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第四夜 悪しき夢の淵へ(5)

「……まったく、君という奴は」

 半ば呆れたようにつぶやきながらも、クオン=シオンは、表情が綻ぶのを抑えられずにいた。いやむしろ、裡から溢れ出す歓喜そのままに笑い出したくなっていた。喜ばずに入られない。彼への失望は一瞬にして掻き消された。

 これで、多少は面白くなる。

 閉じていた目蓋を上げて、現実への帰還を果たす。夢のガルナバから、現実の《封印都市》ガルナバへ。クオンにとっては極めて容易いことだった。夢と現の境を行き来することなど造作もない。

 彼を留め置くことなど、だれにも出来ないのだ。

「どうかしたのかね?」

 こちらの様子を不審に想ったのだろう――ラザードが、怪訝なまなざしをクオンに送ってきた。彼にはわかるまい。

 クオンは、なんとはなしに軽くウインクを飛ばして、小さく笑った。そんな反応をしてしまったのは、きっと気持ちが高揚しているせいだ。それもこれも、彼がいけない。《悪魔》をなじるのは無意味なことではあったが。

「なあに、ちょっとしたことだよ」

「彼か」

 ラザードが、間髪を入れずに言ってきた。さすがに気づいたらしい。彼は、憮然とした表情で続けてくる。

「案外早かったな」

 それは、夢の力では《悪魔》を抑えられなかったという厳然たる事実だ。ラザードが憮然とするのもわからないではない。しかし、相手はあの《悪魔》だ。たったひとりで天に挑もうとした化け物なのだ。全知全能に極めて近く、最も遠い存在。クオンが恋焦がれるのも無理はないはずだ。

 だれもが、彼に魅了されている。

《彼》も《天帝》も、リリス=ラグナガーデンも、天使達も悪魔達も、ドミニオンたちも、クオン=シオンも。

 この大陸は、あの少年の姿をした《悪魔》を中心に廻っているといっても過言ではないような気がした。

(それは言い過ぎかな?)

 クオンは、胸中で苦笑した。さすがに言い過ぎかもしれない。彼への評価となると甘くなるのが悪い癖だ。が、別段不愉快ではない。

「でも、これでまた加速する。彼ならきっと、加速させる」

 クオンは、確信とともに告げた。なにもかもが順調だった。不安要素はなにひとつ存在しえず、なにものも、彼の思惑を阻むことはない。例え《悪魔》であっても、それはできない。

 彼はやはり、どう足掻いても抜け殻に過ぎないのだ。大いなる力を失ったのだ。万軍を相手に大立ち回りを演じたかつてとは、違う。もはや、栄光と讃美に満ちた偉大なる存在でも、呪詛と怨嗟の結晶たる絶望的な存在でもない。

 ただの《悪魔》に成り果てた。

 恐れる必要はない。

 それでも、クオンの中では、彼は大陸の中心に成り得た。彼は特別なのだ。そればかりは否定しようがない。

「わたしの夢――」

 遠くを見詰めるようなラザードの姿に、きわめて人間臭いものを感じながら、しかし、結局それは自分も同じなのだろうと断じて、クオンは、彼の言葉を肯定した。

「そう、君の夢。君だけの夢。君の愛しい夢。君だけの愛しい夢。君だけのための夢。君だけのために用意された夢。用意される夢。君だけの。君だけの」

 クオン=シオンは、まるで歌でも歌うようなに言葉を紡いだ。脳裏に思い浮かんだ言葉を並べていく。心地よいのだ。

 さっきからずっと、夢でも見ているかのような快さがある。

 ここは夢の世界ではない。現実への帰還は果たされ、彼の脳内に雑音は残っていない。それでも、夢見心地だった。理由はわかっている。

 それを感じているからだ。胎動を。蠢動を。

「彼も、彼女も、君の天使たちも、数多の人間たちも、そのために消費される。消費され尽くされる。浪費し尽くされる。代価として。対価として。代償として」

「楽しそうだな……」

 どこか冷ややかな、あるいは侮蔑にも似たまなざしを浮かべてきたラザードに対し、クオンは、にこやかに笑い返すだけだった。彼がどう思おうと知ったことではないし、彼がそのような感情を抱くのはお門違いだ。始めたのは彼であり、彼の夢が現状を生み出している。この状況を築き上げている。彼が望まなければこのような事態には成り得なかった。

