第四夜 悪しき夢の淵へ(3)
「けれど、墜ちましたよ」
リリスは、力天使が目を細める様子を冷ややかに見ていた。こちらの置かれた状況は悪くなる一方だったが、それでも余裕を失うつもりはない。意識は透明。澄み渡る感覚がすべてを冷徹に把握している。
力天使が、右肩の切り口から噴出している光を変形してみせてきた。どういう原理なのかはわからなかったが、ともかくも、光は、美しい翼を構築していく。光の翼。天使が掲げるには相応しいものではあった。
間合いは、五メートルほど。
「たった今」
力天使が、光の翼を広げた。光の粒子が羽毛のように舞い散る。それと同時に、右腕もろとも地面に落ちていた炎の剣が、彼女の左の掌中に出現する。真紅の刀身は燃え盛る炎を象徴し、柄頭に輝く紅玉もまた、紅蓮の猛火を想起させた。
「墜ちた?」
リリスは、背後の少女の動向にも注意しながらも、力天使を嘲笑った。力天使の勝ち誇る様が余りにも滑稽だった。笑わざるを得ない。あまりに哀れ。あまりに無残。これが本来の在り方を忘れた天使の有様なのだとしたら、リリスとて口を歪めるしかなかった。
力天使が、炎の剣を目線の高さに掲げた。刀身が紅蓮の火炎そのものたる剣は、天使に対しても有効な攻撃手段となる。肉体だけではなく、魂に直接攻撃を加えるという意味において。
とはいえ、リリスの両手に握り締められた長刀が、炎の剣如きに負けるはずもない。
リリスは、目を細めた。
「どこへ墜ちたというんだ? あれ以上どこへ墜ちるというんだ? 彼は投げ落とされたんだぞ? 陰府へ。墓穴の底へ」
力天使が、リリスに向かって突っ込んできたのは、彼女が台詞を紡ぐ最中。力天使は、光の翼で自身の前面を庇い、翼の隙間から炎の剣を突き出すという体勢で突進してきていた。攻防一体。こちらの迎撃を光の翼で受け流さそうというのだろう。
リリスは、猛然と突っ込んでくる炎と光の塊に、ただ冷徹なまなざしを投げた。
「地獄の主たる彼を落とすなど、考えるだけ無駄な話だ」
リリスは、力天使の突進を避けようともしない。炎の剣の切っ先が眼前にまで迫ってきた瞬間、無造作に刀を振るった。剣光一閃。横薙ぎの斬撃は、炎の剣の腹に直撃し、激しい火花と金属音を散らせた。強力な斬撃で弾かれたことによって、突進の軌道が変わる。
熱風がリリスの頬を撫で、長い髪を揺らめかせた。
リリスは、あらぬ方向に飛んでいった力天使を目で追った。左。突撃を阻止された天使は、視線の先八メートルほどの地点でようやく立ち止まることができたらしい。
「現に今!」
力天使が声を荒げながら、リリスに向き直ってきた。光の翼を大きく広げ、炎の剣を頭上に翳す。柄頭の紅玉がまばゆい光を発した。光は一瞬にして爆炎となり、渦を巻きながら剣の切っ先へと収斂していく。火球が生まれた。火球は、力天使の頭上へと浮上しながら、急速に膨張していった。
その火球の発する熱気は、周囲の気温を急激に高めるほどだった。
「夢だろう? ここは」
つぶやくように言って、リリスは、力天使を見据えたまま後方に飛び退いた。軽い跳躍で、鍵の少女の背後に辿り着く。少女が驚いたようにこちらを仰いだが、いまは無視しておく。相手をしてやるゆとりはない。
リリスは、爆発的な勢いで膨れ上がる火球を仰いでいた。
「どれもこれもがユメマボロシの塵芥なら、わたしの小さな願いもかなうのだろうか?」
それは本当に小さな願い。叶おうとも叶わずとも構わないくらいの望み。夢を見ないはずの彼女が見たいつかの幻。
リリスは、刀を足元に突き立てると、静かに言葉を紡ぎ出した。
「起動せよ、我が攻撃意志」
その言葉は、必ずしも口にしなければならないわけではない。しかし、彼女は決まって、その語句を音に乗せた。
そう、それは儀式だ。
「展開せよ、我が防衛意志」
彼女が力を解き放つための。
「詠唱せよ、我が殲滅意志」
そして、リリスの後背に四重の光輪が発現した。淡くも美しい輝きを帯びた四つの輪。エンジェル・リング。高速で回転する神秘言語の群れは、出現するのと同時にリリスの思考を読み取り、彼女がイメージするがままの術式を構築していく。
