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第二夜 夢に遊べと病は誘う(1)

 カナンは、どこまでも続く回廊を歩いていた。

 金剛石で構築された廊下。

 天井に灯るのは、太陽の如き黄金の輝き。

 道は遥か前方まで続いていて、ゴールなど見えやしない。

 いつから歩いているのだろう。

 いつまで歩けばいいのだろう。

 どこから歩いているのだろう。

 どこまで歩けばいいのだろう。

 そもそも、ここはどこなのか。

 そして自分は一体なにものなのか。

 疑問が、次々と頭の中に沸いては消えた。余韻すら残らない。

「おお、《悪魔》よ」

 唐突に、頭上から声が聞こえた。なにものにも変えがたいほど偉大で、至高の光輝を放ち、圧倒的な叡智を窺わせる声音。

「なぜ、おまえは堕ちたのだ」

 声は、懊悩に満ちていた。いつもは雄大で、その声を聞くだけでだれもが魂を震わせ、恐れ戦くというのに。

「なぜ、わたしの傍らで夢を語ってくれない?」

 カナンは、さすがに笑わざるを得なかった。

「夢を見てしまったからさ」

 それは間違いない答えであり、だれもそれを否定することはできないはずだった。そして、だれもその解答を覆したりはしないだろう。それはこの世の原理を覆すことに他ならない。

もっとも、彼にはそれでは不服なのかもしれない。彼のそういうわがままなところは、嫌いではなかった。

 しかし、もはやどうしようもないことだ。決断は翻せないし、起きてしまったことを元に戻すことは出来ない。

 時間は進んでいく。

(そう。止まってもいけない)

 カナンは、先を急いだ。

 ただ前進しなければならない――そんな強迫観念が彼を突き動かしていた。

「?」

 ふと気付くと、目の前には金剛石の回廊ではなく、黒曜石の街が広がっていた。

 家屋も道路も街灯は愚か、街路樹や草花に至るまで、黒曜石で作られた街。

 空気が重い。湿気を帯びているのだろう。雨が近いのかもしれない。

 雲に覆われた空が、黒曜石で埋め尽くされた天蓋に見えた。

 長い長い大通りの中程、大きく開けた十字路に、ひとりの少年が佇んでいた。 真っ赤なレインコートが、漆黒の風景に異様な変化をもたらしている。

 女性的な作りの少年の顔には、見覚えがあった。まったくもって思い出せやしないのだが。

 歯痒さはない。

 なんだって、いつかは忘れていくのだ。なにもかもすべてを記憶できるほど、人間の記憶容量は大きくない。

「君は人間じゃないよ」

 少年が可笑しそうに言ってきたのを、カナンは、優しく受け止めた。

 なぜだろう。

 愛しさが溢れた。

「知ってるよ」

「そっか。なら、いいや」

 満足そうな笑顔を浮かべて、少年はレインコートのフードを被った。その炎のような赤は、またすぐに灰を被って黒く染まるのだろう。

 それは、少し残念なことだった。

「嵐が来るよ。気をつけて」

 少年の姿が、カナンの視界から消えた。

「ありがとう」

 そんなカナンの声は、突然の暴風に吹き飛ばされた。

 カナンもろとも。

「マジかよ!?」

 少年の忠告を信じなかったわけではない。ただ、嵐が来るのがあまりにも早すぎた。

 凄まじい強風に拐われながら、カナンはしかし、まったく不安を抱かなかった。

 空へ。

 分厚い鉛色の雲が幾重にも折り重なるその中を、強烈な旋風に導かれるように上昇していく。

 全身がびしょ濡れになって、凍てつくほどに冷え切っていくが、どうすることもできない。

 雲海を抜けると、透き通った蒼穹に辿り着く。

 さらに遥かな高みに悠然と浮かぶ太陽が、その金色の美貌を惜しげもなく披露していた。

 その膨大な日輪の輝きを浴びて、足元の雲海があざやかにきらめいていた。

 いつか見た景色。

 あまりにも懐かしくて、カナンは、涙をこぼしそうな自分に驚いた。

(まだ、忘れられないのか?)

 そして、己の身体に変化が起きていることを知る。

 すらりと伸びた手足は光沢を放ち、欠点ひとつない肢体には眩いばかりの純白の衣を纏う。燃えるような金髪と、黄金の瞳は太陽を双眸に封じ込めたようだ。

 背には六対――十二枚の翼があった。二枚が顔を隠し、両肩から胸元を覆う二枚、別の二枚が腰回りを隠し、さらに二枚が足を隠していた。残りの四枚の翼が、彼の天翔る翼であった。

 翼は、その羽一枚一枚が鮮烈な光を発しており、無数の翼を纏う彼は、それ自体がもうひとつの太陽のようですらあった。

 そして、背後には九重の光輪が展開しており、攻撃のための神秘言語が高速で詠唱されていた。魔法を放つために。

(そうか)

 カナンは、これから起こることを理解して、苦笑した。いまさらこんな夢を見せて、なんになるというのだろう。

 つぎの瞬間、天地が晦冥したかと思われるような激変が、カナンを襲った。

 太陽が影に覆われ、蒼天が暗黒に染まった。

 星ひとつ見えぬ無明の闇が世界を包み込み、その暗黒の空を無数の光が閃いて切り裂いた。数多の雷鳴の合唱が天地に轟き、見えざるものたちによる破滅的な戦いの余波が、世界を成立させる法則すらも歪めていく。

