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第五夜 夢の墓標(3)

「ふう……」

 爆散した《聖躯》の残骸が燃え堕ちていく様を見やりながら、彼は、ゆっくりと息を吐いた。外套の炎は消え、熱気だけが彼を取り巻いている。

《聖躯》を破壊するためとはいえ、力を使いすぎた。夢の中であっても、無尽蔵というわけにもいかないらしい。腹が鳴った。

 熱風が頬を撫でる。汗が流れた。あの猛火の中、身体中の水分が絞り出されてもおかしくはなかったが、この程度で済んでいるのは彼が纏う装束のおかげだった。人間の身には耐えられない熱量も、この紅衣ならば耐えられる。

「怒りってのは、結構消耗するものなんだぜ?」

 カナンは後ろを振り返るなり、機先を制するようにいった。熱気渦巻く空の上、御弾沙羅みたまさらなどと名乗った力天使の化身が浮かんでいる。夢の深淵から浮上してきたのだろう。距離にして約十メートル先。

 彼女の本体とでもいうべき力天使はリリスによって滅ぼされたはずだが、無様な夢の中だ。どのような道理も覆されうる。

「それなら、空腹など感じぬようにして差し上げましょう。永遠に」

 そう微笑した白衣の天使の背後に、鮮烈な光を放ちながらエンジェル・リングが出現した。神秘言語の複雑な文字列が回転を始める。高速詠唱による術式の構築が見て取れた。尖鋭的な破壊のイメージがカナンの視界を埋めていく。《悪魔》の眼が、空中に描き出されたそれを捕捉している。

「地獄の底でも腹は減ったよ」

 カナンは外套を翼のように広げると、残る火力を爆発させて翔んだ。視界が激しく揺れる。一瞬にして間合いを詰め、沙羅の眼前へと到達した。女の仮面のような微笑が、網膜に焼きつく。女の心臓めがけて右手を突き出す。が、その手が女に触れるよりも、彼女の反応のほうがわずかに早い。女の手に炎の剣が具現し、炎に包まれた紅衣を貫いた。異なる性質の炎がせめぎ合い、爆炎の渦となって拡散する。

「油断しすぎですよ」

「そうだな。油断のしすぎだ」

 カナンは、爆散する衣と旋回するエンジェル・リングを視界に収めながら、沙羅の背中に右手を突き入れた。女がこちらを振り返る。驚愕に見開かれた眼は、こちらの本質を理解していない証。

「おまえが言ったことだよ。夢を見たら堕ちるしかない」

 カナンは、冷ややかに告げると、沙羅の体から右手を引き抜いた。心臓を突き破り、命脈を絶った右手は、血にまみれ、どす黒く染まっている。

「それが道理。宇宙の条理。この世の法理」

 力天使の化身は、力を失いながら落下していった。エンジェル・リングが崩壊し、術式が霧散する。空間に描き出された破壊の方程式は、でたらめな数式へと変わり、世界に飲まれていく。

「彼が定めた掟だよ。それを忘れてはならない。天使は、ただ機能でありさえすれば良い。ま、ドミニオン如きの歯車にはなるべきではないがね」

 カナンは、視線を地上から周囲に移しながら、目を細めた。沙羅がこちらの注意を引きつけている間に包囲する予定だったのだろう。実際、包囲は完成に近い。数え切れないほどのエンジェル・リングの輝きが、彼を取り囲んでいる。大小無数の天使の輪。ドミニオンに与えられた全兵力。

「十万の天使」

 カナンの耳に唱和が届いた。大気を震わせる無数の歌声。神秘的で荘厳な合唱。それは、エンジェル・リングの歌声に違いない。数え切れないほどの呪文がカナンの周囲を飛び交い、戦場に花を添えるかの如く咲き乱れていく。

「一万の大天使」

幾万の神秘言語の羅列が導くのは、対象を攻撃し、破壊し、根絶するための術式であり、その冷酷な結論へと至るために複雑さを増す呪文が、そのまま詠唱の長大化へと繋がっていく。

