のように。
彼――カナンは、陶酔したような表情で力天使と口付けをしていた。まったく頼りにならないのは、いつものことだ。
うかつな《悪魔》など、笑い話にもならないのだが。
しかし、だからこそ、《天帝》は彼を選んだのかもしれない。
「それはありえない、か?」
リリスは、つぶやきながら、右手で握った刀を頭上に振り上げた。降り続ける雨を背に、金髪の天使がこちらを見下ろしていた。リリスと同様に、高所から相手を見下すのが趣味なのかもしれない。
「リリス=ラグナガーデン……!」
力天使の叫びが引き金となって、魔法が発動した。彼女の両手から青い光が迸り、豪雨の如くリリスに襲い掛かった。
「フルネームで呼ぶな」
リリスは、頬をわずかばかり紅潮させながら、即座に飛び退いた。直前まで立っていた道路に、無数の光弾が突き刺さり、連続的に爆砕する。アスファルトの破片が舞い踊り、粉塵が視界を遮った。
盛大な爆撃だったが、どうということはない。
リリスは地を蹴って、一足飛びに力天使の背後へと回りこんだ。 耳元で囁く。
「照れるじゃないか」
「!?」
力天使が驚愕とともにこちらを振り返るより早く、リリスの長刀が閃く。天使の右腕が見事に断ち切られ、肘から先が飛んだ。切断面より噴き出すのは、血ではなかった。
眩いばかりの光の洪水――。
「なっ――」
爆発的に膨れ上がる光に包まれて、リリスは、なす術もなかった。それは魔法の輝き。対抗手段はあったはずだ。しかし、意識を圧倒する光の前に、思考の回転は止まってしまう。
「お馬鹿さん♪」
膨大な光の渦に飲み込まれながら、リリスは、確かに力天使の嘲笑を聞いた。言い返せるはずもない。
リリスは、己もまた夢の国へと誘われたのだろうと、薄れゆく意識の中で思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
太陽が地平の彼方に沈むときは、どうしてああもあざやかな光を発するのだろう。
燃え上がる夕焼けと、迫り来る夜闇が織り成すコントラストに満足感を抱きながら、カナンは、わりとどうでもいいことを想い浮かべていた。
学校からの帰路。
学業区の整然とした街並みは、どこも似たような景色に見えるため、歩き慣れたものですら迷子になることがある。
吹き抜ける風に混じる夜の冷気の心地好さに、カナンは、我知らず笑みをこぼしていた。
「どうしたんですか?」
「えっ……?」
隣を歩くサラの問いかけに、カナンは、驚きのあまり情けない声を上げた。
歩道の上。
街灯の天使像の胸元に抱かれた水晶灯が、淡く穏やかな光を放っていた。
その光を浴びたサラの姿は、さながら天使のようで、カナンには、なんとも言い様のない複雑な感情が沸き上がった。
「とても楽しそうだったので、どうしたのかなって……」
「そりゃあ、兄貴はいま幸せの絶頂だしね♪」
小首を傾げるサラに、前を進むエリザが振り返りながら告げた。
彼女は、怪我でもしたのか、右腕に包帯を巻いていた。いつ怪我をしたのかはわからないが、それは当然だろう。
カナンが、彼女のすべてを知っているなんてことはありえないのだ。
自転車を押しながら歩くクオンが、追い打ちをかけるように続く。
「ここから降る一方だもんね♪」
心の底から愉快に笑う弟たちに、カナンは、声を荒げる気力すらなかった。どっと押し寄せる疲れに任せて、つぶやく。
「おまえらなあ、俺をなんだと思ってんだ?」
カナンの言葉に、エリザが足を止めてにこやかに笑った。
「あはは。じゃ、わたしたちはここで」
十字路の前だった。そこを北へ曲がれば、サラやエリザの住む屋敷がある高級住宅街があり、南に下りればカナンたちのぼろアパートがある平民街へと辿り着いた。
カナンとクオンは、彼女らを家まで送ることはしなかった。遠慮がある。彼女らがいくら気にしないといっても、こちらはどうしても気を使ってしまうのだ。
そもそも、ガルナバの治安は大陸最高と謳われるほどだ。ここ四年に限って言えば、たったひとつの軽犯罪すら起きていない。夜道ですら安全面での心配はなかった。
そういう意味では、送る必要などないとはいえる。
もっとも、親しい女性を家まで送るというのは、身の安全を護るため、という一点だけで行うものでもないのだが。
「うん。じゃあ、気をつけてね」
クオンは、自転車を停車すると、エリザに歩み寄った。エリザが少し屈む。長身のエリザとクオンでは、大人と子供ほどの身長差があるのだ。
クオンが、いつものように堂々と、エリザの右頬に口付けをした。
それを横目で見たあと、カナンは、ちょっとだけ照れくさくなった。それは、サラも同じらしく、彼の前に立ってもじもじとしていた。
「あ、あの」
さきに口を開いたのは、サラだった。空は既に闇が大勢を占めているが、至近距離ということもあって、その照れた表情の隅から隅まで見えた。。
「今日も一日楽しかったです。本当に」
カナンは、透かさず言った。あふれてくる愛しさに表情が緩む。
「俺もだよ」
しばらく見詰め合って、サラが、笑顔を見せた。
「また、明日」
エリザとともに歩き出した彼女の背中を見つめながら、カナンの胸のうちには、一抹の不安が去来していた。
「また明日……か」
明日なんて永遠に来ないような気がした。
「カナン」
不意に名を呼ばれて、カナンは、クオンに向き直った。天使像の水晶灯から降り注ぐ光の中で、その少年は、ただこちらを見ていた。いつもとは、何かが違う。纏う雰囲気も、周囲の空気の質感も。
「いま、幸せ?」
少年の問いに、カナンはうなずくしかなかった。そう、確かに幸せだった。面白い弟と、弟の楽しい彼女、そして己の最愛のひとに囲まれて、学生生活を送っているのだ。
これを幸福といわずして、なんと言うのだろう。
「こんな幸せがいつまでも続けばいいと、思ってる?」
それもまた、カナンは肯定した。だが、この夢のような生活がいつまでも続かないことも知っている。
時計の針は進んでいく。
時が立てば、ひとも変わるし、状況も変わる。ずっと学生でいられるはずもなければ、弟やその彼女たちと戯れ続けることなどできやしない。
いずれ、別離のときは来る。
少年が、カナンに手を差し伸べてきた。
「それなら、夢を見ていようよ」
それは甘美な誘い。
「ぼくと一緒にさ」
人知れず忍び寄る、病。
「永遠の夢を見よう」
それは出来ない。やらなければならないことがある――
カナンは叫んだけれど、それは声にすらならなかった。
世界が、急激に形を変えていく。