第四夜 悪しき夢の淵へ(1)
彼が目を開けて最初に認識したのは、白いということだった。
とにかく白いのだ。
なにもかもが白い。
天井も、壁も、床も、扉も、ベッドも、シーツも、彼が身につけている衣服も、白一色だった。病室だから白いのは当然だといわれれば、それまでなのかもしれないが。
ただ、風に揺れるカーテンだけが空色で、それだけがこの奇妙なほどの白さの中で、あざやかな色彩を帯びていた。
壁にかけられた白い時計を見ると、ちょうど十時を回ったところだった。窓の外は明るい。午前中には違いない。
彼は、上体を起こして軽く伸びをしようとしたが、左腕の肘から先が失われたことを思い出して、やめた。体を無理に動かすのはよくない、と医者から言われてもいたのだ。
十台半ばの少年だ。艶のある黒髪は長めで、深い睫毛に縁取られた青い瞳は、どこか醒めたように感じられるだろう。
体つきは貧弱ではないにせよ、痩せ型ではあった。その華奢な全身の様々な箇所を包帯で覆われており、重傷であることが伺われた。
まず目につくのは、左腕だろう。肘から先が綺麗さっぱり失われていた。
つぎに、首筋から頭部の左半分が包帯で覆い尽くされていた。
最後は、胴体。白い館内着に隠されており、外からは確認できないが、包帯が幾重にも巻きつけられていた。
「にしても、重傷だな……」
彼は、自分の体の有様に、呆れて笑うことしか出来なかった。それだけが、彼に許されたわずかばかりの自由だとも言えた。
彼は、みずからの意志でこの小さくて真っ白な空間から抜け出すことを禁じられていた。
理由は知らない。
聞いても、教えてくれないのだ。
理由など、無いのではないか。外出を禁止する理由も、病室に閉じ込めておく理由も。
そんな気がしてならないのだが、彼がそんなことを言うたびに、彼の女友達はこう告げるのだ。
「理由ならあるだろう?」
きわめて真面目くさった表情で。
「おまえが《悪魔》だからだ」
そして、腹を抱えて笑うのだから、質が悪い。
少年は、ベッドに仰向けに寝転がると、純白の天井と睨めっこした。その辟易するほどの白さを汚すために、右手を掲げて視界に入れる。
「《悪魔》……《悪魔》ねえ」
彼は、嘆息するようにつぶやいた。彼女の言うことを信用するわけではない。そもそもただの冗談に違いないのだし、そんなものがこの世に実在するのならば、一目お会いしたいものだった。
「《悪魔》なら、どんな願い事だって叶えてくれるもんな」
それは少し違うような気がしないでもなかったが、彼には、結局どうでもいい話に違いなかった。
日がな一日、この病的なまでに白い部屋で過ごすのは、あまりに退屈だった。窓の外を眺めても、見えるのはこの巨大な病院の私有地である森だけだった。この部屋の窓からはそれしか見えないのだ。どこまで行っても、木、木、木、木……。時折、森に生息する動物たちの姿が見えることもあるが、それだけだった。
青々とした広大な森は、時として彼の心に平穏をもたらしはしたが、それ以上の心境の変化など望むべくもない。森自体、常に変わらない姿でそこにあるのだ。見ているものもまた、変わりようがない。
外出は許されなかったが、見舞い客の出入りはほとんど自由だった。彼には、それがどうにも納得できないのだが、三日に一度は足を運んでくれる悪友のおかげで、気分転換ができているというのも事実だった。
もし、見舞い客の出入りすらも禁じられていたとしたら、とっくに気が狂っていたかもしれない。
ちょっとした事故で左手を失い、その上、自分まで見失うのは洒落にもならない。
事故。
そう、それは予期せぬ事故だったはずなのだ。彼が左腕を切断され、首筋と頭部、背中に重傷を負った原因。大惨事だったはずだ。でなければ、こんな状態になっているはずがない。だが。
(なんでだっけ……?)
