第三夜 幻想虚構無限回廊(3)
降りしきる雨の中を、カナンは、傘も差さずに走っていた。何時間走っているのかはわからない。体は既に冷え切っていて、思うように動かない。が、それでも体力余裕があるのは、きっとこれが現実ではないからだ。
(そう、これは夢だ)
カナンは、工業区の迷路のように入り組んだ路地を駆け抜けながら、胸の内で確信していた。
だれかの夢。
見慣れた街の景色すらも塗り替えるほどに降り注ぐ灰色の雨は、避けることなどできるはずもなく、その安易な考えを打ち砕くかのようにその激しさを増していく。
いま、カナンを突き動かすのは、本能ではなかった。みずからの意志で、鉄と鋼とコンクリートの迷宮を疾走している。
だれかに追われている、というのも理解していた。
この場面にも、見覚えがある。
(確かリリスのやつに追われてたんだっけ)
胸中つぶやいて、カナンは、軽く嘆息した。
結局彼女は、夢の中でも、壊れた人形のように振舞うしかないのだろうか。いの一番に救われているべきはずの存在が、煉獄の炎に身も心も焼かれている。
(夢も希望もないな)
とはいえ、カナンは、夢の中で踊っているのだ。だれかが描いた夢の世界で、とりあえず踊り続けている。
踊らされているよりはましだったが、それでも、釈然としないものを感じて、カナンは先を急ぐことにした。
とにかく、この状況を変えなくてはならない。
雨脚は強くなる一方だった。風が吹かないのは、救いに違いない。が、それすらも、姿の見えないだれかの思惑通りなのだろうが。
「いや」
カナンは、ふと足を止めた。土砂降りの雨が、周囲の建物の屋根や舗装された道路にぶつかって、破壊的な交響曲を奏でている。
身につけた衣服は愚か、全身ずぶぬれだった。水中にいるのと大差ない。いや、水の中を泳いでいるほうがいくらか有意義だろう。
「知っているはずだ」
滝のような雨水が口に入ってくることもかまわず、カナンは、頭上を仰いだ。天を覆う鉛色の空こそが、この夢の国の正体なのかもしれない。
夢と現を隔絶し、真実を覆い隠す群雲。
降り注ぐのは、雨のような夢。
地に流れ落ちてしまえば、もう二度と掬うこともできない夢の残骸たち。
その夢の亡骸の上に築かれた虚像の楽園。
だれもが夢の日々を謳歌しているのか。それとも、だれもが、たったひとりの男が描き出した夢の国を彩る端役なのか。
カナンは、再び、走り出した。立ち止まっている場合ではない。早く前へ進まなければ、この状況を打開できない。
(いや、そもそも、この夢の終点はどこだ?)
この逃亡劇の果ては、どこなのだろう。
そんなことを考えている間にカナンは、人通りの多いメイン・ストリートに辿り着いていた。
人波が、凄まじい。
杖をついた老夫婦、レインコートの子供たち、ひとつの傘を翳した恋人たち――だれもが、この豪雨の中を平然と歩いていた。
「夢にしたって不気味ね」
不意に聞こえた少女の声に、カナンは、背後を振り返った。すぐ後ろで、黒いワンピースの少女が漆黒の傘を差していた。
「いつの間に?」
「ついさっき、あなたを見つけたの」
「なら、ちょうどよかった」
「?」
小首を傾げる少女に構わず、カナンは、彼女の空いている左手を取った。
「逃げるぞ」
「え?」
言うが早いか駆け出したカナンは、少女が、思った以上の身軽さでついてきたのを知って、胸中安堵していた。これならなんとかなるだろう。
「逃げるって?」
「じきにわかるさ」
人波を掻き分けて進むのは困難かに思えたが、実際のところ、さほど苦労することはなかった。