 そして、彼がそれを望まないことなど有り得ない。

「楽しいね。実に楽しいよ。この《封印都市》の中で、堕ちることなく、裁かれることなく、背信と背約を積み重ねる君を見守るのは、至上の愉悦。ふふ。そんな顔をしないでよ。君のために尽力しているぼくがどのようなことに喜びを感じようとも構わないだろう?」

「……その通りだな」

「物分りが良くて助かる。さすがはドミニオンといったところかな」

 クオンは、いたずらっぽく笑うと、片目を閉じてウインクを飛ばした。瞬間、彼の魂に強烈な衝撃が走った。凄まじい怒りに満ちた衝動。憤怒の咆哮。それはある種官能的な情動を伴って、クオンの全身を駆け巡った。

 彼は、体中をのたうち回る快感と激痛に笑みを浮かべた。ただ名を呼ぶ。

「カナン!」

 それは、《悪魔》の力の片鱗。





 暗雲の下に輝く小型の太陽とでもいうべき火球は、猛烈な熱波を撒き散らしながらこちらへと迫ってきていた。進路上にあるものすべてを焼き尽くさんがばかりの勢いだった。力天使との間に横たわるわずかばかりの距離など、瞬く間に消えて失せるだろう。それは予想ではない。無数の経験から来る確信。つまり、さっさと回避行動に移らなければ、炎に飲まれてしまう。

 が、リリスは、目の前の少女を左腕で庇っただけで、避けようともしなかった。表情ひとつ変えず、眼前の猛火を見遣っていた。燃え盛る灼熱の球体は、さながら煉獄の業火のように見えなくもなかった。もっとも、煉獄のそれより数段劣るが。

「逃げないんですか……!?」

 リリスは、どこか虚無的であった少女が必死さを露わにしたことに多少の驚きを覚えた。見下ろす。人形のように整った顔に少しばかりの焦りが浮かんでいる。わずかな変化。しかしそれだけで十分だった。彼女が無意識にもここで焼かれるわけにはいかないと思っていることがわかったのだ。

 鍵であることの証左と考えてもいいのではないか。

「逃げ切れないさ」

 リリスは、穏やかにいった。逃げるのなら力天使の火球が解き放たれる前に動いている。

「そんな……!」

 少女が、愕然としたらしい。らしいというのは、声色や表情に特別大きな変化がなかったからだ。灼熱の火球に照らされていてもわからない。いやむしろ、激しく揺らめく火影が、表情を掴みにくくしていたのかもしれない。

 リリスは、ただ告げる。にべもなく、ありのままに。

「そもそも逃げる必要がないのだよ」

「えっ……?」

 少女が疑問符を浮かべた瞬間――火球がリリスたちに到達する寸前、甲高い叫び声が響き渡った。強烈な悲鳴。力天使の絶叫。

 リリスが前方に目を向けると、紅蓮の炎が眼前を覆うかのようだった。しかし、火球は、まるで彼女の視線を畏れるかのように逸れていく。力天使による制御を失ったからに違いなかった。

 火球は、魔法ではない。エンジェル・リングによって発動する魔法とは異なるルールによって現出している。そのルールの根幹を為すのが炎の剣であり、柄を握り締めていた力天使なのだ。剣を手放してしまえば、制御できるものも制御できなくなるのは道理だ。

 見れば、力天使の左腕が盛大に吹き飛んでいた。当然、左手で握っていた炎の剣も宙を舞う。火球が暴走してあらぬ方向に飛んでいったのは当然の結果だった。

 火球は、急速にリリスたちから離れていく。なにかに激突して爆炎でも撒き散らすのか、進路上のすべてを融解させながら、燃えて尽きるまで飛翔し続けるのかはわからないが。

「ほら」

「なにが……?」

 少女は、きょとんとしていた。なにがどうなったのかわからないのだろう。当たり前だ。魔法の魔の字もわからない人間に理解できるようなことではなかった。だからといって、一から十まで教えてやれるようなことでもない。いや、教えようと思えば教えられなくもないのだが、少女が理解できるようにどれほどの時間を費やさなければならないのか。考えるだけでひどく頭が痛んだ。

