第三夜 幻想虚構無限回廊(2)
雨が降っている。
灰色の雨。
凍てつくほどに冷え切って、街の色すら塗り替えていくようだった。
ここは工業区。
ガルナバに作り上げられたひとつの夢の形。
種々様々な工場が数え切れないほどに存在し、働くことを夢に見たひとびとが集う、鉄と鋼とコンクリートの迷宮。
その複雑に絡み合った迷路のような街の一角を、カナンは、ただひたすらに走っていた。全力で、脇目も振らず、本能の命じるがままに前進する。
なぜなのかはすぐに思い出せなかったが、とにかく、走り続けなければならないことは全身を駆け巡る焦燥感が必死に教えてくれていた。
「ったく、なんなんだよ! 今度はっ!」
だれとはなしに叫んで、カナンは、前方にひとの波があることに気づいた。入り組んだ狭い路地を進んでいるうちに、大通りに出ようとしていた。
ガルナバの西門から工業区を一文字に貫いて直轄区へと至る、まさにメイン・ストリートである。
当然、人通りは多いのだが、生憎の雨だ。傘を差した場違いのカップルや、レインコートの子供たち、店の軒先で雨をやり過ごそうとするひとびとの姿が見えた。
そんなひとたちの間隙を縫うように進みながら、カナンは、ひとつだけ疑問を浮かべた。どうして、工業区がこれほどの人出で賑わっているのだろう。
仕事に従事する人たちや、その家族だけでは、雨の通りを埋め尽くすほどの数にはならないはずだ。興行特区のように祭りがあるわけでもなく、商業区のように連日の特売があるわけもない。学業区のような学生天国ですらない。
ここは、働くことを生きがいとするものたちの街――
「待てえええええええええ!」
カナンの思考を吹き飛ばしたのは、聞き知った女の絶叫だった。振り返る。
「カナアアアアアアアアアアン!!!」
喉が張り裂けるほどに叫びながら追いかけてくるのは、リリス=ラグナガーデンそのひとだった。長い銀髪を振り乱しながら、ひとの波を掻き分けて追いすがってくる。
「もういい加減に諦めてくれよ」
つぶやきながら、なぜ追われているのかという肝心なことは思い出せない有様に苦笑する。心当たりすら思い浮かばないのには、呆れてものも言えない。
もしかすると、理由なんて存在しないのかもしれない。
大通りを行き交う人々が声を張り上げるリリスに注目しているうちに、カナンは、メイン・ストリートの向こう側――工業区の北側へ走った。彼女を振り切るための逃走経路を考える。
リリスに捕まれば、なにもかもおしまいなのだ。
光に満たされた宮殿から逃げ出したことで得た仮初の自由は水泡に帰し、この限りなく自在に躍動する肉体は幾重にも縛され身動ぎひとつ許されなくなるだろう。彼らは、逃亡者を喜んで迎え入れるほど、頭の緩い連中ではない。
「ん……?」
カナンは、ふと足を止めた。自分に関する重大な情報が、脳裏を駆け抜けていくのを感じた。頭の中を、凄まじい嵐が通り過ぎていくイメージ。脳内に浮かんだ無数の言葉が、幾多の名前が、夥しい数の記憶が、渦巻く暴風に巻き上げられて散乱した。
それをひとつひとつ拾っている暇はない。リリスの声が、すぐ背後に聴こえていた。周囲のひとびとの悲鳴と、恐慌も。
「俺って、いったいなんなんだ?」
カナンは、背後を振り向きながら、自分の頭の中に大きな空白があることに戦慄した。一際強く輝くのは、カナンという自己を定義する名前であり、記憶を乱す嵐の中でも、それだけは揺るがないらしい。
自分の名前以外に思い出せるものといえば、例えば猛然とこちらに向かってくる美女の名前であり、彼女の武装のすべてであり、彼女が発動した魔法の詳細である。