カナンたちの進行方向は、なぜか人波の隙間になっていったのだ。カナンが魔法で小細工を施したわけでもない。
まるで、なにかに導かれているような――
カナンの黙考を打ち破ったのは、遥か後方からの叫び声だった。
「そこのずぶ濡れ男! いますぐ立ち止まりなさい!」
「でないと、逮捕しますよ?」
聞き知ったふたりの女の声に、カナンは、苦笑いを浮かべながら、それでも前進を止めなかった。
だれに呼び止められても、いまは、進むしかないのだ。あるかわからないゴールを目指して。
「カナン」
「ああ」
少女に言われるまでもなく、カナンは、気づいていた。
滝のように降り注いでいた雨が上がり、大通りを埋め尽くしていた人波が、いつの間にか消え失せていたのだ。
夢見るものの演出なのだろうか。だとしても、つまらない演出だと、カナンは思った。
「おとなしく捕まりなさーい!」
「でないと、撃ちますよ?」
またしてもふたりの叫び声。
カナンは、呆れながら後方を一瞥した。警官の格好をしたエリザ・ベスと、サラ・ブレッドが、全力疾走でこちらを追いかけてきていた。
ふたりのあまりにも不釣合いな格好に、カナンは、冷ややかに告げるしかなかった。
「馬鹿馬鹿しい」
足を止めて、カナンは彼女たちに向き直った。少女を背後に庇いながら、左手を掲げる。右手は、少女の左手を握っている。
「そろそろ茶番は終わりにしよう」
カナンは、エンジェル・リングを展開した。無数の神秘言語で形成された光の輪。
エリザが、足を止めて、こちらに対峙する姿勢を取った。ミニのスカートから覗く太腿が眩しい。彼女の背後に、エンジェル・リングが発現した。
「茶番?」
「それはあなたが夢に従う、ということですか?」
とは、サラ。エリザから少し離れているのは、連携のためだろう。こちらのスカートは膝下まであった。サラの背部にも、光の輪が浮かび上がる。
ふたりが術式を編み上げていくの認めて、カナンは、つとめて軽い口調で言った。
「力天使エリザール、力天使サラシェル――おまえらじゃ俺には勝てない」
カナンは、ふたりの天使が、それぞれ高威力の魔法を放ってくることを確認すると、透かさず少女を振り返った。
「?」
「逃げよう!」
カナンは、唖然とする少女に言い訳することもなく、彼女の華奢な体を両腕で抱え上げた。
いわゆる、お姫様抱っこ、である。
「カナン!?」
「このほうが速い!」
赤面する少女に有無を言わさず、カナンは、もう一度、力天使たちを振り返った。婦警姿の天使たちの魔法が、完成する。
「切り裂け宝刀!」
エリザールが右腕を真横に振るったのは、呪文の結尾を叫ぶのと同時だった。腕の軌道上に発射されたのは、膨大な力によって紡がれた真空の刃。
「はっ、凄いな!」
馬鹿にするわけでもなく叫んで、カナンは、即座にその場で跳躍した。無論、少女は抱えたままだ。
刹那、カナンの足のすぐ下を、真空の刃が通り抜けた。物凄まじい破壊音が、連鎖的に鳴り響く。町全体を揺るがすほどの轟音、である。
「やりすぎだろ」
カナンがぼやいたのは、エリザールの魔法によってカナンの逃走経路上の建物という建物が、ことごとく粉砕されていたからだ。
メイン・ストリートに立ち並んでいた喫茶店や、ブティック、雑貨店など、魔法の進路上にあったあらゆる建物が上下真っ二つに両断され、倒壊していた。濛々と立ち込める粉塵は、まるで濃霧のようですらあった。
カナンは、多少の冷や汗を背中に感じた。一瞬でも反応が遅れれば、カナンの体がばらばらになっていたかもしれない。
(その場合、夢の場面が変わっただけか?)
