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第二夜 夢に遊べと病は誘う(3)


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「夢か……?」

 ささやかに覚醒していく意識の中で、カナンは、ずぶ濡れの自分の有り様を認めた。身に纏う黒衣はずたぼろで、血と雨と泥で汚れきっている。

 どこかの路地裏。

 降り続ける雨が、傷だらけの体に染み入って、痛みの連鎖を呼ぶ。

 空を仰ぐ。

 半球形の天蓋が遥か頭上を覆い、外界とは隔絶されているはずで、雨の入り込む余地などはないのだが。

 都市内の天候を管理しているシステムにトラブルでもあったのだろう。その上、それを修理することもなく放置しているのだ。

 そして、システムの誤作動によって、嵐が発生しようとしている――

「ちっ……どうなってるんだ」

 体を気遣いもせずに立ち上がって、カナンは、吐き捨てるようにつぶやいた。周囲を見ても、高層建築物に囲まれた路地裏からは、特に何も見出せない。

「ここは……ガルナバだな」

 ガルナバ。

 ドミニオン・ラザクルによって管理されるこの都市は、一時期、《夢の国》として大陸全土を席巻した。

 ガルナバに行けば、夢が叶う。

 ガルナバに行けば、理想を実現できる。

 ガルナバに行けば、なにもかもすべてが手に入る。

 そんなくだらない噂とも妄想ともつかない流言が大陸中を駆け回ったのは、人間が、この天使たちの築いた楽園に多少なりとも閉塞感を抱いていた証かも知れない。

 もっとも、そのころにはまだ、仮初にも自由というものがあった。《封印都市》間の交流は盛んに行われ、観光旅行だって簡単に許されたし、移住にも寛容だった。

 大陸各地の《封印都市》のさまざまな噂や情報が錯綜し、ひとびとは、自分の好みに合った《封印都市》を探して、大陸中を走り回った。

 懐かしい時代。

「さて」

 カナンは、頭の中で展開していた昔話を終わらせると、ゆっくりと背を伸ばした。雨の中、傷だらけで半裸に近い格好で寝ていたためか、全身がそこはかとなく痛い上に冷たい。

 このままでは風邪を引くどころか、もっと重大な欠陥を抱きかねない。

 カナンの背部に三重のエンジェル・リングが発生し、静かに神秘言語を詠唱し始めた。

「大いなる御手よ」

 カナンがつぶやいたのは、呪文の末尾。エンジェル・リングが組み上げ、読み上げた術式を確定する結語。

 それによって、神の法理に支配された世界に現出するのは、魔の法理。

 光が、カナンを包み込んだ。穏やかで優しい輝きだった。

 その光は、肉体の損傷を復元し、失われた血液を補完する力を持っていた。肉体の外面のみならず、内臓をも点検し、必要とあらば治療していく。

《完治》の魔法は、その名の通り、対象の生体をほぼ完全に治療するためのものであり、その所要時間は極めて長く、普通はそう容易く使わない類の魔法だった。

 しかし、いまのカナンには、どうしても《完治》の魔法が必要な気がした。全身の毒素を除くだけではない。精神領域に入り込んでいるノイズを消去したかった。

 夢を長々と見すぎた。

 現実と虚構が混線し、頭が回らなくなってきている。

「それにしても、俺はどうしてこんなところに?」

 そして、なにゆえ傷だらけだったのだろう。

 確かに、夢の中では天使の大群と戦い、あっけなく撃ち落されたが。

「夢が現実になったのか?」

 それはあまりにもつまらない冗談だが、無い、と言い切れない部分もあった。

《封印都市》においてドミニオンの力は、時として極めて万能に近くなる。

 カナンは首を振ると、路地裏から大きな通りに出た。

 雨は降り続けている。

「むう、傘が欲しい」

 カナンは小さくうめいて、周囲を見た。なんのことはない。どこにでもある、近代的な大都市の姿が遠くまで広がっていた。

 立ち並ぶ数多のビルは、ドーム状の天井には決して届かないように設計されているのは当然だろう。普通ならば自動車が行き交っているはずの道路の幅は、狭い。

 無人の街。

 喫茶店やレストランの看板もなく、カジュアルにしろフォーマルにしろ、衣類を扱う店の姿もなかった。当然、食料品や日用品を取り扱っているような店もない。

 信号機だけが、音もなく明滅している。

 カナンは、すぐ近くのビルの正面玄関まで小走りで駆けた。ビルの出っ張った屋根が、天梅雨をしのぐのに最適だった。

「リリスは無事かな」

 とは言ったものの、カナンは、別に心配などしていなかった。無事だろう。

 心配するだけ時間の無駄だ。

 適当に切り上げて、カナンは、これからの行動方針を考え出した。と――

「いっやああああああああああああああああああああああああああああああ――」

 それはまるで、怪鳥の鳴き声のようなものだった。

《封印都市》の静寂をぶち壊し、破滅的な騒音を引き連れながら、それは、落ちてきた。

 カナンの目の前、だれもいない道路の真ん中に。

 路面に激突し、なぜか爆風が起きて、カナンの身体を揺らした。

 アスファルトの上に無残な格好を晒したそれは、リリスだった。

 銀髪が全身を覆うほど長く、身につけた黒装束の上からでもはっきりとわかるほどに主張の激しい肢体を誇る、女。

 間違いなく、完全無欠に、どうしようもないくらいに、リリス=ラグナガーデンだった。

「ふっ……くくく」

 なぜか不敵に笑いながら、リリスが、顔面を路面から引き剥がすように上体を反らした。銀髪が広がり、無数の雫が舞う。手前のアスファルトは、リリスの美貌をかたどったように陥没しているが、彼女の顔には傷ひとつなかった。

