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第四夜 悪しき夢の淵へ(2)

《夢の国のカナン》。

 そう、確かそんな名前のドラマだったはずだ。人気ドラマの主人公の名前がカナンと同じということで、いじられることも多々あった。

 不意に、カナンの周囲が歪んだ。

 一瞬、あらゆる音が途絶え、目に映るすべての映像が乱れた。ほんの一時。刹那といってもいい。

(なんだ……これ?)

 突然訪れた奇妙な感覚の中でも、カナンは、街頭ビジョンを食い入るように見ていた。目をそらすことは許されない。そんな強迫観念が彼の行動を縛り付けていた。理由などわかるはずもない。

 街頭ビジョンに映し出されていたのは、主人公カナンと敵対する天使の戦いの場面だった。VFXの限りを尽くした大迫力の戦闘シーンは、この海外ドラマを一躍トップに押し上げた最大の要因だった。

 まるでハリウッド映画のような――とは、《夢の国のカナン》を評する上で、極めてよく使われる言葉であり、それこそ、このドラマのすべてであるかも知れなかった。

 ストーリーは陳腐なものであり、勧善懲悪からは程遠いにせよ、善悪二元論に終始する物語には批判の声も多い。

 が、それでも人気なのは、その陳腐でありきたりなストーリー展開にも、なんらかの魅力があるからなのだろう。

 街頭ビジョンでは、巨大な要塞の化け物のような天使が投擲した槍が、三つに分かれ、主人公の肉体を粉々に打ち砕いたところだった。

 カナンの左腕と、首筋、体の傷痕が疼く。

「先週の放送ね。主人公、あのまま退場するなんてことはないわよね?」

 沙羅の言葉など、もはやカナンの耳から滑り落ちるだけだった。不愉快な痛みの中で、なにかが、カナンの脳裏を駆け抜けていく。

 断片的なイメージ。

 遥か前方に浮かぶ《聖躯》の巨躯――投げ放たれた槍――対抗するための魔法――うかつな失敗――。

 それは、既視感というのかもしれない。

(なんなんだ……?)

 わけのわからない不思議な感覚の中で、それでもカナンは、街頭ビジョンから目を逸らせずにいた。見なければならない。見続けなければならない。そんな使命感にも似た衝動が、彼の思考を硬直させている。