リリスの魔法に蹂躙されたときのように。
カナンは、首を横に振った。今回は、そうではないような気がした。なにかが、さっきとは違う。
なにが、なのかはわからないが。
そのとき、サラシェルの囁くような言葉が、なぜかカナンの耳元に閃いた。
「銀の月に踊る子猫」
カナンの後頭部に強烈な衝撃が走った。と、思ったのも束の間、痛烈な衝撃は、カナンの背中や肩、臀部や足に生まれ、中空の彼を吹き飛ばす。
「くう!?」
激痛の連鎖は、カナンの全身を苛み、正常な感覚を奪っていく。猛烈な衝撃の渦の中で、カナンは、相手の魔法がなんであるか察知することもままならない。
ただ、少女の小さな体を庇い続ける。
カナンは、いつも通りの自分のうかつさを呪いながら、少女の耳元に囁きかけた。
「どうやら俺は、君を巻き込んだらしい」
「いいえ。あのひとたち、最初からわたしを巻き込むつもりだったわ」
少女が、笑う。その笑顔の奥に、永遠の孤独にも似た儚さを認めて、カナンは、目を細めた。
「……そうかもな」
激痛の嵐の中で、カナンは、速やかに術式を構築した。神秘言語という理解の範疇を超えた言霊の群れを、一定の法則に従って配列していく。
もっとも、その極めて難解で複雑怪奇な作業は、エンジェル・リングという天使特有の霊的器官がほとんど行ってくれるのだが。
だからといって、カナンがなにもしないわけではない。魔法の詳細なイメージを描くのはカナンの頭脳であり、カナンがさまざまな局面に対応した魔法の設計図を描き出せなければ、結局は同じような魔法を使うことしか出来ないのだ。
それは、戦闘能力の大きな欠如と言わざるを得ない。
そんな中でも、加速する痛みは、衣服を引き裂き、皮膚をそぎ、肉体を削っていく。だが、それでもカナンの意識は乱れなかった。
研ぎ澄まされた感覚は、痛みをより激しく訴えてくるが、もはや彼には関係のないことだった。
彼は、戦闘に集中すれば、ある程度の痛みなど意識の外に置くことができた。
そして、エンジェル・リングが歌い出す。
カナンは、言葉を発した。魔法を完成させるために。
「紅蓮の王よ」
「まったく」
カナンの足元から噴き出した真紅の爆炎が、まるで意思を持つ生き物のようにうねりながら増殖し、サラシェルの魔法を打ち砕いていく。
やがて紅蓮の炎は形を変えた。憤怒の相をした巨人の如き姿へと。
擬似召喚術式――。
「君は途方もないなあ」
クオン=シオンは、眼下の光景に嘆息を浮かべるしかなかった。
カナンが一瞬で作り上げた術式は、極めて複雑に入り組んだ神秘言語の連鎖であり、それは一見すると幾何学的な、あるいは芸術的な美しさを持ち、見るものの感情を圧倒するのだ。
こんな相手に勝てるわけがない、と。
「たった一つのリングでこれだ」
クオン=シオンは、笑った。笑うしかなかった。すべての力を解放したのなら、どうなるというのだろう。
「彼女らには無理だよね」
悪戯っぽく笑いながら、彼は、全長五メートルほどの紅蓮の巨人が、力天使たちに向かって進攻を開始するのを認めた。
「でもそれは、普通なら、の話」
工業区のメイン・ストリート。工業区の北側の建物群は、エリザールの魔法によって薙ぎ倒されてしまった。廃墟のような町並みが見える。
それも、問題ではない。
つまるところ。
「ここは夢の世界」
常識も道理も通用しない、理不尽で不可解な幻想領域。
それが、この世界のすべて。
「さあ、見せてごらん」
クオン=シオンは、ただ見ていた。遥か上空で、雲を足場にして逆さまに立つように。
「君たちの忠誠心って奴をさ」
紅蓮の炎が象ったのは筋骨隆々たる巨大な男であり、燃え盛る火炎そのものを表すかのような荒ぶる鬼神の如き相貌をしていた。
それは、吹き荒れる氷塊を吹き飛ばすと、カナンが術式に組み込んだ命令のままに、力天使に向かって進軍を開始した。
足取りは重い。だが、五メートルを越す巨人である。その歩幅はきわめて広く、天使たちとの間合いを詰めるのに時間は掛らないだろう。
「行くぞ!」
カナンは、歩き出した巨人を見送ることもせずに駆け出した。その必要はない。カナンの腕の中で、少女が口を開いた。
「東へ」
「直轄区?」
「ええ」
「そこになにかあるのか?」
「わからない。けれど、あの葬列が向かっていたのは、市庁舎……」
少女の言葉が、カナンの記憶を呼び覚ました。脳裏に投影されるのは、雨の中、延々粛々と続く喪服のひとびとの行列だった。
「あの夢は、わたしになにかを教えてくれていたわ。もう少しで、思い出せそうだった――」
世界が揺れた。上下左右。激烈な振動と共に、天変地異でも起きたかのような衝撃が、カナンの全身を襲った。