「千の権天使」

 もっとも、それは現世での話だ。対象を徹底的に破損し、粉砕し、殲滅するための魔法を紡ぐのに、ここではそれほど時間がかからないかもしれない。

「百の能天使」

 カナンは、ついに笑ってしまった。それでは足りない。まったく、全然、これっぽっちも。

「八の力天使」

 確かに、ふたりの力天使は想像以上の力を振るい、カナンを多少なりとも追い詰めたのかもしれない。だが、詰めが甘い、それでは、根本的な解決にはならない。追い詰めるだけでは、《悪魔》を倒すことなど出来ないのだ。

「ドミニオンがいないじゃないか」

 カナンは囁くように言って、周囲を一瞥した。数多のエンジェル・リングの唱和は既に終わっていた。一瞬の静寂。嵐の前の静けさとでも言うべきか。

天使たちが、合唱する。

『光よ!』

 十万の天使が掲げた両手の先に生じたのは、鮮烈な光だった。無数の光芒となって、カナンへと殺到する。

『炎よ!』

 一万の大天使が振り下ろした手より放たれたのは、火球。すべてを焼き払う灼熱の塊が、さまざまな軌道を描いてカナンへと飛来する。

『雷よ!』

 千の権天使が翳す指先より迸る雷光は、数多の稲妻となって急角度の蛇行を繰り返しながらカナンに集約する。

『風よ!』

 百の能天使が腕を振り上げたのと同時に、カナンの周囲に発生したのは、竜巻。渦巻く破壊のエネルギーは、路面を掘削しながらカナンへの距離を縮めていく。

『千なる王の剣よ!』

 八の力天使が、その力のすべてをもって生み出したのは、数えきれないほどの剣。形状の異なる無数の刃がカナンを包囲するように出現し、間断を置かずに突貫してきた。

「足りないんだよ。それでは俺を滅ぼせない」

 破滅的な魔法の渦中にあって、それでも彼は余裕を崩さない。金色の目(、、、、、、、、)を見開き、すべての魔法を視認しようとする。殺到する破壊の奔流。ただこちらを滅殺するためだけの、単純にして凶悪な魔法たち。だが、取るに足らない。

「そしてこっちは空きっ腹と来ている」

 カナンは、口の端を歪めると、腹の音とは異なる獰猛な唸り声を聞いた。漆黒の外套(、、、、、、、、、、)を翻し、解き放つ。外套の袖や裾から、なにかが、物凄い勢いで抜け出していく。無数の黒い物体は、魔法にも負けぬ咆哮を上げながらカナンの周囲を蹂躙していく。カナンの黒衣から現れたのは、漆黒の触手にも見えたが、先端に獣の頭部を持っていた。獅子や狼、獰猛な獣を模した頭部を持つ黒き獣たち。貪欲な飽食家たち。

「其は《暴食》。黒き金色の獣。飽きることなくすべてを喰らい、飽きることすら貪り喰らう」

 カナンは、黄金色に輝く瞳で天使たちを一瞥した。解き放たれた黒き獣たちが、荒れ狂う破壊の魔法を食い尽くさんと息巻いている。時間の問題だろう。光も、炎も、雷も、あらゆる魔法を喰らい尽くし、天使たちさえもただの糧と成り果てる。

「相手が悪かったな」

 彼は、際限なく現れては魔法に食らいつく獣たちを見遣りながら、冷ややかに告げた。








「人間の望みなど、わたしにわかるはずがないだろうに。どうしろというのだ――」


 苦悩に満ちた男の声が聞こえたのは、少女が扉を押し開いた瞬間だったと、リリスは記憶している。扉の向こうから迸った閃光が網膜を染め上げたのは一瞬であり、その刹那に、なにかに苦しむ男の声が聞こえたのだ。

