第一夜 夢の都の白昼夢(4)
悪い夢だ。
悪い夢に違いない。
不意に、広場から盛大な歓声と拍手が怒涛のように聞こえてきた。
ついに広場に市長が姿を見せたのだろう。天使たちの飛行に茫然としていた観衆が、一斉に動き出していた。歓喜に満ちたざわめき。不自然なまでに統一された反応。
市長は、天使たちの牽く、仰々しくもきらびやかに飾り立てられた乗り物に乗っていた。乗り物の高さは、軽く五メートル以上はあった。遠くの観衆にも市長の姿がよく見えるようにだろうか。あるいは、市長の眼により多くの市民の姿が映るように、という配慮かもしれない。
市長は、見た目には初老の男だった。見事な白髪は今までの激務の代償か、賜物か。しかし、顔つきや肌の張りは、とても六十代には見えないほど若々しい。白のスーツは天使たちの衣装に合わせたのかも知れない。がっしりと引き締まった肉体やしっかりした足腰は、年齢による衰えを感じさせなかった。
カナンには、市長の目の緑の虹彩まではっきりと見えた。
天使たちが、市長や観衆の頭上を旋回しながら、どこからか取り出したラッパを弾き鳴らし、または手にした籠から無数の花弁を撒き散らしていく。
ふたたび、歓声が上がった。
幻想的な情景。
夢のような光景。
夢――。
「そう、夢さ」
カナンは、自分の意識が鮮明になっていくのを認めた。頭の中で攪拌していた数多の雑念が消え失せる。頭痛が消えたような爽快感。
「お集まりになった商業区の皆さん、あるいはほかの地区から来られた皆さん、観光で来られた方々、盛大なお出迎え誠にありがとうございます」
広場では、市長の演説とも思えない演説が始まっていた。そもそも演説でもないのかもしれない。
「本日、十月三日は市民の日――このガルナバの誕生日であります」
カナンは、市長の瑞々しさに溢れた声音を聞き流しながら、そっと、サラの手を離した。彼女の驚いた顔に苦笑する。
その反応が、あまりにも仰々しかったからだ。
「驚くほどのことかい?」
カナンはつぶやいて、右手を窓ガラスに押し当てた。
「いまさら、さ」
しかし、サラが驚くのも無理はないだろう。カナンの背後に、天使たちと同様に光の輪が浮かんでいるのだ。美しく発光する輪。
エンジェル・リング。
「機関開放――展開確認――術式認証――完了――神秘言語の高速詠唱開始――」
カナンのエンジェル・リングが、目にも止まらぬ速度で回転する。いや、エンジェル・リングは常に回転しているのだ。ただ、速度を上げただけに過ぎない。
「衝撃よ」
「カナンいけないっ!」
焦ったようなクオンの叫びは、カナンの右手の先に生じた衝撃波が窓ガラスを粉砕したときに生まれた破壊音にかき消された。
けたたましい破砕音とともに無数のガラス片が、広場へと降り注ぐ。
悲鳴が上がった。サラか、エリザか、観衆か。
もはやカナンにそんなことを考える余裕はない。窓の外へ飛び出す。エンジェル・リングは、カナンの思うがままに術式を組み上げ、高速詠唱を続ける。
重力の中和、及び空中での姿勢制御、推進力の強化――即ち《飛翔》。
「翼よ」
神秘的な光が、翼のようにカナンの背中に展開し、高速飛行を助長する。
無数の視線が、一斉に自分に集中するのを認識して、カナンは、軽く笑ってしまった。
「やりすぎたかな」
自嘲しながらも、天使たちが戦闘態勢に入るのは見逃さない。といって、どうこうすることもなく、カナンは、ひたすらに市長を目指す。
空中を飛ぶのは久しぶりだったが、エンジェル・リングの卒のない補助のおかげで、落下することもない。もっとも、重力を中和しておいて落下するなど、よほどのことがない限りありえないのだが。
例えば、敵に打ち落とされたりでもしない限りは。
「尻尾を出すのが早すぎではないか? 少年」
動じることもなく話しかけてきた市長の声は、はっきりと聞こえた。
突然の乱入者のおかげで、恐慌状態に陥った観衆の巻き起こす悲鳴の嵐の真っ只中でも。はっきりと、鮮明に。
カナンは、我知らず叫んでいた。
「ドミニオン・ラザクル!」
カナンから市長までの距離は約五メートルといったところだった。
カナンの全周囲に展開する二百あまりの天使と、二十の大天使、ふたりの権天使が、カナンに向けて腕をかざしていた。それぞれの手の先に小型のエンジェル・リングが展開する。
それは無数の砲口を向けられているようなものだった。
「わたしはラザード。夢の国ガルナバの市長ラザードだよ」
市長が、掲げていた右手を下ろす。
それが号令だった。一斉に天使たちがなにかを口走る。術式化した神秘言語を確定する言葉。魔法を発動するための結語。呪文の末尾――天使たちの光輪から、数え切れない量の光線が轟然と迸る。
「そうかよ!」
さまざまな軌道を描いて自分に殺到する魔法の嵐に対して、カナンは、瞬時に魔法による強力な防壁を張り巡らせた。幾重にも展開する光の壁がカナンを包みこむのとほぼ同時だった。
数多の魔法の着弾により、凄まじい衝撃と爆音の連鎖がクオンを襲った。痛みはない。魔法の発動がなんとか間に合ったおかげで、カナンは傷ひとつすら負わなかった。
「いつまでそうしていられるかな? 少年――いや、《悪魔》よ」
濛々と立ち込める爆煙の中で、市長の声だけが浮いている、そんな感覚がある。彼だけが、この戦闘に直接与していないからだろう。
黒煙が流れていく。
「!」
カナンが目を疑ったのは、ついさっきまで逃げ惑っていたはずの観衆たちが、こちらを見上げていたからだ。その無数の瞳が、淡い光を発しているように見えた。
純粋な輝き。
そして、エンジェル・リングの展開を認識する。その数、優に一万を超す――
「いつか君が来るであろうことは理解していたよ。そして、先ほどリリス=ラグナガーデンを認識した。リリスがいるということは、君もいるはずだろう?」
悠々とした調子で、市長。
「ちっ、あの女!」
カナンは舌打ちした。上から見下すだけ見下しておいて、ろくな仕事をしないのはどういう了見なのだろう。今度あったら愚痴の一つや二つ、あるいは百や千くらいは叩きつけてもいいだろう。
無論そんな嫌味など、リリスには、まったく完全にこれっぽっちも届かないのだろうが。
「《悪魔》よ。ただひとり、《天帝》に支配されざるものよ。背約者。呪われし竜よ。裁断者よ」
市長の芝居がかった台詞回しに辟易しながらも、カナンは、防壁を築いたまま動けずにいた。一万を越す大群に包囲されては、さすがのカナンもうかつには動けなかった。
市長が、カナンにその手を差し伸べるようにする。
「わたしとともに夢を語らないか? 永遠に続く夢物語を」
カナンは、笑うしかなかった。この状況で差し出された言葉のあまりの馬鹿馬鹿しさに。あまりのくだらなさに。
「ふざけるな」
カナンは、一蹴して、防壁を解除した。全速力で、市長に襲い掛かるのだ。
「残念だよ」
市長が指を鳴らす。
その場にいたすべての天使の輪が咆哮したように、カナンには思えた。
極彩色の光の乱舞が、カナンの意識を塗り潰した。