第一夜 夢の都の白昼夢(3)
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「カナぴょん!」
クオンの叫ぶような呼びかけに、カナンは、単純に驚いて顔を上げた。どうやらテーブルに突っ伏していたらしい。
周りを見ると、相も変わらず《天の扉》の一室だった。サラが心配そうにこちらを見ていて、クオンはいつの間にか、エリザの膝の上に座っていた。エリザは、どこか恍惚とした表情でクオンの耳たぶを
触っている。
「あれ?」
「「あれ?」じゃないわよ。なんなの? いったい」
エリザの口調は、カナンに対しては厳しい。サラが、やさしく同調する。
「そうですよ。いきなり眠ってしまわれたから、どうすればいいものかと……」
困り果てたような表情だった。その仕草のひとつひとつが可憐で、いじらしく感じられる。
カナンがふと見回すと、テーブルの上には前菜は愚か、スープ、魚と肉のメインディッシュにデザートまで取り揃えられていた。そのほとんどが食べ尽されており、葡萄酒の注がれたグラスが所在無げに佇んでいる。もちろん、カナンには料理を口にした記憶もなければ、腹が満たされたという実感もない。
「えーと……これは一体――」
「カナっぴが寝てる間に、ほら」
カナンの問いかけを封じるように、クオンが窓の向こうを指し示した。
晴れ渡った空に泳ぐ雲はまばらで、中天へと上り詰めようとする太陽の輝きは、ひたすらに眩しい。その下に広がる見慣れた町並みから、地鳴りのような喧騒が聞こえてきていた。音楽隊の奏でる旋律と、長大なひとの行列が移動する足音、そして無数の市民をはじめとする見物客のざわめき。
「パレードか!」
カナンは、椅子を倒すほどの勢いで立ち上がって、窓際に向かった。料理のことなどもはや念頭になかった。パレードへの興奮がカナンの全身を駆け巡り、血液を沸騰させ、意識を覚醒させるのだ。
背後から、気のない声が聞こえてくる。
「すんごいはしゃぎっぷりねー」
「お祭り騒ぎが三度の飯より好きだから、彼」
とは、クオン。
「「彼」って。お兄ちゃんでしょ、クオンの」
「そうだよ。とても大切な、ね」
カナンは、ふたりの会話など気にも留めなかった。体の奥底から湧き出す衝動を抑えられない。
(ん? ちょっと、待て)
一面の窓ガラスから見下ろす駅前の広場は、既にたくさんの見物客でごった返していたが、パレードの順路は派手な格好の警備員によって押さえられている。当然だろう。
(俺はなんで、こんなにも興奮しているんだ?)
疑問は浮かぶものの、答えなど出るはずもなかった。改めて考えると、特別祭りが好きでもないし、市民の日のパレードすらちゃんと見た記憶もなかったのだ。
クオンの言う通り、お祭り騒ぎが大好きなら、ガルナバ最大のパレードなていうものを毎年見ていないというのはあまりにもおかしい。
(あれ……?)
辻褄が合わない。
(いや、そもそも俺は、どうやってサラたちと知り合ったんだ?)