 リリスは、その声の主をよく知っていた。少なくとも、いまは眠るこの街の住人たちよりはよっぽど彼についての知識はあるだろう。

「ラザクル」

 男の名をつぶやいて、リリスは、視界を染めた光が消え去っていくのを感じた。目の前に生まれるのは、新たな景色。扉の向こう側の世界。

「……?」

 少女が、困惑とともに歩き出したのを止めることなどできるはずもなく、リリスもまた、扉の奥へと足を踏み入れた。

 扉を抜けるとそこは、晴れ渡った空の下だった。さっきまでの曇天とはまるで異なる空の表情は、すべてを祝福するかの如き笑顔とでも形容すべき代物かもしれなかった。

 雲ひとつなく、中天の太陽が燦然と輝いていた。陽光は暖かく、なにもかもを包み込むように降り注いでいる。風は穏やかそのもので、頬を撫でる微風は、さながら旅人に戯れる風精を想起させた。

 広い空間だった。

 地面は石の板で敷き詰められており、地肌は一切見えなかった。まるで大地の存在そのものを根本から否定するような暴挙にも思えたが、もちろんそんなつもりもないのだろう。

 周囲には、尖塔のような漆黒の物体が立ち並んでいた。まるで墓碑のようなそれは、輝くほどに磨き抜かれており、表面には、それぞれ異なる姓名が刻まれていた。

「ひとが死ねば、その肉体は母なる大地に還る」

 クオン=シオンの声は、前方から聞こえてきた。まるでなにか歌劇でも演じているかのような声は、どこまでも響いていく。

「肉体の檻から解き放たれた魂は、重力という縛鎖に囚われることもなく天に昇る」

 前方――少女の進む先に聳える一際巨大な墓標の元に、クオン=シオンの姿はあった。喪服のような漆黒の装束を纏い、優しげな輝きを帯びた花束を大事そうに抱えている。

「あの素晴らしき天上の楽園へ。あの芳しき至福の花園へ」

 花束は、なにもクオン=シオンが抱えているものだけではない。彼の背後に立ち尽くす墓碑に、無数の花束が捧げられていた。

 鎮魂のためか、哀悼の意を示すためか、みずからの心を慰めるためか。なんにせよ、その墓碑に眠る人物は、よほど多くの人たちに愛されていたらしい。でなければ、献花が墓標の半ばまで埋め尽くすことはないだろう。

「だが、この街ではどうだ?」

 なにを想ったのか、少女が駈け足になった。墓標を見上げてからだった。墓碑銘を確認するためかもしれない。

 リリスも急いだ。漠然とした不安が、彼女の体を突き動かしていた。いやそれ以前に、クオン=シオンの悠然たるまなざしが、どうにも気に食わなかった。

「彼の愛から隔絶された《封印都市》では、いったいどうなると想う?」

 なにかを企んでいて、その計画の完成が間近だというのに結果がどうなろうとも構わない、とでも言いたげなまなざし。むしろ、計画が頓挫しようが企みが潰えようが、彼にはなんの痛手もないのだろう。

 それだけは、間違いない。

「遥か頭上を覆い尽くす天蓋も、四方周囲を断絶する鉄壁も、死者の魂がこの地の獄の如き都から抜け出すことなど許さない。天に昇らざる魂は、さまようしかない。永遠に近く迷走し続けるしかない。その魂が擦り切れてこの世から消えて無くなるまで」

 偽りに満ちた青空の下、クオン=シオンの自信に溢れた言葉は極めて空虚なものに想えてならないのだが、それでも、リリスは彼を睨み据えるしかなかった。

「なにが言いたいクオン=シオン……!」

 リリスのどすを利かせた言葉に対し、彼は、こともなげに微笑を返してきた。

「ありがとうってことさ」

「なに……?」

 クオン=シオンの燦たる笑顔には、リリスは、いつものように険悪なまなざしを投げ返すだけだった。それは当然だろう。彼の笑顔に潜む、無垢なる悪意とでも言うべき本性を知っていれば、彼の表情をそのまま受け取ることなどできない。

「君とカナンのおかげで、彼女を見つけることができた。本当に感謝しているよ」

 彼の視線が、彼女の前方を進む少女に投げかけられたとき、リリスは、瞬時にして少女の眼前へと跳躍してみせた。一部の隙もなんの躊躇もない俊敏かつ迅速な行動は、少女の前進を制するはずだった。クオン=シオンに彼女を渡してはならない。それだけは確信を持って言い切ることができた――が。