「全力とはいかない、か」
リリスは、本来とは比べるべくもないエンジェル・リングの数に軽く肩をすくめた。光輪から前方へと視線を移す。力天使の頭上に形成されたのは、小さな太陽の如き火球。その熱量は凄まじいものであり、周囲の建物が融解を始めていた。それほどの熱量が発せられているわけでもあるまい。
夢の演出に過ぎない。
でなければ、リリスや少女にもなんらかの影響が出ているはずだった。強烈な熱気こそ感じるものの、それが命を脅かすほどのものではないのは火を見るより明らかだ。つまり、建物を融解させるだけの熱量を発しているわけではない。
とはいえ、彼女は、多少は警戒した。過剰に演出されているとはいえ、あの火球をまともに食らうのは論外だ。肉体だけでなく、魂までも焼かれかねない。それは笑えない事態だ。
もちろん、真に警戒すべきは、後方から接近してくる哀れな兵器のほうだったが。
「まったく、厄介なものを押し付けてくれる」
リリスは、嘆息すると、こちらを見上げている少女へと視線を向けた。眼が合う。なんの感情も見受けられない、虚ろな瞳。青い瞳。まるで魂の所在すら忘れたような。人形のような。
「さて、君は何者なのだろうな」
「わからない……」
少女が、困惑気味に首を振った。その表情から読み取れるのは、少女が虚偽を告げているわけではないということ。そして、彼女がこの夢の世界の全てを知っているわけではないということ。
自分のことすら理解していないものが、夢のすべてを把握しているようには思えない。
「だが、彼が見出したのだ。この夢の成れの果てで。虚ろな楽園で」
いつ、どこで、どうやって見出したのかはわからない。本人ではないのだ。わかるはずもない。もしかしたら偶然、ちょっとした拍子に見出したのかも知れなかったし、本人には見出したという感覚すらもないのかもしれない。
いずれにせよ、彼に直接聞くのが早い。
そのためには、この状況を打開しなければならない。
「わたしと、数多の背約者以外なにも見出さなかった彼が、唯一の例外として見出したのが君だ。それには、何らかの意味があるということに他ならない」
リリスは、左手で少女の体を引き寄せると、右腕を前方に掲げた。力天使の火球の大きさは、既に半径五メートルほどに達していた。轟然たる猛火の塊。まともに喰らえば、一溜りもない。身も心も焼き尽くされ、再起不能に陥る可能性だってあった。
夢の世界とはいえ。
いや、むしろ夢の世界だからこそ、魂へのダメージは大きい。
「さあ、行きますよ」
力天使が、いつになく強い口調で告げてきたものの、リリスは眉ひとつ動かさなかった。四つのエンジェル・リングは正常に機能していた。術式は完成している。
彼女は、魔法を発動するために呪文の結尾を口にした。
「我が魔弾は汝を射抜く。幾度となく。幾度となく」
「彼は、本当に墜ちたのかね?」
突然の言葉だった。
男の声は、きわめて重く静かなものであり、注意していなければ聞き逃してしまいそうな気がした。しかし、決して聞き逃すことはないのだろう。そういう声音だった。そして、穏やかで威圧感など微塵もない。とても、この都市を支配する人物が発した声音とは思われなかった。
「うん。墜ちたよ。彼は墜ちた」
クオン=シオンは、目蓋を開くなり、相手を確認することもなく答えた。視認せずとも分かっているのだから、わざわざ視界に入れるまでもない。別に目に入れるのが嫌だ、というわけでもない。すぐに答えるほうがいいだろう。その程度の判断。
「君への忠誠に燃える力天使たちが、射落としたんだ」
クオンは、あくびを漏らして、軽く伸びをした。狭い執務室の片隅に置かれた応接セットの、柔らかすぎて逆に座り心地の悪いソファの上。
天井から降りしきる蛍光灯の明かりが、少し目に痛かった。現実とはこんなものだろう。疲労はない。健やかな眠りは、肉体的な疲労も、精神的な消耗も、あざやかに埋め合わせてくれた。
奇妙なものだ。
「まさか《聖躯》まで持ち出すとはね。さすがに今の彼では敵わないか」