極めて精緻で複雑な、有体に言えば美しい神秘言語の構成が織り成す擬似召喚術式。《縛鎖の群狼》。
「って、魔法かよ!?」
カナンは、驚愕すると同時に、すぐさま視線を巡らせた。大通りを満たしていたはずの人波は、それの出現で蜘蛛の子を散らしたようになり、カナンとリリスの間には障害物ひとつなかった。多くの市民は、それの存在を目の当たりにして逃げていったが、それでも、遠巻きにこちらの様子を伺うものたちもいる。なにが起きているのか知りたいのだろうか。なんにせよ、人間には理解不能だろうが。
直線を突き進むリリスの背部に展開したエンジェル・リングに見惚れかけつつ、カナンは、彼女の周囲に六頭の銀狼を確認した。獰猛な野獣そのものの面構えを見せる狼たちの双眸からは、紅蓮の炎が噴き出している。
リリスの魔法を見るのは、ずいぶん久しぶりな気がした。それはきっと気のせいではないはずだ。彼女は、《封印都市》内では魔法を行使できない――
そこまで考えて、カナンは、はっとした。叫ぶ。
「リリス!」
リリスは、こちらに向かっての疾走を止めない。それは、散開した銀狼も同じだった。狼たちは、カナンを包囲するように大きく展開している。
「観念したか?」
リリスが笑う。こうなることが最初から分かっていたような、そんな笑み。カナンにとって気に食わないタイプの表情だった。しかし構わず、続ける。
「ここはガルナバだぞ!」
声を張り上げながら、カナンは、エンジェル・リングを発動した。脳裏に浮かぶイメージに適した魔法を具体化するために、エンジェル・リングが、神秘言語を術式化していく。
「だったらどうした!」
苛立たしげに、リリス。そのいびつな表情は、飄々としてなにを考えているのかわからない普段の彼女からは、程遠いものだ。とはいえ、実物が同じ顔をしないというわけでもなく、
「ここは《封印都市》ん中だぜ」
カナンは、右斜め後ろから音もなく飛びかかってきた銀狼の顔面に右足の踵を叩き込むと、続いて、頭上に左腕を掲げた。いつの間にか高く飛び上がっていた一頭が、上空から落下してくるのが見える。手の先に小さな光輪が生まれ、その中から爆発的に膨れ上がった光が、一条の光芒となって銀狼を飲み込んで、降りしきる雨を蒸発させながら鉛色の空に群青の穴を開けた。
なぜか、虹が生じた。
「だからそれがなんだと――!」
遂に怒気を発したリリスの両手には、ガラスの太刀が握られていた。太刀を翳して、カナンへと殺到してくる。
カナンは、笑った。両腕を広げて、いかにも彼女を迎え入れるように振舞ってみせる。心の底から、すべてを受け入れるように。
リリスの表情に、かすかな動揺が生まれた。
「すべては夢ってことさ」
カナンは、ふたたび笑った。銀狼の牙が左足首に食い込み、銀狼の爪が背中を切り裂き、
銀狼の咆哮が電光となって全身を焼き、リリスの刀が腹部を刺し貫くのを、ただ他人事のように感じていた。
なぜか愕然とするリリスの遥か向こうに、黒いワンピースの少女がさ迷っていた。
「はっ……つまんねえ夢だな」
激痛が、カナンの意識を徹底的に破壊していく。
頭上には、曇天がある。
雨はいまにも降り出しそうだったが、喪服の街は、これ以上黒く塗り潰せそうにはなかった。
喪服の街。
その日、夢の都ガルナバは、この都市始まって以来の静寂に包まれていた。だれもが悲しみに暮れ、嘆きと哀れみの色彩に染め上げられていた。
だれもが口を閉ざし、だれもが喪服に袖を通し、どれもがその葬列に加わっていた。
長い長い喪服のひとびとの列は、商業区、工業区、学業区、興行特区のいたるところで生じ、都市の中心部――直轄区・市庁舎へと向かっていた。