彼は、この大怪我の原因について考えるたびに、首を傾げるしかなかった。記憶の中で、そこだけが靄がかかったように思い出せないのだ。
「いや――」
彼は、口に出して、考えを打ち消した。靄がかかってわからなくなっているのは、大怪我を負った事故に関する記憶だけではない。もっと多くの物事が頭の中から欠落していた。思い出せないのだ。。
が、だからといって、病院生活に支障が出るほどのこともなく、彼は、嘆息とともに右手を握り締めて拳を作った。その行動に意味などあるはずもない。癖というほどのものでもなかった。
不意に、病室のドアが軽く叩かれた。
「入りますよ」
ドアの向こう側から聞こえてきたのは、どこか緩やかな女性の声だった。
彼は、別に返事をするでもなく、伸ばしていた右腕をベッドの上に戻した。視線だけでそちらを見やる、
間もなく開かれたドアから入ってきたのは、まさに白衣の天使と呼ぶに相応しい看護士の女性だった。名は、確か御弾沙羅といったはずだ。彼女は、容姿端麗という言葉が似合う女性だった。長い栗色の髪に青い瞳。化粧が薄いのは、ここが病院だということが関係あるのかもしれない。もっとも、彼女にはメイクの必要性など皆無に等しかった。彼女の碧い目が、こちらを見る。
「カナン君、調子はどう?」
沙羅の親しげな話し方は、別に嫌いではない。むしろ、ある程度なれなれしく接してくれたほうが、彼としても気が楽だった。
「ま、いいんじゃないですか?」
彼――カナンは、上体を起こすと意味もなく笑いかけた。実際、調子自体は悪くなかった。体調は良好だったし、気分も悪くはない。いまのところは、退屈さに押し潰される様子もなかった。
「それならよかったわ」
沙羅がとびきりの笑顔を向けてきたので、カナンは思わず視線を逸らした。彼女の穢れひとつない笑顔は、カナンにはあまりにも眩しすぎて、直視することは愚か、覗き見ることすら憚られるような気がした。
「なにがですか?」
「カナン君の体調次第なんだけど、外出許可が下りたのよ」
自分のことのように嬉しそうな声音で言ってきた看護士に、カナンは、目を合わせざるを得なかった。
「えっ……」
透き通った青い虹彩。呼吸が一瞬止まる。
「病院の外に出ても良いってことよ」
沙羅が、にっこりと笑う。
「もちろん、付き添いは必要だけどね」
「今日は十月一日です!」
カナンが、白一色の病室を出たのは、入院以来初めてだった。あやふやな記憶の中でも、それだけは確かなことのように思えるのだが、実際のところどうだったのかなど、瑣末な問題に過ぎない。
「軽那葉市始まって以来のお祭り騒ぎという触れ込みのカルナバン・ドリーム・パレードまで後二日に迫ってまいりました!」
興奮気味の女性アナウンサーの声は、病院のロビーにある超大型モニターからのものだった。晴れ渡った大通りを流れる人波の中で、美人アナウンサーがマイクを片手に大興奮している様子が映し出されている。
とてつもなく広い空間だった。吹き抜けのフロアには、いくつもの椅子が並べられ、入院中の患者や通院者、あるいは見舞い客たちが、好き勝手にくつろいでいるようだった。カナンの個室とは異なり、必ずしも白一色で塗り潰されているわけもない。
超大型の液晶モニターに映し出されているのは、この病院のある都市であり、カナンが生まれ育った街でもあった。
軽那葉市。
四年前の独立宣言以来、国の内外からの猛烈な反発とバッシングに曝されながらも、物凄い勢いで発展してきたという。世界でも有数の未来都市として、夢の都と謳われている。
夢。
数多のひとの夢。
それは遊ぶことであり、学ぶことであり、働くことであり、生きていくことであろう。
そして、それら夢の結晶として、一夜限りの夢の宴カルナバン・ドリーム・パレードなるお祭りが、十月三日――独立記念日に開催されると言うことで、市内は愚か、世界各地でも大きな話題になっていた。
「ついに明後日ね」
沙羅が、アナウンサーの街頭インタビューを一瞥して、カナンに笑いかけてきた。カルナバン・ドリーム・パレードの話題は、ほとんどすべての市民を心の底から喜ばせるのだ。それは沙羅だって例外ではないし、カナンだって、軽那葉市民として嬉しくないはずがなかった。
「カナン君も楽しみ?」
沙羅の問いかけには即座にうなずいて、カナンは、彼女の姿にしばし見惚れた。彼女はカナンの外出に付き添うに当たって、私服に着替えていたのだ。淡いピンクの上着と、白のロングスカートが、彼女にはよく似合っているように思えた。
カナンもまた、着替えてはいた。黒いシャツにジーンズパンツというラフな格好だったが、失われた左腕と、首筋から頭部を覆う包帯はあまりにも痛々しかった。