「無敵のわたしの素敵で不敵な大魔法が、無能なあやつの無謀な野望を打ち砕いただけさ」

 リリスは、説明する気にもなれず、思いついた言葉を適当に並べ立てた。彼女の目は、前方を見据えている。

 右腕に続き左腕まで失った力天使は、燃え滾るほどの怒りを露わにしていた。凄絶なまなざし。さきほどの火球を思わせるような怒りだった。しかし、リリスは涼しい顔をしていた。力天使の怒りなど、彼の憤怒に比べれば涼風に等しい。

「リリス=ラグナガーデン!」

 吼えてきた力天使の左腕からも、鮮血ではなく閃光が噴出していた。天使なのだから当然なのだが、その光を翼のように広げるのはどういう了見なのだろう。翼が天使の象徴だったのは遥か昔の話だ。戦闘状況になければ、いまさら翼を見せつけるなど時代遅れもいいところだと忠告したいところだった。

 まったく違うことを、極めて冷ややかに告げる。

「だから全力で名前を叫ぶな。恥ずかしい」

「ならば!」

 力天使が、両方の光の翼を羽ばたかせた。数多の光が粒子となって舞い踊り、力天使を幻想的に飾り立てる。普通の人間ならば、その神々しくも美しいとさえいえる姿にただ圧倒され、畏怖するだろう。そこに信仰の対象を見出してもおかしくはないくらいには神秘的で、威圧的だった。

「その名前もすべてユメマボロシと消して差し上げましょう……!」

 力天使が、翼で大気を叩いた。彼女の体が宙に浮かび上がり、次の瞬間、撃ち放たれた弾丸のようにこちらへと殺到してきた。直線的で、尖鋭的な軌道。その速度は極めて早く、リリスまでの距離など一瞬で無にしてしまうほどだった。しかし、リリスは、反応さえしなかった。こともなげに否定する。

「いや、それは無理だ」

 彼女は、目の前の少女さえ庇おうとはしなかった。まるで力天使の攻撃を受け入れるかのように、悠然と佇んでいる。もちろん、リリスにそんなつもりはない。冷徹に、言葉を続ける。

「おまえはもはや、このわたしに触れることすら敵わない」

 だが既に、躍動する力天使の肉体はリリスの眼前に在った。超高速の飛翔から繰り出されるのは、蹴り。当然、ただの蹴りなどではない。鋼鉄の塊さえ容易く粉砕するような威力を秘めいている。だが。

「いま――!」

 天使の叫びは、轟音とともに寸断された。吹き飛ばされたのは、力天使の台詞だけではない。力天使の女性的な肢体そのものが、リリスの視界から左方向へと消えていったのだ。まるで見えない巨人の手に掴まれ、無造作に投げ飛ばされたかのようだった。

「そう、叶わない」

 リリスは、天使を目で追った。

 遥か上空に吹き飛ばされていた力天使の腹部には大きな穴が開いており、そこからは、目映いばかりの光が止めどなく溢れていた。莫大な光の噴出。内臓などは見えるはずもない。人間ならば即死間違いないほどの致命傷だった。しかし、天使という神秘の存在には、どれほどのダメージとなるのか。

「おまえの夢も」

 空中で態勢を整えようとしたのだろう――力天使が光の翼を羽撃かせたが、次の瞬間、光の翼が突如として砕け散った。まるでガラス細工のように砕け散り、ばらばらになって降り注ぐ。

 目に映らないほどの速度で飛翔する物体に撃ち抜かれたのだ。

「理想も」

 愕然とする力天使の右足が、またも見えざる力によって粉砕された。

「希望さえ」

 つぎは、左足の足首が破壊された。

「泡の如く弾けて消える」

 そして、うねるように襲い掛かる破壊の連鎖が、力天使の無惨な体を粉々に打ち砕き、そのすべてを散乱する光の中に消し去っていった。破壊の嵐の中で生じた大量の光が、舞い散る無数の花弁のように夢の空に彩を添える。