「胸がなければ即死だったな」

 リリスが、勝ち誇ったようにつぶやく。ちょうど、美しく隆起したバスとが強調される体勢だった。

 カナンは、リリスが立ち上がるのを待ってから、告げた。

「いや、胸があろうとなかろうと死んでるだろ、普通」

 一拍の間があった。ちゃんと聞こえていなかったのかも知れない。

「?」

 リリスが、視線をさまよわせ、やがてカナンと目が合う。エメラルドグリーンの虹彩に、驚きが生まれる。

「なっ!? カナン!? 見ていたのか!?」

 慌てたふためくリリスの様子は、あまりにも現実離れして見えて、カナンは、これこそが夢なのではないかと疑いかけた。冷ややかに言う。

「なにを取り乱してるんだ」

 リリスは、不意に頭上を仰ぐと、しばらく沈黙した。

「ふっ……危うくわたしのクールなイメージが崩れるところだったな」

 雨の中でなぜか勝ち誇る女の姿に、異形の化け物を幻視したような気分になって、カナンは軽く眩暈を覚えた。

「おまえの性格が俺にはわからん」





「で、なんでまた落ちてきたんだ?」

 カナンは、特に考えもなくリリスに訊ねた。ふたりとも、ビルの玄関先で雨宿りをしていた。

 カナンを包み込んでいた魔法の光は既に失せている。魔法による治癒が終わったのだ。肉体の状態は良好。精神面でも不安はなかった。

 ぼろぼろだった衣服すらも、魔法によって完璧に復元されていた。

 雨音の不規則な旋律が、都市の静寂を一層際立たせている。

「知りたいのか?」

 ハンドタオルで濡れた髪を拭いながら、リリス。どこから取り出したのか。ハンドタオルには、間抜けな熊のキャラクターがプリントされていた。

「いや全然」

 透かさずかぶりを振って、カナンは、雨音が少しずつ早くなってきていることに気づいた。報告通りならば、この広大な閉鎖空間に嵐が吹き荒れることになる。

 そうなれば、ドミニオンの追及どころではなくなってしまうだろう。

「おまえがど~してもというのなら教えてやらんこともないが」

 リリスのうんざりするような言い回しに、カナンは、そっと告げた。

「だから別に聞きたくねーっす」

 カナンは、なぜか硬直したリリスの脇をすり抜け、屋根の外に出た。感覚が、なにかの接近を捉えていた。

 降り止まぬ雨の中へ。背後から、リリスの声が聞こえた。

「撃ち落されたのだ。あの力天使どもに」

 カナンが頭上に目を向けると、女性形の天使がふたり、こちらに向かってゆっくりと降下してくるところだった。

 天使たちは、淡く発光する純白の衣を身に纏い、背部に光輪を展開している。そして、目元を漆黒の帯で覆い隠していた。

 力天使。ドミニオン支配下の最高戦力である。

「今回はえらくあっさりと折れたな」

 カナンは、エンジェル・リングを起動すると、相手の出方を想定して術式を構成していく。もっとも、それを実行するのはエンジェル・リングだ。

