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第四夜 悪しき夢の淵へ(4)

「久しぶりだね、友よ。元気にしていたかな?」

 黄金で塗り潰されたその空間はとてつもなく広く、ふたりきりで会見する場所にはあまりにも不釣合いだと、カナンは思った。いつものことではあったが、そう思わざるを得ない。いや、そう考えることで不愉快な相手の声を聞き流しているつもりだった。

 無論、聞き流せるはずもない。

 相手の声は、そういった性質のものだった。

「急に呼び出して済まないとは思っているよ」

 それは本音なのかどうか。

 もっとも、カナンは、相手の内心を窺い知ろうともしなかった。知りたくもないといったほうが正しい。それほどまでに毛嫌いしていた。顔を合わせるのも、声を聞くのも、本意ではない。

 この黄金の空間に立ち入ることさえ、彼の望みではなかった。

 天井も、柱も、壁も、床すらも、磨き抜かれた黄金の領域。

 それはこの空間の主の威厳を引き立てるというより、趣味の悪さを映し出しているように思えてならなかった。純金である以上、安っぽくはない。しかし、なんとも言えぬ趣味の悪さが滲み出ている。

 床に刻まれた紋様にしてもそうだ。大いなる愛を象徴する薔薇の紋章。黄金の床に描き出されたそれは、あまりにも煌びやかで、とても愛というものの美しさを表現できているようには見えなかった。むしろ、虚飾と欺瞞に満ちた偽りの愛に見えた。無論、それはカナンの受け取り方が悪いからに違いない。そんなことはわかっているが、それを変えようとも思わない。

 これが、自分なのだ。

「しかし、こればかりはどうしようもない。我々の都合ですべてが動くわけでもない」

 カナンは、ようやく相手の男を見遣った。荘厳に飾り立てられた広間の最奥に、彼はいた。男は玉座に腰掛けており、悠然とこちらを見下ろしていた。豪奢な玉座だ。地上にあるありとあらゆる宝石で飾り立てたような台座に、六対の天使の翼のような装飾が施されている、座り心地が良いようにはとても見えない。

「ようやく、か?」

 カナンは、玉座へと続く赤絨毯を歩きながら、やはり自身さえも金色に染め上げた男の顔に視線を向けた。顔色を窺うというような殊勝な心がけは持ち合わせていない。ただ、見る。睨み据えるといっても過言ではないのかもしれない。

「そう。彼らが動き出した。四年前、我々に反旗を翻した彼らがね」

 黄金の冠を頭上に戴き、豪奢な金色の装束を纏った細身の男。玉座に腰掛けていてよくわからないが、彼は長身だ。面長で、整った顔立ちをしていた。まるで芸術家が魂を込めて彫った彫像のような、というのは言い過ぎではない。完璧な美を体現している。燃え立つような赤毛は、肩にかかるくらいには長い。

 彼は、《天帝》と呼ばれた。

「それでも天使のままか」

 カナンは、玉座の遥か手前で立ち止まった。距離にして十メートルほどだろう。それくらいの距離ならば、相手の表情の些細な変化も見逃さずに済む。カナンならばそれができる。常人よりは優れた視力を持っていた。もっとも、だからといって《天帝》の表情を余すところなく記憶したいわけではなかった。

「それはそうだろう? 友よ。君と彼らは違う」

《天帝》が、軽やかに笑う。その軽さが、カナンにとっては不快極まりないのだ。なぜこうも親しみを込めることができるのか。まるで本当の友人のように振舞う男が、時におぞましく感じないこともなかった。理解できない感情のうねりに、カナンは、困惑するしかない。

《天帝》が、笑みを崩さぬままに続けてくる。

「あのお方に弓引いた愚かな君と、《封印都市》の理念を貫こうとする彼らとは、根本からして違う」

 カナンは、反論を思い浮かべる気にもならなかった。まったくその通りだ。ぐうの音も出ない。とはいえ、黙っているのも癪なので、カナンは、口を開いた。《天帝》に勝ち誇られるのは御免だった。もっとも、《天帝》がその程度のことで勝ち誇るような人物ならば、カナンがいまここにいるはずもなかったが。