「ほら、これは君のものだよ」

 クオン=シオンの優しげな声音に、リリスは、愕然と前方を見やった。ついさっきまで背後にいたはずの少女の姿が、花束を捧げるクオン=シオンの目の前にあったのだ。

「えっ……?」

少女の困ったような声を聞き流しながら、リリスは、瞬間的に意識を切り替えた。地を蹴るようにして、飛ぶ。

「忘れてしまったのかい? でも、大丈夫。すぐに思い出せるさ」

 クオン=シオンの表情は、慈悲に満ちた聖母のようでありながら、甘言を囁く悪魔のようでもあった。少女は、彼の悪魔的な面に気づいてなどいないのだろう――微塵のためらいもなく、クオン=シオンの手から花束を受け取っていた。

 刹那、リリスは、クオン=シオンが口の端に歪な笑みを浮かべたのを認めた。叫ぶ。

「待て!」

 声を上げるリリスの背後でエンジェル・リングたちが合唱し出したのは、あまりにも遅かった。いまから術式を構成したところで、間に合わないのは明白だった。なにが起きるのかはわからない。だが、クオン=シオンがなにもしないはずがないのだ。

リリスは舌打ちした。うかつなのは、自分も同じではないのか。

「アリス・ワンダライズ」

 クオン=シオンが紡いだその言葉が、少女の名前そのものなのだとリリスが理解したのは、直感などではないだろう。彼の背後の墓標に刻まれた文字をいつの間にか認識していたからだ。


《アリス・ワンダライズ、ここに眠る》


「アリス・ワンダライズ……」

 少女が、つぶやくように言った。小さな声音だった。今にも消え入りそうなほどにか細く、か弱い。それほどまでに小さな声が空中にいるリリスの耳に届いたのは、ここが現実から乖離した領域だからなのだろう。

「それがわたしの……名前」

少女が、抱えていた花束を手放したのは、前方のそれを見上げてからだった。漆黒の墓標に刻印された名前。クオン=シオンに告げられた、彼女自身の名前。

「そう、君は死んだ」

「!?」

 少女が、硬直した。その華奢な体が、淡い光に包まれていく。いや、その清廉な光は、体の内側から溢れてくるようだった。それは、リリスもよく知る魂の輝きに似ていた。

「アリス・ワンダライズ。君は死んだんだ」

 クオン=シオンの徹底した宣告とともに、光に包まれた少女の肉体の輪郭が崩壊していく。少女の体を構成していたなんらかの力が、その拘束力を失い、内側に押し留めていたものを解き放とうとしている、いや、もはや解き放つしかないのだ。少女の肢体を形作るための力が失われたのだから。

 それは、意志というべきものかもしれない。

「死者は墓の下で眠らなくちゃ。約束の日まで。復活の日まで」

 アリス・ワンダライズの肉体は、あっという間に失われた。衣服も肉体も溶けて消え、その場に残ったのは、清く美しい光の集合体と、少女が落とした花束だけだった。

「ねえ?」

 花束を拾ったクオン=シオンが、こちらを仰いできた。微笑している。いつものように。

「墓穴の底には、おまえたちこそ相応しい」

 リリスは吐き捨てると、右腕を花束を抱える少年に向けた。体はいまだ空中。浮遊魔法など行使した覚えはなかったが、夢の力が働いているのかもしれない。

 クオン=シオンが、軽く肩を竦めてきた。まるで悪戯を咎められた子供のようですらあった。

「返す言葉もないね」

 その少年姿の悪魔の横を、光の集合体が擦り抜けていった。ゆらゆらと揺れ動きながら、しかし、一切の迷いなく、墓標の中へと吸い込まれていった。ほとんど一瞬の出来事に、リリスが反応する暇もなかった。

「もっとも、これから君は言葉を失うんだけどさ」

 閃光とともに、大地が鳴動し、大気が激しく震え出したのは、クオン=シオンが花束を放り投げたのと同時だった。

「!?」

 世界を塗り潰すほどの光の奔流は、アリス・ワンダライズの墓からだった。


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