 カナンの頭の中で描かれた魔法のイメージが、エンジェル・リングによって神秘言語へと変換され、望みを実現するための術式を構築していく。

 そして、エンジェル・リングは、歌い始める。

 魔法の意味を。

「わたしだって学習している!」

 叫ぶように、リリス。見ると彼女は、光輪を展開することもなく、いつの間にか手にしていた長刀の重さを確かめるように振り回していた。ガラス細工のように透き通った刀身は、リリスの身長ほどもあった。

「そんなものを誇るな。ったく、夢にはいなかったぞ、あいつら」

 カナンはぼやきながら、視線を頭上に戻した。ふたりの力天使の効果速度は、極めてゆったりとしていた。こちらを警戒しているのか、それとも、はなから眼中にないのか。

「おまえ如き、権天使以下で事足りるのだ。はっはっはっ」

 実に楽しそうに笑うリリスに、カナンは、振り向き様に右手を向けた。手の先に小さなエンジェル・リングが現れ、簡単な攻撃魔法の詠唱を始める。

「黙れ、消し炭にするぞ」

「いや~怖~い」

 刀を抱えていやいやするリリスに、カナンは、半眼で告げた。

「全然可愛くないからな、おまえ」

「ひどいな」

 憮然と、リリス。まるっきり納得していない、といった様子だった。

「まったくだな。まったく、ひどい有様だ」

 カナンは、意識が急激に冷えていくのを認めた。なぜかは理解していた。力天使たちが、道路に降り立ったのだ。魔法での牽制もなく、だ。

 馬鹿にしている。

「夢も希望もなくした哀れな奴隷のようだよ、おまえら」

 力天使を振り返るなり、カナンは、その言葉を呪文の結語として右手の魔法を発動した。手の先で光が爆ぜた。

 轟音とともに掌大の火球が五つ、力天使に向かって飛んでいく。雨粒が蒸気となって舞った。

 距離は五メートルもない。

 魔法の火球は、しかし、どこからともなく吹いた突風に飲まれ、力天使に到達することもなく消滅した。力天使の魔法だろう。

 細い手をひらひらとさせながら、金髪の力天使が、言った。

「あなたには言われたくないわね。《悪魔》さん」

「《天帝》の奴隷に過ぎないあなたこそ、夢も希望も見失ったのではないですか?」

 とは、栗色の髪の力天使。

 刹那、リリスがカナンの脇を走り抜け、揺れる銀髪が視界を彩った。リリスの冷笑が響く。

「《悪魔》が夢を見るものか」

 ガラスの長刀を構えたリリスが、金髪の力天使に殺到する。力天使は、軽く後方に飛ぶと、目の前に魔法の壁を構築して見せた。リリスが、その障壁を一刀の下に斬り崩す。魔法壁の破片が、耳障りな音を立てながら路上に散乱して、消えた。

「夢を見たから、堕ちたのでしょう?」

「そうだな」

 力天使の問いに適当に答えて、カナンは、右手を足元に叩きつけた。当初から構成していた魔法を完成させる。

「獄門の守護獣よ!」


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