「まったく、嘆かわしいな」

 リリスは、きょとんとこちらを仰いできた少女のことなどお構いなしに、軽くため息を浮かべた。この幻の勝利に、感慨などあるはずもない。

「力天使とあろうものが、あの程度の魔法にすら対応できないとは」

「さっき大魔法って……」

 少女がおずおずと口を開いてきた。やはり、その表情からはなにも読み取れない。無機的かつ虚ろな表情。わずかに安堵したようにも見えなくもない。

「ん? ああ、大魔法には違いないがな。わたしの術式を解読していれば、対処できない魔法ではなかったのだよ」

 もっとも、自分の大技に夢中だったあの天使に、術式を解読するほどの余裕はなかったのだろうが。

「さて、と――」

 リリスは、少女から視線を外すと、速やかに後方を振り返った。遥か彼方に浮遊する《聖躯》の威容は、いつにも況して攻撃的に見える。全長二十メートルを超える巨躯を誇る、要塞のような化け物とでもいいのか。

《聖躯》。

 対悪魔殲滅外装の呼び名の通り、悪魔との戦闘用ではなく、悪魔を殲滅するために造り上げられた兵装であり、その戦闘能力は極めて甚大だった。そう簡単に持ち出せるものでもないし、ましてや神勅もなく運用されることなどあるはずがない。しかし、この夢の国で神勅が下されるわけもなく、つまり、紛い物と見て間違いない。

 だが、紛い物だからといって甘く見てはいけない。あれが、カナンを撃ち落としたのもまた、事実ではあるのだ。

 リリスは、嘆息を浮かべた。

 ある程度の魔法なら無力化する装甲を打ち破るのは、リリスといえど容易いことではなかった。しかも、《聖躯》の耐魔法装甲は多層構造であり、一枚突破しただけでは掠り傷をつけただけといっても過言ではない。対魔法装甲をぶち抜き、本体である力天使に致命傷を叩き込むのは骨が折れるだろう。無論、やってやれないことはない。

 こちらには四つのエンジェル・リングがある。すべてを最大限に酷使すれば、それなりの結果を得ることもできよう。

(いや……)

 リリスは、頭を振った。ここは夢の国だ。紛い物とはいえ、どのような強化が施されているのかわかったものではない。うかつに手をだして手痛い反撃を食らうのは面白くもない。うかつはカナンの専売特許だ。

 さらにいえば、四つの腕に装備された武器もまた厄介だった。それ自体、神秘言語で構築された神器クラスの対悪魔兵器なのだ。

燦槍さんそうクラウセファーに剛剣グリムグラス、輝天宝杖きてんほうじよう、エゼルの盾……か」

 リリスが目を凝らして確認した武器のどれもが、第一級封印処置が施された神器と同等の力を秘めており、実際に運用すれば天変地異を起こすほどの代物だった。実際、それらが同時に運用された際、世界は壊滅的な災害に見舞われたのだ。修復不可能なほどの天変地異は、無論、その四つの武器だけが原因ではなかったが。

 それでも、嫌な予感を抱かざるを得ない。夢の世界に顕現した《聖躯》など、無残な模造品に過ぎない。紛い物なのだ。武器とて同じく偽物に違いなかった。だが、だからといってその力が本物に遠く及ばないかというと、そうではない。

 さっきから思っていることではあるが、ここは夢の世界だ。

 夢の力によってどれほどの強化がなされているのか、考えるだけため息が出る。相手にしようなどと微塵も思わなかった。

「ともかくも――」

 リリスは少女の手を握ると、驚いて目を丸くした彼女には構わず、当初の進路へと向き直った。

「あれは無視!」

 力天使程度ならばいざ知らず、夢想によって能力が底上げされた《聖躯》など、相手にするだけ無駄だ。無論、勝ち目がないわけではない。だが、いまはくだらない力比べなどしている場合ではないのだ。

《聖躯》との戦いで、無意味に時間を費やす必要はまったくなかった。

「要は、君を直轄区まで連れて行けばいいのだろう?」

 駆け出したリリスは、少女の軽やかな足取りに内心安堵していた。が、表情には出さず、前方を注視する。

 直轄区へと至る大通り。かつてその道を埋め尽くしていた喪服の葬列は、いまや完全に消失していた。人っ子ひとりいない。閑散とした大通りは若干寂しくもあったが、リリスたちが駆け抜ける上では都合が良かった。