記憶にないことは、いくら考えたところで解答が見つかるわけがなかった。不安が過る。
そっと、カナンの手にだれかの手が触れた。
「いまはなにも考えなくていいじゃないですか?」
サラが、いつの間にかカナンの隣に立っていた。美しい微笑を浮かべて、カナンの腕に自分の腕を絡ませる。
「さあここにある“夢”の一時、存分に楽しみましょう」
サラの子供を諭すような言い方には、不思議なほど不快感がなかった。素直にうなずく。
「そうだな」
カナンは、駅前の広場に視線を戻していた。いつの間にか、不安も消え失せている。
パレードの先頭が広場に到着したことで、見物客の中から歓声が沸き起こり、五階の室内にまで響いてきた。
「お、ついに来たわね」
窓際にまで来たエリザが、グラスに満たされた葡萄酒を飲み干す。頬がほんのり色づいているのは、飲酒のせいなのだろう。
パレードの先頭の一団は、青を基調とした式典用の甲冑を身につけ、数人ずつの部隊にわかれて、それぞれ異なる武器を持っていた。槍、剣、戟、弓――それらの武器はどれも派手な装飾が施され、実戦では使い物にはならないのは明白だった。
パレードに実戦的な武器を持ち出されても困るが。
「さてさて、今年のパレードのテーマはなんでしょう?」
とは、クオン。窓ガラスに背中を預けるようにして立っている。
「まあ、いきなりですね」
「あ―、わたし知ってるからパース」
「テーマ? テーマねえ」
カナンは、空いている左手で胸元を探った。ガイドブックを取り出すためだ。市民の日のパレードが、毎年異なるテーマで行われていることなど知らなかった。
「カナっぺ! カンニングはダ・メ・ヨ」
「わーったよ! 考えりゃあいいんだろ、考えりゃ」
ここは素直に従っておくことにして、カナンは、視線を広場に戻した。そもそも、ガイドブックをどこにやったのか思い出せない。サラたちを待っているときの時間潰しに見ていたことは覚えているのだが。
音楽隊の奏でる勇壮な旋律とともに、甲冑の一団と入れ替わるように広場にやってきたのは、あざやかな真紅の一団だった。燃え盛る炎のようなイメージを与える派手な衣装を身に纏い、音楽に合わせて踊りながら行進する。
「あれは戦火ですよ」
サラが、そっとカナンに耳打ちしてきた。彼女の息吹がこそばゆい。
「つまりあれか、戦争か?」
「おしいけど、それだけじゃ正解はやれないよん」
続くのは、緑色の軍団。青の一団よりも軽装で、派手さにはかけるが、動きやすそうな鎧兜を身につけ、装飾の控えめな武器を携えていた。音楽の転調とともに、その手に持った武器を振り回しながら行進する。
闘争へと駆り立てるような、激しく、苛烈な旋律。
「当時、大陸はまさに戦国乱世といった有様でした」
サラの囁きが、カナンの耳に心地よい。
「ミオン、レ・ニ、ウルバーンといった大国をはじめ、ケブル、タイラス、シーファ……数多の国々が大陸の覇権を巡って、闘争に闘争を重ねていました」
再び、転調。
悲しく、重苦しい曲調に合わせて、黒装束の集団が広場へと入ってくる。いままでの軽やかな行進とは異なる、重くひそやかな足取り。観客も息を飲んで成り行きを見守っている。
「長い長い戦乱の時代、国も民もただただ疲弊していきました」
「そりゃあ天にだって祈りたくなるわね」
いつの間にか窓際に来ていたエリザが、クオンを羽交い絞めするようにしながらつぶやく。
「そして」
またしても転調。
重厚にして荘厳な旋律と純白の一団が、さっきまでの暗く重い雰囲気を一掃した。いままでにない歓声が、広場や沿道のそこかしこから上がる。
「天使たちの降臨」
一団が身に纏う純白の装束は、サラの言葉通り、天使を模倣しているのだろう。金色の冠は天使の輪を連想させ、ひらひらと揺れる白のマントは、天使の翼をイメージさせた。
彼らが武器を手にしていないのもまた、伝承による。
「天使たちは、数多の奇跡によって大陸から闘争を一掃しました」
戦いにつぐ戦いに疲れきっていたものたちにとって、それはまさに救いだったのだろう。
「だれもが――そう、だれもが天使たちを歓迎しました。民だけではなく、王も臣も将も兵も、諸手を上げて天使たちの到来を喜んだのです」
天使の行進に続くのは、さまざまな格好をした一団だった。軽やかで爽やかな音色に合わせて踊るのは、かつての王を始めとする臣下万民だろうか。
王冠を被ったもの、宰相のような格好の男、将官たちに兵士が混じり、数多の民がそれに続く。