大怪我そのものである彼へと注がれる視線は、好奇や興味、あるいは哀れみや同情といったものであり、カナンの心を少しばかり陰鬱にさせた。
もっとも、それも沙羅が着替えて出てくるのを待っている、ほんのわずかな間のことでしかない。
「行きましょうか」
沙羅に促されて、カナンは、ロビーを後にした。
「どこへ行くんですか?」
カナンが沙羅に訊ねたのは、病院の駐車場に停めてある沙羅の愛用する軽自動車に乗り込んでからだった。丸みを帯びた形状が可愛いと評判の人気車種だったが、カナンにはその真っ赤な車の名を思い出せなかった。
「特に決めてないけど……そうね、カナン君が行きたい場所ならどこでもいいわよ?」
車のエンジンを始動して、沙羅。最新型の自動車なのだろう。エンジンが駆動する音も聞こえなければ、車体がわずかでも震えると言うこともない。
甘い静寂が、この狭いふたりだけの空間に横たわっている。
「俺が決めていいんですか?」
「君の気晴らしのためでしょ?」
そう言って微笑する沙羅に、カナンは、胸が高鳴るのを覚えたものの、極力表情には出さなかった。
「えーと、じゃあ……」
カナンは、言葉を探すように車内を見回した。簡素な運転席とは異なり、後部座席には、愛らしいぬいぐるみたちが鎮座してた。翼を生やした四足獣たち。それは獅子であり、虎であり、狼であり、馬であり、羊だったりした。
「商業区とか……駄目ですか?」
「良いわよ。ウインドウショッピングくらいしかできないけど、気晴らしにはちょうどいいかな」
沙羅は、ひとり納得したようにいうと、車を発進させた。
軽那葉市は、人口約五百万の大都市だ。
長大な円周を描く城壁の内側に築かれた要塞都市であり、戦乱の時代、難攻不落の城塞として知られたという。
その時代の名残りはもはや、都市の外周に聳える高さ十メートルの城壁しかなかったが、それだけでも一目見る価値はあるらしく、城壁を見ることだけを目的とした観光客も絶えなかった。
市内は、業種や用途ごとに五つの区画に整理されており、中央に市庁舎を戴く直轄区、西に工業区があり、南に学業区、東に位置する興行特区は、軽那葉市最大の観光スポットとして賑わっている。
カナンたちの目的地である商業区はというと、軽那葉市の北部に位置していて、カナンが入院していた工業区の病院からは、車で三十分もかからない位置関係にあった。
沙羅の愛車の乗り心地は快適そのもので、カナンは、走り出して十分も立たないうちにうとうとと眠りかけたのだった。が、沙羅に話題を振られたことで事なきを得る。
せっかくの外出を眠りに落ちて台無しにするなど、笑い話にもならない。
「まるでデートみたいね」
沙羅が屈託なく笑ったのは、商業区のメイン・ストリートをふたり並んで歩いているときだった。十代の少年と二十代半ばの女性では釣り合いは取れていないが、デートに見えなくはないかもしれない。
カナンは、沙羅の言葉にどきっとして、慌てて目を逸らした。
商業区は、その名の通り商業に特化した区画であり、ありとあらゆる専門店が軒を連ね、数え切れないほどの百貨店が街の至る所に見受けられた。
カナンたちのいる大通りにも無数のショップが立ち並んでおり、それを目当てにしたものなのか、平日にも関わらず凄まじいまでの人波が大通りを埋め尽くしていた。
空は晴れ渡っており、雲ひとつ見当たらない。太陽は眩しくも暖かな光を降らせており、風も穏やかだった。
まるで小春日和だったが、現実には秋そのものだ。この季節感の無さは、この極東の島国においてはありえないことらしいのだが、軽那葉市を出たことがないカナンにわかるはずもない。
「カナン君は、どんな服が好みなのかしら?」
「服、ですか」
不意に話を振られて、カナンは、返答に困った。特に好みの服装などはなかった。着ることができればそれでよいのだ。
「強いてあげれば、黒、かな」
「黒かったらなんでもいいの?」
微笑する沙羅に曖昧な態度でうなずいて、カナンは、前方に視線を移した。
沙羅の運転する自動車は、夥しい数の人々でごった返す複雑な交差点に差し掛かっていた。ビルの壁一面に設けられた巨大な街頭ビジョンが、カナンの目に飛び込んでくる。その画面に映し出されているのは、なぜか、いま巷で人気の海外ドラマだった。街頭ビジョンでドラマを放送することなどありえるのだろうか。それも、海外ドラマだ。
天使と悪魔の戦いを題材にしたもので、名前は確か――。
「《夢の国のカナン》よね。わたしも毎週欠かさずに見てるわ」
沙羅の言葉が、カナンの頭の中で反響した。