 一筋の雷が、カナンを撃ち落す。

 絶対的な敗北感の中で、しかし、彼は、すべてから解放されていく自分を認めていた。

 雷光に焼かれた翼が、黒く焦げて醜く変貌していく。輝いていた髪は愚か、眩い肢体も醜悪な変化を遂げていく。

 数多の翼を持つ竜へと。

 そして再び、雲海の中へ。

 数え切れない天使たちと遭遇した。

 だれもが目をあわさず、ただ呪いの言葉を浴びせてくるだけだった。いまは、武器や魔法よりも呪詛のほうが効果的だと知っているのだろう。

 変貌が加速する。

 雲の海を抜けた。

 戦火に包まれた大陸が見えた。

 白銀の城塞があった。赤銅の歩兵と青銅の騎士の死闘が、落日をあざやかに彩った。

 黄砂舞う都市があった。深紅の踊り子たちと群青の詩人の一夜の戯れが、都市の終焉を飾った。

 緑に覆われた村があった。純白の巫女と漆黒の鬼の婚姻が、小さな村の破滅を約束した。

 いくつもの滅びを見る一方で、新たな国の誕生もある。

 しかし、それもまた、新たな火種に過ぎない。

 戦火が戦火を呼び、闘争が闘争を引き寄せる。血で血を洗う戦争。死を死で贖う戦闘。数多の激闘、無数の死闘。

 ここは火薬庫なのだろうか。

 カナンはしかし、歓喜に満ち溢れていた。

 蔓延する絶望の中で、それでも歩みを止めない人々が見えた。希望を胸に、夢を掲げるひとびとの表情は実に心地よかった。

 堕ちよう。

 この火薬の庭の中心へ。

「やあ、遅かったね」

 声は、頭上から聞こえた。

 カナンは、いつの間にか地面に仰向けに倒れていて、いまにも降り出しそうな空を見ていた。極めて新鮮な気分だった。体中の老廃物は愚か、不要なものすべてを吐き出して、内臓だけではなく魂までも洗浄したような感覚。

 カナンが、声の方向に視線をやると、黒いレインコートの少年が立っていた。

「ぼくはクオン。クオン=シオン」

 少年が差し伸べてきた手を、カナンは、なんのためらいもなく掴むと、ゆっくりと身体を起こした。肉体を動かすという感覚が不思議だった。

「君は?」

 少年が、知っているはずのことを尋ねてきたけれど、カナンは、嫌な顔ひとつ見せなかった。

 これは儀式だ。

「俺はカナン」

 もう一度、産声を上げるための――



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「カナっち!」

 大音声が聞こえて、

「!」

 カナンは、瞼を開くなり、すぐ目の前にくりっとした可愛らしい瞳があることに驚いて、叫びかけた。

「ガッコに遅れるよ」

 声が出せなかったのは、クオンの細くしなやかな指先が、カナンの口を塞いでいたからだ。

 悪戯っぽい瞳が美しく輝き、口紅でも塗ったかのように紅い唇が、笑う。濡れた長い髪から滴る雫が冷たい。

 カナンは、クオンの手首を掴んで自分の口元から引き剥がすと、無言のまま視線を巡らせた。

 ふたりで借りているアパートの一室。散らかし放題になった部屋は、まるで腕の悪い盗賊にでも荒らされた跡のように見えた。

 散乱しているのは、主に書物だ。開きっぱなしになった古めかしい本のページが、窓から入り込む風によって捲られる音は、カナンの耳に心地いい。

 真っ白な壁が四方を囲い、小さな窓には空色のカーテンが揺れていた。天井から吊るされた旧式の水晶灯は、いまにも落ちてきそうだった。

「なにやってんだよ」

 カナンは、半眼で弟を見た。カナンは、部屋の真ん中に配置されたベッドの上、水玉模様の寝間着を身につけて、仰向けに寝ていたのだが。

「夜這い」

 悪びれもせずに、クオン。半裸の少年は、カナンの上に馬乗りになっていた。朝っぱらからシャワーでも浴びてきたのだろう。洗い立ての髪の匂いが、カナンの嗅覚を刺激した。

「朝だろ!」

「そだけど?」

「夜這いは夜にするもんだ」

 カナンは、近すぎるクオンの顔を引き離すつもりで、その額を軽く小突いた。

「じゃあ、朝這い」

 とんでもなくいい考えでも思いついたような、あるいは世紀の発見でもしたような弟の顔が馬鹿馬鹿しいくらいに愛らしくて、カナンは、軽くため息をついた。クオンには、あらゆる意味で勝てそうにない。

「さっさと服を着なさい。風邪を引いても知りませんよ」

 クオンの華奢な肢体を押し退けながら、カナンは、極めて他人行儀に忠告した。ベッドから降りて、散らかし放題の部屋で着替えを探す。

「いや~ん、怒らないで~」

 クオンの甘えたような声は、さすがに気持ち悪いとカナンは思った。


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