魔法の防御など、間に合うはずもない。
天が漆黒の闇に覆われ、空気が沈み、冷え切っていく。鳴動は終わらない。
雨音が聞こえた。
それは、瞬く間に嵐の如く吹き荒び、やがて。
「これは……!」
カナンは、突如開けた視界に映る周囲の景色に、多少の驚きを覚えた。元より、ここが夢の世界であることは了解していたものの、その変容の直後まで意識が続いたことはなかった。
いつだって、その場面に適した記憶が植えつけられ、その記憶を基準にしたカナンという存在になっていた。
いまは、違う。
「葬列……」
曇天から降りしきる冷雨の中、喪服の人々が長蛇の列を作っていた。
凄まじい人の数だった。そのだれもが黒ずくめであり、だれかの死を嘆き、痛み、悲しんでいた。
沈黙と静寂が、喪服の街を包み込んでいる。
不規則な雨音と、整然とした足音だけが、街を彩っていた。
「この先になにがある?」
カナンは、少女を抱えたまま、走り出した。雨などは何の障害にもならない。問題は、前方を埋め尽くすほどの葬列である。
だれもが心から嘆き悲しんでいるからなのか、その速度は非常に遅かった。遅々として前進しない。市庁舎を目指すならば、その脇を進むしかないのだが、それも難しいように思えた。
さっきまで、横四列の行列だったのが、気づいたときには五列、六列と列が増えていていた。そのうち、参列者だけで大通りを制圧するだろう。
そうなると、メイン・ストリートを走るなんてできるはずもない。
「だったら!」
カナンは、ひとを掻き分けるように進みながら、天を仰いだ。無数の傘の隙間から、鉛色の空が覗く。降りしきる雨は、激しさを増していく。
「どうするの?」
「こうするのさ」
カナンは、地面を蹴るようにして跳躍した。ただの跳躍ではない。常人を遥かに凌駕する跳躍力だった。
その間に、エンジェル・リングの歌声が、カナンの紡いだイメージを魔法へと構築していく。
重力の中和、及び空中での姿勢制御、推進力の強化――即ち《飛翔》。
「翼よ!」
カナンの背中から、光で形成された一対の翼が生えた。それは一度羽ばたくと、カナンの体にかかる重力を軽減し、彼の体をさらなる高みへと押し上げていく。
「ねえ、カナン」
雨空へと上昇していく最中、少女が、カナンの襟元を強く握った。振り落とされないように、かも知れない。
「なんだ?」
カナンは、眼下に広がる光景を注視していた。工業区の全体像が見えるほどの高度にまで上昇していた。もはや、なにものにも邪魔されることなく直轄区に向かうことができるだろう。
夢の場面が移り変わってからの力天使たちの行方も気にはなったが、いまは、市庁舎へ向かうことが先決だろう。
そう思いながらも、カナンは、天使たちの奇襲を懸念して、エンジェル・リングをもうひとつ起動した。背後に浮かぶ光輪が、二重の同心円になる。
「あなたは……天使なの?」
少女の疑問も、もっともかもしれない。と、カナンは、工業区の町並みを見下ろしながら思った。工業区の至る所で発生しているらしい沈黙の列は、直轄区に向かってゆっくりと収束していく。
上空から見れば、直轄区を源流とした漆黒の河が、無数の支流に枝分かれしながら工業区全域に流れているように見えた。
それは、葬列に動きが見られないからでもある。
まるで、参列者全員が前進を拒絶しているかのようだった。
直轄区に辿り着くことを嫌がっているような――。
「……天使に見えるかな?」
カナンは、わざとらしくおどけるようにして、光の翼を広げた。背後に光の輪を浮かべ、背から光の翼を生やした少年。
一見すると、まさに天使そのものだろう。
「ええ」
肯定する少女の可憐な声を聞きながら、カナンは、飛翔速度を上昇させた。少女を抱く腕に力が篭るのは、仕方がない。
無論、少女への当て付けではない。悠然と空を泳いでいる暇などはないのだ。
目的地に急がなければ。
いつ、あの天使どもが襲い掛かってくるかわからないのだ。なるべく急いだほうがいい。
「俺は……」
カナンは、少女の問いに答えようとして、一瞬、口篭もってしまった。答えはある。だが、それが必ずしも正解ではないような気がした。
なぜかはわからない。
この夢の世界で、確かなものなどひとつとして存在しないからかもしれない。
(いや……)
カナンは、急速に高度を下げながら、かぶりを振った。低空飛行に移ったのは、直轄区と工業区を隔絶する巨大な城壁が見えたからだ。
確かなものは、ひとつだけあった。
「俺はカナン」
みずからの名前を口にしながら、彼は、それだけは紛れもない真実でそれ以外のすべては虚構のように想えた。
いま、この腕に抱く少女すらも。