それは嘆息に違いなかった。期待はずれの結果にはため息しかでてこない。が、それもある程度は予想できていたことだ。不完全な《悪魔》になにができるというのか。
クオンは、上体を起こすと、ソファに座りなおした。視界にあるのは、壁際に配置された対のソファ。相手は、クオンの少し後方にいるのだろう。姿はまるで見えなかった。
「ちょっと残念」
「それは仕方がないだろう。すべては夢。夢にはなにものも敵わない。天使も、悪魔も、あるいはあのお方すらも」
男の言い様に、クオンは、くすりと笑った。相手の耳に届かないほどの小さな笑みだった。一見すると笑っているのかどうかさえ定かではない、微々たる表情の変化。別に隠すつもりもない。そして、男もクオンの笑みを拒絶しないだろう。彼が例え、こちらの思惑を理解していなかったのだとしても、クオンの在り方を否定することはできない。
そしてクオンは、肯定した。
「そうだね」
ソファから立ち上がり、視線を移す。飾り気のない質素な壁から、後方へ。
「君の夢が、すべてを撃ち落とす。愚直なまでに敬虔な天使たちを。愚昧なまでに我侭な悪魔たちを。《天帝》を。《悪魔》を」
執務室の奥に、男が立っていた。やはり簡素なデスクの向こう。こちらに背を向けて、一面ガラス張りの壁から町を見下ろしているようだった。中肉中背。見事なまでの白髪が、電灯に照らされている。
「すべては君の思い通りに進行している。夢も現もなにもかも。彼と彼女の介入も、もはや関係なくなった。いやむしろ、あのふたりのおかげで、君の夢は加速した」
男が、こちらへと向き直った。背後の窓には、滝のように降り注ぐ豪雨が嵐の到来を予感させたが、それすらもいずれそよ風に過ぎなくなるのだろう。嵐など起きない。
夢が、システムの暴走さえも握り潰す。
「ああ。その通りだ」
男が、クオンの言葉を肯定した。見た目には初老の男。しかしその肌艶は、年相応のものではないだろう。切れ長の眼には、緑色の虹彩が輝いて見えた。
ラザード。
「散逸していたはずの夢がひとつになって現れた。それもこれも、彼が夢を荒らしてくれたおかげだろう」
彼が、笑うでもなく続けた。
「感謝しなくては……な」
闇。
闇。
闇。
音はなく、色もない。
闇。
ただの闇。
黒き闇。
無限の闇。
永遠の闇。
(ここは……どこだ……?)
闇の中で、カナンは、だれとはなしに問いかけた。自問ではない。だれかに問う。答えが返ってこないことなど理解していたが、それでも問わずにはいられなかった。
肉体を包む浮遊感は、この闇の中の重力が微量であることを示しているのか、あるいは自身が無意識のうちに魔法を行使していることの証明なのか。魔法ならば、重力の中和くらい造作もない。初歩的な魔法と言える。
疑問が湧く。
(魔法……?)
よくわからない言葉ではあった。世界を運営する法則に干渉する力。歪な力。それを魔法と呼ぶ。魔法。魔なる法。悪魔の法理とでもいえばいいのだろうか。では、天使たちが歌う神秘言語の羅列は、なんと言い表すべきなのか。
神の法?
天使の法理?
(いや、問題はそこじゃない)
彼は、苦笑を漏らした。無音の闇の中では、声すらも響かなかった。いやそもそも、音声が体外に発生しているのかさえ怪しい。
問題は、もっと根本的なことだ。
(魔法なんて使えたっけ? 俺……)
思い返してみても、まったくわからないのだ。
自分を定義するのであろうカナンという名前以外、なにも思い出せなかった。さっきまでなにをしていたのか、どこにいたのかさえわからない。頭の中が無明の闇に覆われていて、記憶を探し出して拾い集めることすら許されなかった。
不安が生まれた。
不安は瞬く間に焦りとなって、彼の心に影を落とした。焦燥感が全身を駆け巡り、思考回路が迷走を始める。暴走といってもいい。数多の考えが脳裏を錯綜し、無数の声が耳の奥で散乱した。幻想が乱舞し、虚像が饗宴する。
幾多の街並みが見えた。その中を疾走する彼がいた。誰かを追って。誰かに追われて。ときに疾駆し、ときに飛翔する。魔法を行使し、破壊と混乱をもたらす。街並みが壊れていく。天使達が降臨する。再び、破壊の嵐が巻き起こる――。
(なんだ……これは?)