 その街頭ビジョンでは、天使が勝利の凱歌を上げたところだった。

 場面転換。

 つぎのシーンは、謎めいた少女が走る姿からだった。漆黒の人波を掻き分けながら、ただとにかく前進する少女。彼女は、その夢の都の中心を目指している様子だった。

 夢の都ガルナバ。

 その工業区のメイン・ストリートを埋め尽くすのは、漆黒の葬列であり、沈黙の人波だった。一歩前に進むことすら困難に見えたが、それでも、少女は諦めていないようだった。

 ひたすらに、喪服の群れの中を掻い潜って前進する。中央部と周縁部を分かつ巨大な城門は、既に彼女の前方に見えていた。

 分厚い城門は開かれており、大量の葬列は、その中に吸い込まれるようにして入っていく。

 少女もまた、城門の中へ向かおうとした。しかし。

『駄目ですよ』

 栗色の髪の天使が、少女の進行方向に降り立った。その周辺の人波だけが、ぽっかりと穴が開いたように消え失せている。いや、それは少女の周囲も同様だった。

 天使。

 そう、天使。神の使いであり、光の使者であり、法の門番であり、天の尖兵たる人知を超越した存在。

 純白の衣を纏い、背に後光の如き光の環を浮かべ、右手には炎の剣を持ち、美しい顔には愛に満ちた慈母の如き表情を浮かべていた。

『これ以上は駄目』

 天使が、紅蓮と燃え上がる剣先を少女に向ける。しかし、少女はたじろがない。強いまなざしで、天使を見据える。

『どうして?』

 毅然とした態度で訊ねる少女に、天使が、透明な青さを湛えた目を細めた。

『それは――』

『その娘が夢の鍵』

 天使の言葉を断ち切るように降ってきたのは、居丈高な女の声であり、その美しい肢体だった。長い銀髪が流れるようにきらめき、画面を彩った。

『そういうことなんだろう?』

 天使と少女の間に降り立った女が、冷ややかに告げた。性別に関係なく魅了するほどの完璧な容姿を誇る、黒衣の美女。

『な!?』

 天使が、驚愕のあまりその美麗な表情を崩した。が、それも一瞬の反応に過ぎない。睨み据えながら、右手の剣を女に突きつける。

『なぜあなたがここにいる……リリス=ラグナガーデン!』

 名を呼ばれた女は、なぜか頬を赤らめながら、しかし、苛烈なほどの激しさで叫んだ。

『わたしを支配できるのはあのお方のみ。そこが例え地獄であろうとも、そこが例え夢の国であろうとも、あのお方がそれを望む限り―』

 天使へと踏み込む女の右手には、いつの間にか刀が握られていた。刀身が硝子のように透き通った刀は、特殊効果で青く発光しているようだった。

『わたしはわたしだ!』

 女が宣言と共に繰り出した神速の斬撃は、天使に回避行動を取らせる間も与えず、その右腕を肩から斬り離した。

 暴力的なシーンは、このドラマの見どころのひとつだった。

 肩の断面から噴き出すのは、鮮血ではなく、閃光。奔流の如く噴出する光が、街頭ビジョンを白く塗り潰していく。

「おまえほど支離滅裂な奴が、ほかにいるかよ」

 あきれたままにつぶやいて、カナンは、はっと我に返った。自分の口から滑り出た言葉の意味が、まるでわからない。

 天を仰ぐ。

 雲ひとつ存在しない空は真っ青で、カナンの心に生じた不安を吸い込んでくれるような気がした。

 しかし、それも一瞬のことに過ぎなかった。

 不意に、カナンの視界に光が差し込んできた。爆発的な輝きは、すぐ右隣から――。

「!」

 カナンは、沙羅を振り返った瞬間、驚愕のあまり言葉すら出なかった。

「どうしたの? カナン君。わたしの顔になにかついてる?」

 沙羅が、小首を傾げる。いつもの微笑を浮かべて。いつもの優しい声音で。

 いつもと異なるのは、右腕がいつの間にか失われていたことであり、その肩の傷口から、強烈な光が、鮮血のように迸っていることだった。

 さっき見た海外ドラマの天使そのままに。

 しかし、沙羅は、そんなことに気づいていないかのように笑っていた。

「なんなんだよ、いったい!」

 混乱とともに叫んで、カナンは、沙羅の変わらぬ微笑に恐怖すら覚えた。なにが起きたのかはわからなかった。目の前の人物が、ドラマの中の人物とまったく同じ状況に陥るなど普通ではない。異常事態。それもかなりの。

 沙羅は、変わらぬ笑を湛えたまま、優しい言葉を投げかけてくる。

「さっきからどうしたの? だいじょうぶよ、なにも怖くはないのよ?」

 なんともいいようのない微笑。彼女の置かれている状況さえ考えなければ、ずっとその笑顔を見ていられただろう。それはそれで幸福な時間に違いない。何も考えず、至上の笑顔を眺めていられるのだ。至福と言ってもいい。

 だが、カナンは、静かに後退りした。圧倒的な誘惑をなんとか振り払い、彼女と距離を取ろうとする。そうしなければならない気がした。いますぐ沙羅から逃げ出さなければ、なにもかもが失われる――そんな予感があった。確信に近い。

 カナンはふと、交差点を行き交うひとびとの視線がこちらに集中していることに気づいた。

 それは当然の出来事に違いない。

 女が、右肩から光を放出しているのだ。尋常ではない。驚いて目に止めることは愚か、ちょっとした恐慌が起きたとしてもおかしくはなかった。女の肩から光が噴出しているのだ。街頭ビジョンに映し出された天使と同様に。

 しかし、違和感があった。

(いや……?)

 カナンは、改めて衆人の視線が向かう先を確認した。手を繋いで横断歩道を渡る恋人たち、歌でも口ずさみながら踊るように進む子供たち、仲睦まじく腕を組む老夫婦、数え切れないほどの学生たち。それらすべてのまなざしが見据えるのは――。

(俺だ!)

 彼は、目を見開いた。視界が広がり、数多の情報が網膜から脳裏へと伝達される。夥しい数の双眸が、瞬きひとつせずにこちらを凝視している。それだけではない。無数の人の群れが、ゆっくりと、こちらに向かってくるのを認識する。その速度は遅々たるものだったが、彼らの目指すものがカナンである以上、このまま放っておくこともできない。

 カナンは、沙羅を一瞥した。

 光を放つ女は、歪な笑みを浮かべていた。見るものの神経を逆撫でするような、不安定な微笑。いつの間にそんな不気味な表情になっていたのだろう。さっきまでとは百八十度意味の異なる微笑だった。

 もしかすると、沙羅は最初からそんな顔でこちらを見ていたのかもしれない。

 カナンは、頭の中を過ぎった考えこそが正しいような気がして、愕然とした。そして、自分が多少なりとも冷静さを取り戻していることに安堵する。状況に飲まれてはいけない。自分を見失ってはいけない。

(自分……?)

 胸中で自問して、彼は、自分の頭の中に事故に関する情報がほとんどないことを思い知る。漠たる不安が圧倒的な勢いで押し寄せてくる。自分とはなんだ? カナンとはなにもので、なぜ、このような訳の分からない状況の渦中にいるのだろう。

 沙羅が、こちらの考えを見透かしたかのように言ってくる。

「あなたはカナン君。大きな事故で重傷を負い、わたしの働く病院に運ばれてきた少年――それ以外の情報なんて、必要ないでしょう?」

「いや」

 カナンは、即座にかぶりを振った。それは否定しなければならない。なんとしてでも。

「それじゃあ駄目だ」

「どうして? それでいいじゃない。楽園の日々を過ごすなら、それだけで十分でしょ?」

 沙羅は、笑みをまったく崩さない。いや、そもそも、彼女の笑みはとっくに崩壊していて、それが、カナンの意識を掻き乱すのだ。混乱がある、自分がなにもので、この世界がなんなのか。記憶に残るわずかばかりの情報が頭の中に散乱し、渦を巻いて混乱を加速させる。口をついて出る言葉は、本心なのかどうか。