観衆が、その列に加わりたそうにうずうずしているのがわかる。ここまで来ると、パレードとしては大成功だろう。
「そうして数多の国々は飲み込まれ、解体され、大いなる名の元に再構築されていったわけだ。人間の時代の終焉って奴だな」
カナンはつぶやきながらも、自分がなにを口走っているのか理解していなかった。
脳裏を駆け巡る文字を言葉にしている、そんな感覚。
「えっ?――」
サラが不思議そうにこちらを見たことで、カナンは、自分を取り戻した。
「気にしなくていいよ。たまにあるんだ、わけわかんないことを口走るときがね」
クオンのそれはフォローと言えるのかどうか。
案の定、エリザが引き気味に言ってきた。
「それってヤバくない? って言うか、あんた大丈夫?」
「酷いな、さすがに」
カナンは、むっとした表情になったものの、サラの心配そうな視線を感じて、すぐに笑った。
「いや、大丈夫」
それは必ずしも本音ではなかったが、サラの表情を変えることには成功したようだった。
「それならいいんですが」
多少明るい顔で、サラ。
「で、さっきのクイズの答え。わかったよね?」
当然とでも言わんばかりに、クオン。
カナンは、馬鹿にされたような気分になった。
「《戦乱の始まりと終わり、この都市の成り立ち》ってところだろ?」
「もう面倒だから、それでいいや」
「なんだよ、適当だな」
「カナどんには言われたくないね」
クオンが、悪戯っぽく舌を出す。小憎らしくもあり、可愛らしくもある。この二律背反が、クオンの魅力なのだろう。
「正確には、《戦乱の終わり、天の救い、人の世の幕開け》よ」
珍しく真面目な口調で、エリザ。
(なに言ってんだか。人の世は終わってしまったんだよ)
失われた時代を哀れむ必要はない。ただ、事実を忘れてはならないのだ。
人々は天使の到来を待ち望んでいたが、さて天使たちはどうだろう。彼らには、人の世を存続させる理由はない。
(ん?……なんの話だ?)
カナンは、自分で考えたこともわからず、もどかしさで苦しくなった。
「エリザのお父さんが関わってるんですよ。今年のパレード」
「へ~、凄いや!」
「去年も一昨年もよ。市のお祭り担当だからね、パパの部署」
照れ臭そうでいてどこか誇らしげに、エリザ。実際、嬉しいのだろう。親の仕事が、これほど多くの観衆を沸かせているのだから。
「さて、お次は?」
カナンは、いちゃつきはじめたクオンとエリザから視線を外し、広場を見やった。
長い長い臣下万民の行列のあとに控えていたのは、またしても天使たちの行進であった。ただし、今度は白一色ではない。
色とりどりの衣装を纏った天使たちが、背後に光の輪を浮かべて、あるものは空中を舞い、あるものは地上を滑るように移動する――そのパフォーマンスは想像を絶し、驚きのあまり観衆のだれもが息を飲んで見入っていた。
「凄い凄い凄い凄い!」
人間が、なんの仕掛けもなく空中を散歩するかのように浮かんでいるのだ。感動しないほうが、どうかしているのだろう。
「ほんとに……!」
「信じられないわね……!」
サラもエリザも、興奮して眼を丸くしていた。
カナンだけが、極めて冷静だった。いや、そうなったのは天使たちの飛行を見た瞬間だった。それまではのほほんとしていたはずなのだが。
意識が急激に冴えていき、ある種の感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていった。視野が拡張し、今まで見えなかったものすらも認識できるような錯覚すら覚える。
カナンは、己の両目に強い力が集まっているのを感じた。淡い青さを湛えていたはずの瞳は、いまや金色の輝きを帯びていた。その視線の先には、天使たちの光輪。光の輪は、発光するなにかが高速で回転していることで、輪のように見えているのがわかった。
「エンジェル・リングの展開を認識――高速詠唱術式の解析――重力の中和、及び空中での姿勢制御――即ち《飛行》」
カナンは、自分でもなにを言っているのか理解できなかった。さっき以上の混乱が、頭の中に押し寄せてくる。
「《天使》――二百――《大天使》――二十――《権天使》――二」
大した兵力じゃない。《能天使》も《力天使》もいないのだ。これならリリスに応援を請うこともないだろう。
(なんだ? リリス? だれだ?)
カナンの混乱はひどくなる一方だった。謎の言葉が謎の言葉を呼び出し、そこへさらなる謎が連なって、がんじがらめになっていく。