「たぶん……」

「いや、きっとだ。君がこの夢の鍵ならば、彼に見出された特異点ならば、その目的の遂行こそが、事態の打開に繋がる!」

 断言するリリスの脳裏には、疑問すら生まれなかった。それは、カナンという存在への確信に他ならない。あの《悪魔》が、無駄で無意味な存在を見出すはずがなかった。彼はうかつだったが、それとは別のところで、彼女の確信そのものの存在だった。

「けれど、それは達成されない」

 その天使の声音に覗くのは、狂気。

 リリスは、はっと背後を振り返った。

《聖躯》の威圧的な巨躯が、リリスの視界を埋め尽くすように聳えていた。

 巨大な四つの腕が構える武器が、装甲の至る所から伸びた無数の砲口が、三つのエンジェル・リングの歌う魔法が、いまにもこちらを撃ち滅ぼさんとしていた。

 リリスは、悟った。

(逃げられん――)

 それは諦観などではない。ただ事実を認識しただけであり、彼女自身は諦めというものを知らなかった。《聖躯》の一斉攻撃を回避する幾通りもの方法が、彼女の脳裏に浮かんだ。だが、それは間に合わない。

「聖なるかな」

《聖躯》の全身から伸びる砲口が、一斉に光を発した。間断なく咲き乱れた爆光が、天地を揺るがすほどの轟音を引き連れて、リリスの視界を真っ白に塗り潰し、彼女の意識を揺らした。強烈な振動。世界が震えた。

 だが、それだけだ。

 リリスの身には、なんの影響もなかった。致命傷を負うこともなければ、掠り傷ひとつ刻まれなかった。痛みも生じず、肉体が損なわれることもない。すべて無事であり、攻撃されたという実感すら生まれ得ない。

 彼女は、疑問符を浮かべた。無意識のうちに魔法による防壁を張り巡らせていたわけもあるまい。エンジェル・リングは常に詠唱してはいたが、それは、とても防御用の魔法とは言い難い術式を紡いでいる。

 なにが起きたのか。

 再び、爆音が聞こえた。

 前方――濛々と立ち込める爆煙の向こうで剛剣が振るわれ、燦槍が投げ放たれたのだろう。輝天宝杖もまた、高く掲げられたのだろう。膨大な破壊の力が絶え間なく乱舞し、物凄まじい轟音を響く。破滅的な嵐が吹き荒んだ。

 しかし、それだけだった。

 なにかが起きている。

 だれかが、彼女たちを護っている。

「……なるほど」

 リリスは、すべてを理解して、ただ目を細めた。いまさらのように認識したその気配に、どうしようもない愛しさと懐かしさがこみ上げてくるが、表情には出さない。感情を理性によって制圧し、疼き出したものを冷ややかに処分する。激情に身を委ねてはならない。己を見失ってはならない。

 彼女がリリス=ラグナガーデンであるために。

 リリスのすぐ目の前――彼女と《聖躯》との狭間に、それは、浮かんでいた。

「ようやくお出ましか」

 リリスは、冷ややかにつぶやきながら、それの体を覆う深紅の外套を睨んだ。燃え盛る炎を想起させる紅の衣は、それの象徴そのものだった。その周囲を、凶悪な熱気が渦巻いている。それはさながら陽炎のように揺らめき、こちらへと撃ち込まれる砲撃や攻撃の数々を受け止めていた。

 いや、受け止めているといっていいのかどうか。

 揺らめく陽炎に触れた砲撃や雷撃は、まるで溶けるように消えて無くなったのだ。神器レベルの攻撃すら融解させる熱量が、それの周囲を取り巻いている。

 圧倒的な力。

 まさに王の名に恥じない力といえた。

「案外速かっただろう?」

 それは、悪びれもせずにいってきた。そして、こちらを振り返ってくる。黒髪の少年の姿をした《悪魔》。背格好は相変わらずだったが、身に纏う深紅の外套とその下に着込んだ装束のおかげで、印象がまったく違うものになっていた。

 カナン。

 彼の眼は、真紅に燃えていた。

「さあ、すべてはここからだ」

 七王の力《憤怒》の顕現――煉獄の紅蓮。


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