「理念を貫こうとするなら結構なことじゃないか。あのどうしようもないくらいにくだらなく、救いがたい理念であろうとも、その魂を賭けて貫くのならば素敵なことだろう?」

《天帝》が、やれやれと肩を竦めたのは、カナンの思った通りではあった。こちらを小馬鹿にしているように見えて、その実全く馬鹿にしてはいない。むしろ、こちらの反応を楽しんでいるかのような雰囲気さえあった。

「友よ。君の本心がどうであろうと、彼らは我々に背いたのだ。反旗を掲げ、弓を引こうとしているのだ。その行き着く先は君にもわかるだろう?」

「……ならば滅ぼすか? 《封印都市》を根絶やしにするか? 大陸を再び戦火で焼き尽くすか? この地に煉獄を顕現するか?」

「友よ。君は極論に走りがちだ」

 またも肩を竦めて見せてきた相手に、カナンは鼻を鳴らした。どうでもいいことにはどうでもいい結論しか導き出せないのは、だれであれ同じだろう。カナンにとってはどうでもいいことなのだ。天使達がいかな行動を取ろうが、《天帝》に対して反旗を翻そうが、彼にはほとんど関係がない。

 興味の湧くような事件でもない。結果は分かりきっている。《天帝》が軍を発すれば、それだけで勝敗は決する。約束された圧倒的な勝利。なんの面白味もない。もっとも、それは大陸の荒廃と引き換えにしなければ実現できないかもしれいが。

 だからこそ、《天帝》は彼をここへ呼んだのかもしれなかった。

「ふん。そもそも俺には関係がないからな。この大陸がどうなろうと知ったことじゃない。俺はただの敗北者。おまえ如きに使役される奴隷に過ぎない」

「友よ」

《天帝》が、微笑を深くした。怖気の走るような笑み。親友に対して向けるような笑顔。その癖、彼の目は微塵も笑っていない。

「彼らの背後にクオン=シオンの影があったとしても、そう嘯いていられるかい?」




(クオン=シオン……!)

 カナンの脳裏を過ぎったのは、美しい少年の微笑だった。儚げに最後を告げる少年の顔は、どこからどう見ても悪魔そのものでありながら、まるで世界そのもののように思えてならなかった。

 純粋無垢という仮面の下に隠してきた狡猾さを曝け出すとともに、己の欲望をも露わにしていた。それはこの上なく美しいものだと言わざるを得ない。欲望とは、夢と言い換えることもできる。夢を見たがために堕ちたのだ。ならば、全身全霊でもって己が夢を掴もうとする彼の姿は賞賛に値こそすれ、非難されるいわれはなかった。

 例えそれが、カナンへの裏切りによって発現した本性であったとしても、カナンには、その比類なく純粋な悪意を愛しく感じた。

 もっとも、クオン=シオンの夢を受け入れることだけは出来なかったが。



「ひとつになろう」



(それだけは出来ない。それだけは……!)

 カナンは、静かにかぶりを振った。重厚な闇の中、エンジェル・リングの淡い光だけが、彼の満身創痍の体を照らしている。

(俺は俺だ)

 沈黙の中で、認識する。そう、自分はどこまでいっても自分でしかない。他者には成り得ない。ましてや、他者とひとつの存在になるなどと考えられないことだ。それはできない。それをすれば、自分は自分でなくなってしまう。

 漸く獲得した自我を手放すことなど有り得ない。

(俺は俺だ)

 右手を握り締めて、開く。人間のような《悪魔》の体は、人間のそれよりは多少なりとも頑丈に出来ているはずだ。土塊から生まれた人間と、光から生じた天使では、根本からして違うのだ。もっとも、《悪魔》と成り果てた以上、天使と同質であるとは考えにくかったが。

 なんにせよ、破壊された左腕はさっさと復元すべきだ。

 それでも、叫ぶ。

(俺は俺だ!)