何百万人もの市民が、たったひとつの目標に向かって列を成している。しかも事故や騒ぎはまったく起きず、整然としたものだった。
「おまえだけ場違いだな」
工業区から伸びる葬列の中ほどに並ぶカナンは、すぐ隣を歩く少年を見て、うんざりと言った。周囲には喪服の市民が、無言のまま列の進行に応じて歩いている。
「だって、雨が降りそうなんだよ?」
クオンは、当然だとでも言わんばかりに、その真っ赤なレインコートを見せ付けてきた。「風邪引きたくないし」
「傘でいいだろ」
「いやだ」
「わがままな奴」
「カナ兄には言われたくないや」
十二歳になったばかりの少年の考え方ではないとは思うのだが、だからといって、こんな場所で喧嘩をしている場合でもない。
カナンは、軽く嘆息した。弟の事で嘆いているときではないのだが。
カナンを含め、だれもが喪服を身に付け、沈痛な面持ちで市庁舎へと向かうのには、このガルナバにとってきわめて重大な事件があったからだ。
それは、この都市の有様を根本から変えてしまうほどに重大な――
「これは……」
聞いたことのある少女の声に、カナンは、即座に視線を巡らせた。小さな声だった。普通ならば絶対に聴こえないほど小さい音。
だが、この暗い沈黙の中では、よく響いたのだ。
大通りの端に佇む黒いワンピースの少女が、どこか思い詰めたような表情で、この葬列を見ていた。
その虚ろな瞳に、一瞬だけ、光が走った。
「ああ、これは――」
「おおっと! リリス選手のカウンターが決まったああああっ!!!!」
腹を抉るような激しい痛みと、実況アナウンサーの耳障りな大声が、カナンの意識を呼び戻した。
リングの、上空。
(また……か)
胸中つぶやきながら、カナンは、腹部に強烈な蹴りを叩き込まれて、吹き飛ばされていた。相手の脚力が凄まじいだけではない。彼女の身に纏う全身鎧は、脚部もしっかりと覆っており、蹴りによる威力を助長していた。
胃液が込み上げてくるのをなんとか堪えつつ、リングに上手く落下する。
「また……?」
リングに着地したカナンは、脳裏に浮かんだ疑問を口にした。観客が、一瞬の空中戦に大歓声を上げる。常人では為しえないような攻防が上空で繰り広げられたのだ。
だれだって、驚嘆するか感嘆するしかなかった。
しかし、カナンが気になるのは、そんな些細なことではなかった。もっと大きななにかが、カナンの脳裏で蠢いている。
とても重大な、なにか。
それを掴むことができれば、きっとこのつまらない物語を終わらせることができるはずだ。
「そう、くだらない幻想なんだ、これは」
わずかに疼く頭を押さえて、カナンは、リリスの殺気が頭上から降ってくるのを認識した。鋭角的な攻撃意志。
「ライトニング・メテオ・キーーーック!!」
妙に甲高いリリスの叫び声が、広い闘技場に響き渡る。と、上空に浮かぶ彼女の全身が、眩いばかりの雷光に包まれ、リングに向かって物凄い勢いで落下してきた。
大気を引き裂きながら迫り来るリリスに対し、カナンは、驚きながらもため息を浮かべた。
「なんだよそりゃ」
それは間違いなく魔法だった。雷光の発生――及び脚部への付与――即ち……
「ライトニング・メテオ・キック? 長たらしい上に、ダサい」
半眼で告げて、カナンは、自身のエンジェル・リングを展開した。右腕を頭上に掲げる。雷光の塊は、すでに目前に迫っていた。
「障壁の構築――及び術式の解析――そして、分解――即ち破魔」
神秘言語の羅列たる光の輪が、凄まじい速度で回転し、カナンの望み通りの術式を構築していく。
それは一瞬。
まさに刹那の出来事に他ならない。