カナンは呻くしかなかった。なにも理解できない。なにも把握できない。なにもわからない。
自分が一体なにものであるのかさえ、認知できずにいた。
不意に映像が停止し、頭の中から散逸する。
(俺は……なんだ?)
それが、自分にとっての主題だったことを思い出した。気のせいではない。確信がある。理解はできないが、確信とはそういったものだろう。そして、確信がある以上、不安はまぎれた。
カナンは、目蓋を抉じ開けた。どうやらずっと閉ざしていたらしい。もっとも、目を開けたところで、視界を埋めるのはやはり漠たる闇に過ぎず、眼を閉ざしていようと開いていようとなにも変わらなかったが。
無量無辺の闇。
それでも、カナンは目を開いた。無意識に閉ざしていた目を開いたのだ。それは大きな変化といえた。ついさっきまで目を閉じていたことすら認識していなかったのだ。変化が起きている。自身の身に。置かれている状況に。
とはいえ、眼前の闇の中になにかを見出すことなどできるはずもない。
この闇は、そういう領域なのだ。
(知っている……)
カナンは、右手を目の前まで持ってくると、視界を塞いだ。闇に変わりはない。そもそも、目の前に持ってきた掌すら見えなかった。それほどまでに闇は深く、そして重い。
それでも彼は、掌の感触に多少の安堵を覚える。掌から伝わる自分の体温が、自身の生命が未だに無事であることを告げていた。滅びてはいない。
肉体も、魂も。
(俺はこの闇を知っている)
だが、どこで知ったのかは思い出せない。
右手だけで頭を抱えてみる。左手には、なぜか感覚がなかった。なにかがあったのだ。左手が動かなくなるようなことが。
戦いのイメージが過ぎる。
苛烈な闘争があった。
(苛烈?)
彼は、苦々しく笑った。あんなものが苛烈ならば、彼がこれまで経験してきた戦いはどうなるのだろう。死闘という言葉さえ生ぬるいものに成り果てる。少なくとも、この左手を失った戦いと過去の闘争を比べること自体がナンセンスには違いない。
(そう、左手は破壊された)
だがそれは、現実に起きたことではないような気がした。現実に手が粉砕されたなら、すぐさま復元していたはずなのだ。
魔法を以て。
(そう、俺は魔法を行使する)
なぜか。
それは人間ではないからだ。人間の姿に身をやつしていようとも、所詮、人外は人外に過ぎない。人間が持ち得ざる、生来の力を行使することに問題があろうはずもない。躊躇うはずがない。
生き物が呼吸するのと大差のないことなのだ。手足を動かすのと同様なのだ。だが、呼吸ほど容易くはない。手足を動かすよりも、多少難解な手順を踏まなければならない。
(やっぱり呼吸とは違うか)
カナンは苦笑して、その生まれ持った力の行使を全身に命じた。エンジェル・リングの展開。
(そう、エンジェル・リング)
カナンは、背後から視界へと差し込んできた光の目映さに目を細めながら、静かに納得した。背後に浮かんだ回転する光の環が、この無明の闇を切り裂き、カナンの体を照らし出していた。闇がどれだけ深く、暗かろうと、もその光を遮ることはできないようだった。
それは、無数の神秘言語が環を形成するように羅列されたものだ。人間や他の動植物が持ち得ざる器官。天使特有の器官。
自問する。
(じゃあ、俺は天使なのか?)
発光する不可思議な文字列によって、闇の中に浮かび上がった右手を見下ろす。人間のそれとさして変わらない掌には、傷ひとつ見当たらない。どれだけ目を凝らそうとも、人間となにひとつ違わなかった。だが、それはおかしなことではない。天使も悪魔も、人の姿に身をやつして降臨する。
左腕は失われたままだが、それもいまや問題ではなくなった。天使の輪が起動したのだ。魔法を紡ぐだけで復元されるだろう。復元さえしてしまえば、どうということはない。この闇を打破し、帰還するのだ。
ふと。
(……?)
カナンの脳裏に、なにかが閃いた。
(なんだ?)
一条の光。
(これは……?)
稲妻のようなきらめき。
(俺は……)
それはカナンの記憶の闇を彩る、幾多の輝きのひとかけら。