「これのどこが楽園なんだ?」

 吐き捨てるように言って、カナンは、沙羅に背を向けた。駆け出す。瞬間、殺気を感じたものの、気配如きで動き出した肉体を止められるはずもない。

「待ちなさい!」

 沙羅の叫びは、悲鳴のようですらあったが。

「待てと言われて待つ奴があるかよ」

 カナンは、もはや止まらない。とてつもなく広い交差点を埋め尽くす人波を掻き分けながら、前進する。無数のまなざしは、カナンに張り付いて離れない。が、なにをしてくるわけでもなく、ただ、見詰めて、追いかけてくるだけだ。

 進行を妨げることもない。

『おまえたちは、あれで彼を倒したつもりらしいが、それはどうだろうな?』

 リリス=ラグナガーデンの冷笑が、頭上の街頭ビジョンから降り注いでくる。

 カナンは、その女の声が、ひどく聞き慣れたもののように想えた。突然に、だ。さっきまでは、なんとも思っていなかったはずなのに。だが、いまでは極めて愛しく、どうしようもなく憎たらしいものに想えた。

 この複雑な感情は、なんと呼べばいいのだろう。

『あんなもので、あんな頼りない兵器で、あのお方の奇跡の片鱗ですらない哀れな玩具で、彼が倒せるものか。殺せるものか。滅ぼせるものか』

 カナンは、ふと背後を振り返った。沙羅の動向が気になったのだ。しかし、カナンの視界を塗り潰すのは、虚ろな無数の双眸だけだった。意志なき瞳。まるで操り人形のようだ。

(沙羅は……?)

 木偶のようなひとの群れの向こうに、沙羅の姿は見当たらない。

『彼は、わたしが全力で以てしても滅ぼせなかった唯一の《悪魔》だぞ?』

 殺意は、頭上から――。

「駄目よ」

 カナンが振り仰ぐと、晴天を背後に浮かぶ沙羅の姿があった。背に光の環を負い、左手に炎の剣を握っている。右肩からは、いまだに光を放出し続けていた。

 まるでドラマの中の天使のように。

「あなたは沈む。この夢の果てに」

 沙羅の宣告が響くのと、カナンがなにものかに背後から羽交い絞めにされたのは、ほぼ同時だった。

「なんだよ!」

 カナンの動きを封じたのは、男の手であり、女の手であり、子供であり、老人であった。

 気づくと全周囲から、虚ろなまなざしのものたちが、カナンへと押し寄せてきていた。

「離せっ!」

 カナンは、全力で振り解こうとしたが、組み付いてきたものたちが離れる様子はなく、それどころか、より強く絡み付いてくるのだった。どう足掻いても外れない無数の手に苛立ちを隠せず、カナンは、怒号を発しようとしたが、止めた。止めざるを得なかった。

 頭上で、天使が剣を振り翳していた。紅蓮と燃える剣は、晴れ渡った空に浮かぶもうひとつの太陽のようにも見えなくはない。

「夢幻に眠りなさい。無限に。無限に」

 沙羅が、カナンに向かって落下してきた。燃え盛る切っ先をこちらに向けて、まっすぐに降ってくる。

 かわしようがない。

「なんだよ、これ」

 カナンには、嘆息しかなかった。諦観というわけでもない。逃れようのない結末を前に、しかし、悲壮感もなければ、絶望感もない。なぜだろう。

 夢を見ているような感覚があるからかもしれない。

 もっとも、その夢は悪夢には違いない。こんな夢が良い夢であるわけがなかった。良い夢というのはもっとこう、心地いい世界であるべきはずだ。しかし、彼の望んだ楽園などどこにもないのだということもわかっている。夢を望み、挑んだ。しかし、彼は敗北してしまった。敗残者が栄光を取り戻すことなど許されるわけがなかった。地の底へ落とされたのだ。底の底へ。這い上がることさえできない深淵へ。

「そうか……そうだった」

 カナンは、眼前に迫り来る炎の剣を見据えながら、自分というものを思い出し始めていた。愚かな夢を見て敗れ去った哀れな化け物。成れの果て。残骸。彼は、己がどういうものか思い知って、苦笑を浮かべた。そして、天使の炎の剣が頭部に突き刺さり、頭蓋を割り、脳髄を焼き尽くしていくのを認めた。

 そんな中でも、あの声だけは聞こえていた。とてつもなく懐かしく、忌々しいほどに愛おしい女の声。

 相対する天使を嘲笑う、光。

『この世で最も傲慢で、限りなく欲深な上に、狂おしいまでの嫉妬に悶え、燃え盛る憤怒に身を焦がし、情欲は尽きることを知らず、呆れるほどの怠け者にして、常軌を逸した大食らい――どうだ? こんな奴に勝てると思うか?』

(全然褒めてねえよ、それ)

 苦笑と共に、カナンの意識は紅蓮の炎に焼かれていった。


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