激烈な電光を帯びたリリスの脚は、カナンの掲げた右手に触れようとしていた。
「背約者よ」
カナンガ呪文の末尾を口にしたとき、彼がイメージした世界が現出した。
「!?」
驚愕したのは、きっと、リリス。
カナンの右手の先に、綺麗な光が波紋のように広がり、リリスの雷光蹴りを受け止めた。強力な魔法同士が衝突した余波が、電光の嵐となってふたりの周囲を盛大に飾り立てた。
観客たちの悲鳴とも嬌声ともつかない歓声が、吹き荒れる破壊の嵐の中でも聞こえた。
そう、破壊の嵐。
カナンの魔法障壁にぶつかったリリスの雷撃魔法が、周囲に無数の雷の矢となって飛び散り、リングに当たっては打ち砕いたのだ。
粉煙が舞い踊る。
「カナン貴様!」
リリスの叫び声は、こちらの意図を理解したからだろう。
「《封印都市》では魔法を行使できない。それがおまえを支配する理であるはずだ」
告げるカナンが創り出した魔法障壁に、美しい幾何学模様が浮かび上がった。すると、その紋様の中から、いくつもの光の帯が現れ、リリスの踵から足首へと絡み付いていく。
「そんなこと!」
「いや、そもそも、リリスならこんなうかつな魔法の使い方はしない」
カナンは、自嘲気味に笑った。
「うかつは俺の専売特許さ」
リリスに絡みついた光の帯が齎すのは、彼女が構成した術式の詳細である。神秘言語のひとつひとつが、カナンの頭の中に叩き込まれていく。
破壊力のみを重視した、歪で、不安定な構成。
リリスらしくは、ない。
「まったく、なにやってんだか」
カナンは、相手の魔法の解析が完了したのを認めると、開いていた右掌を握り締めた。
光の帯の膨張が導くのは、術式の破棄。
「おまえも、夢、見てるのかよ」
リリスを包み込んでいた雷光が硝子細工のように砕け散っていくのを見つめながら、カナンは、気づいた。
というより、思い出したといったほうが正しいのかもしれない。
「夢、か」
夢。
だれの夢なのだろう。
カナンは、だれが描いた夢を見ているのだろう。
いくつかの名前が浮かんでは消えた。頭の中に留め置くことが出来ないのだ。
カナンは、舌打ちした。
魔法の力を完全に破壊されたリリスが、カナンの魔法の支配から逃れるように身を捩った。後方へ、大きく跳躍する。
その姿は、絵になる美しさだった。が。
「いつまでも付き合いきれねーよ」
吐き捨てて、、カナンは、背後を振り返った。
「なあ?」
いつぞやの少女が、闘技場の壁にもたれるように立っていた。
「ええ」
少女の声は、はっきりと聞こえた。
カナンは、新たな魔法を構成し始めたリリスに背を向けて、リングを飛び出していた。審判の呼び声も、観衆の呆気に取られたような反応も、リリスの絶叫も、聞こえない。
「君は、だれだっけ?」
少女が、悲しそうに俯く。
「わからない。それを探しているの」
「そうだったな」
そう言って、カナンは、彼女の小さな手を取った。
「行こう」
「どこへ……?」
少女の声は、小鳥の囀りのように小さく、儚い。
だが、聞こえる。はっきりと、耳に届いている。
「さて、どこでしょう?」
カナンは、問い返すようにつぶやくと、後方を振り返った。審判員が、カナンのリングアウトでの敗北を宣言し、リリスの優勝が告げられていた。
夢の中で、空虚な宴は続いていく。
「カナン!!」
リリスのすがるような叫び声は、カナンには、懐かしく、そして哀しい響きを伴って聞こえた。
それは、少なくともリング上の彼女が、実際のリリスの情報を元に構築された存在だという証明かもしれない。
「哀れなリリス」
カナンはつぶやきながら、世界が変動していくのを認識した。
夢が移ろう。