 不意に、カナンの脳裏でなにかが弾けた。それは、記憶の奥底から堰を切ったように溢れ出てくる。無数のイメージの断片。数多の映像。幾多の音声。狂乱。恐慌。怒号。絶叫。それらは、閃光の嵐のように頭の中を掻き乱す。

 荒れ狂う暴風雨に曝された無機的な町並み。

 漂う力天使たち。

 眠れる人間たち。

 墜ちたものたち。

 夢の都。

 商業区の伸びやかな町並み。

 クオンとサラとエリザ。

 学業区のどこか窮屈な景色。

 クオンとサラとエリザ。

 工業区のわけのわからない光景。

 闘技場。

 少女。

 大通り。

 葬列。

 少女。

 夢。

 すべては夢。

 無惨な夢のかけらたち。

(ちっ……)

 カナンは、すべてを思い出した。これは夢。愚かな夢。くだらぬ幻想。取るに足らぬ妄想。つまらぬ妄執。

(だれの夢だ? だれがこんな夢を見ている?)

 カナンは、ただ感情の赴くままに吐き捨てた。ふつふつと沸いてくるのは純然たる怒りだ。他人の夢を見せつけられているだけでなく、夢に遊ばれている。弄ばれている。これほど不愉快なことはない。

 そして、カナンはこのようなくだらない夢は見ない。少なくとも、彼の夢はただひとつだった。

 たったひとつ。

 たった一度、夢を見た。

(リリス、おまえの言う通りさ)

 カナンは、怒りを押し殺しながら、忌々しくも愛おしい女の顔を思い浮かべた。完全なる美を体現した女は、いつも難しい顔でこちらを見ているのだからやりきれない。

(《悪魔》が見る夢は、いつだってひとつだ)

 それ以外のすべては、取るに足らない幻であり、飾り立てようもないまやかしに過ぎない。虚偽と欺瞞。《悪魔》の得意とするところではあったが。

(そしてサラシェル。おまえの言ったことも正しい)

 夢を見たから、堕ちたのだ。

 堕ちて、《悪魔》に成り果てた。

(ならさ、おまえたちも堕ちるべきじゃあないのか?)

 だれとはなしに問いかけて、カナンは、苦笑した。この闇の中では、声など出るはずもない。真空というわけでもない。が、声が外に出ることはなかった。いや、出ているのかもしれない。ただ、闇は振動せず、音を伝えようとはしないのだ。

 闇。

(ここは陰府よみ……か?)

 墓穴の底にたゆたうのは、無明の闇であり、一切の光を拒絶する暗黒であるはずだった。その闇に掴まれれば、なにものも声すら出せず、沈黙とともに永劫のときを過ごさなければならない。

 無明にして無音の世界。

 肉体は次第に衰弱していき、精神は緩慢に汚染されていく。なにもかもが腐敗し、崩壊していく。それでも滅びることはない。滅びることすら許されないのだ。

《彼》が下す最大の罰であるそれは、罪業を贖わせるためのものではない。ただ永遠に責め苦を与え続けるためのものだ。故に最後はない。滅びという終点もなく、未来永劫、肉体と魂が朽ちゆくのを感じ続けなければならない。

(いや……)

 カナンは、エンジェル・リングの放つ輝きによって浮かび上がる己の肉体を見遣りながら、確信していた。満身創痍ではあったが、腐敗は始まってさえいなかった。精神も良好そのものといえる。記憶が復活した以上、そう考えるべきだろう。

 つまり。

(これは違う)

 ここは奈落ではない。冥府ではない。地獄ではない。

 断じて、違う。

(ならばこれも夢……!)

 カナンは、呆れ果てた。どこまで行っても夢しかないのだろうか。この都市にあるのは、夢という名の哀れな妄執だけが横たわっているというのか。救いなどあるはずもなさそうだった。救う必要もなければ、そのつもりもないのだが。

 彼は、湧き上がっていた怒りを紅蓮の炎へと昇華させた。魂より噴き出した激情の奔流は憤怒の猛火となって、たちどころにカナンの全身を包み込んだ。業火が、彼の意識に破滅的な痛みをもたらす。

 それは魔法などではない。

 もっと別の――。


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